第5話『社員の役に立ちたいよね!?』
男は一瞬の動揺を振り払うように、さらに強く拳を握りしめた。全身の血管が浮き上がり、その周囲から生々しい蒸気が立ち昇る。
「この程度の防御で……!」
渾身の一撃が再び放たれる。地下倉庫の照明が明滅し、配管から水滴が落ちる。しかし楔は、相変わらずの笑顔のまま右手を軽く上げた。
「黒典Ⅲ章──『楔槍』」
楔の言葉と共に、虚空が光を放つ。それは一瞬で形を成し、鋭い楔となって男の足元を襲う。
「ちっ!」
男は踏み込みを躊躇い、わずかに体勢を崩す。その一瞬の隙を、楔は見逃さない。
「黒典Ⅲ章──『重楔撃』」
頭上から巨大な楔が出現し、重力に導かれるように男を打ち付ける。衝撃で床が抉られ、地下倉庫の基礎そのものが軋むような音を響かせる。粉塵が渦を巻き、視界が一瞬白く霞む。
「おっと、ちょっと強すぎたかな?」
楔の声には、まだ余裕が感じられた。しかし──。
煙の向こうから、重い足音が響く。男は、その衝撃をただの腕の防御だけで受け止めていた。その腕からは蒸気が渦を巻き、筋肉が不自然に蠢いている。
「この程度がどうした。俺の力は……まだまだ上がる!」
男の叫び声と共に、その体が更に膨張していく。肌が赤く染まり、血管が浮き出るほどの異常な状態。紗羅は息を呑む。その姿は、明らかに人の領域を超えていた。
しかし楔は、そんな男を見て首を傾げただけだった。
「へぇ」
彼は笑顔のまま、ゆっくりと歩を進める。その一歩一歩に、男の表情が強張っていく。あれほどの力を纏っているはずなのに、楔のその佇まいに、言いようのない威圧を感じていた。
「なんでそんなに焦ってるの?」
その問いに、男の動きが一瞬止まる。そして──。
「貴様ぁっ!」
男は咆哮と共に渾身の力で地面を踏み鳴らし、楔目掛けて突進する。その一撃には、もはや技術も何もない。ただ純粋な破壊衝動だけがあった。
だが。
「もうちょっと落ち着こうよ」
楔は右手をゆっくりと上げ、まるで何かを包み込むような仕草をする。
「黒典Ⅲ章──『螺旋楔』」
虚空から現れた無数の楔が螺旋を描き、男を中心に収束していく。男の突進が生み出す衝撃と、楔の力が激突。その瞬間、光の帯が空間を引き裂くように走り、地下倉庫を白く染め上げた。
紗羅は無意識に目を見開いていた。目の前で繰り広げられる光景は、もはや人間同士の戦いの領域を超えていた。それは、まるで異なる次元の存在が干渉してきたかのような光景だった。
閃光が収まると、男の姿が再び現れる。全身から立ち上る蒸気が地下倉庫の空気を歪ませ、その呼吸は獣のように荒い。
「黒典Ⅲ章──『楔連鎖』」
楔が宣言すると、空間が銀色の光を放ちながら蠢く。そこから現れた無数の楔が、まるで生命を持つかのように蛇のように蠢きながら、男の周囲を取り囲んでいく。
「くっ……」
男は全身の力を振り絞り、楔の束縛を振り切ろうとする。筋肉が更に膨張し、血管が浮き上がるほどの力で、楔を引きちぎろうとしていた。
天井から砂埃が落ち、地下倉庫の壁が軋む。男の全身から立ち上る蒸気が渦を巻き、その姿は人というより、もはや怪物じみていた。
「この程度の拘束で……!」
徐々に楔にひびが入り始める。その強靭な力の前に、楔は少しずつ、だが確実に形を歪ませていく。
「おっと、結構粘るね。でも」
楔はまるで子供の遊び相手をするかのような表情で、静かに右手を上げる。
「そろそろ終わりにしようか」
「黒典Ⅲ章──『楔牢獄』」
周囲の空間が大きく歪み、まるで万華鏡のように光を放つ。無数の楔が縦横に組み合わさり、幾何学的な模様を描きながら、男を中心に収束していく。
その瞬間、男の動きが止まる。全身から立ち上っていた蒸気が静まり、膨張していた筋肉も徐々に元の大きさに戻っていく。
「……この、力が、効かなく……」
力を使い切ったのか、それとも楔の力によるものか。男の意識が遠のいていくのが分かった。
紗羅はその光景を見つめながら、戦慄を覚えていた。さっきまで圧倒的な力で自分を追い詰めていた相手。その相手を、楔はまるで遊ぶかのように制圧した。
(この力は……一体)
楔は振り返り、彼女に笑顔を向けた。
「どう? 僕、役に立った?」
その無邪気な笑顔は、先ほどまでの戦いが嘘のようだった。紗羅は言葉を失ったまま、目の前の少年を見つめることしかできない。楔の存在そのものが、彼女の全ての常識を覆していた。