第3話『やっぱりメリットが必要だよね!?』
翌朝、紗羅は学校の校門をくぐった。冷たい朝の空気が、まだ筋肉の凝りが残る肩を刺す。昨夜の任務の緊張感が完全には抜けきらない中、今日も彼女は優等生という仮面を被らなければならない。
(こんな時に学校なんて……)
教室に入ると、いつもの静かな空気が紗羅を包む。クラスメイトたちは、彼女に話しかけることはない。近寄りがたい雰囲気と優秀な成績。それは、彼女が意図的に作り上げてきた壁でもあった。
自分の席に座り、窓の外を眺める。次の任務の内容を頭の中で整理しながら、表情には何も出さない。ただ、机に置かれた教科書を開く仕草も、ノートを取り出す動作も、全てが完璧な優等生のものだった。
しかし、その静謐は長くは続かなかった。
三時限目が終わり、教室が休み時間の喧騒に包まれ始めた時──。
「紗羅、いい加減、僕の秘密結社に入らない?」
声のする方を見ると、教室の扉の外から楔が顔を覗かせていた。相変わらずの無邪気な笑顔。まるで昨夜の出来事など、どこかの夢物語のように。
「……またそれ?」
紗羅は冷たい目で楔を見た。彼女の周囲の空気が、一瞬で凍りつく。
「もちろんだよ! だって、君は絶対に必要だからね!」
「何を根拠に言ってるのか分からない」
「君の名前がカッコいいでしょ? それに雰囲気もあるし、絶対受付にぴったりだよ」
楔は無邪気な笑顔を浮かべてそう言った。その態度は、まるで昨日までと変わらない。
「あなたに付き合っている暇はない」
紗羅は鞄を手に取り、立ち上がる。だが、その瞬間――。
「じゃあ、取引をしよう!」
楔の声のトーンが、わずかに変化した。
「……取引?」
紗羅は思わず足を止める。その言葉に、直感的な警戒を感じていた。
「そう、メリットがないとダメなのかと思ってさ」
楔は胸元から黒い手帳を取り出した。一瞬、紗羅の心が跳ねる。それは、ただの手帳のはずなのに、どこか不穏な存在感を放っていた。
「ほら、見てみて」
楔は手帳を開き、紗羅の前に差し出す。そのページには、緻密な地図と、彼女の知らない情報が記されていた。
「今日、この倉庫で牙影会の集会があるんだよね? でもこの建物、実は地下に秘密の通路があって──」
紗羅の瞳が僅かに揺れた。彼女が受け取った情報にはない内容。しかも、それは牙影会の内部構造に関わる機密事項のはずだった。
(どうして……どうしてこんな情報を)
動揺を悟られまいと、紗羅は平静を装おうとする。だが、その表情は普段の「優等生」のものとは微かに違っていた。
「……どうしてあなたが、その場所を知っているの?」
紗羅の声は、意図せず普段より低く沈んでいた。
「ん? だって僕は秘密結社のリーダーだから!」
楔は相変わらずの無邪気な笑顔を浮かべている。だが、その目はしっかりと紗羅の反応を観察しているようだった。
「この情報、君の役に立つんじゃない?」
楔は当然のように言った。紗羅は一瞬、言葉に詰まる。
今まで、誰かが彼女の役に立とうとしたことなど、なかったから。
「……なぜ、私に?」
その問いには、戸惑いが滲んでいた。紗羅自身、なぜそんな質問をしたのか分からない。いつもなら、こんな会話を続けることさえしなかったはずなのに。
「君が必要だから、かな」
その何気ない言葉が、紗羅の胸に引っかかった。必要。その一言は、彼女が今まで感じたことのない響きを持っていた。
「これをどうするつもり?」
「君がそれを必要としてるんじゃないかなって思っただけ」
楔の表情は柔らかいままだ。いつもと変わらない、けれど。
「……なぜそう思うの?」
「秘密結社だから秘密」
楔は人差し指を唇に当てて、ウインクをした。
紗羅は無言で手帳を返すと、その場を離れた。だが、心の中は激しく揺れ動いていた。
チャイムが鳴り、次の授業が始まる。黒板の文字を目で追いながらも、紗羅の思考は完全に別の場所にあった。
(私を道具として使うわけでもなく、見下すわけでもなく……あの態度は、一体)
今まで経験したことのない関係性に、紗羅は戸惑いを覚えていた。