第86話 悪辣
トーマの療養の日々は続いた。
あいかわらず大臭ジェドラムの根のせいで一日の大半はまどろみの中だったが、薬が抜けて目を覚ました時に食べる粥の量はだんだん増えていった。
マラヤナと、肉入り粥を作ってくれる中年女に世話をされることが多く、ディル・ペトラシュのようなやかましい連中はやってこない。なぜかタルガットだけはたまに見た。
起きて粥を食べるようになって5日目。昼過ぎに目を覚ましたトーマは自分で枕元の吸い飲みから水を飲んだ。医者が言っていた安静にしなくてはいけない期間は今日で最後だった。肘を使って上半身を起こす。腹の傷は縫合している糸がつっぱるだけでほとんど痛まなかった。
寝ている間に清められているらしく、股間に巻き付けられている綿布に汚れている感じは無い。トーマは一度うつぶせの状態になってからゆっくり立ち上がってみた。
少しふらつくが、何とか立てる。2、3歩足を前に出し、すぐに歩く感覚を思い出した。10日以上ほぼ昏睡状態だったのだから常人は同じまねをすべきではないが、トーマは筋肉が萎えてもその出力は3倍であり、体の頑丈さも3倍だ。
寝具の毛皮を体に巻いて、部屋の戸を開けて外に出た。
そこは大きな屋敷の中のようだった。丸い部屋の外は廊下だか部屋だかわからない場所。丸部屋の壁に合わせて歪な形になっている。
そこには食料品や鞣してある毛皮や脱毛革などが積み上げられ、倉庫のようになっている。というよりも、今出てきた部屋が元々倉庫であり、トーマのために荷物を運び出してもらった感じだった。
壁は部屋の中と同じ黄色味がかった煉瓦。床は板張りだ。二方向に廊下が伸びており、こういう場合進むのは北の方角だ。部屋の窓は南向きだったので、左に行けばいい。
トーマは急いだ。早くしないと間に合わなくなる。
調理場らしき場所を横目にさらに行くと、目論み通り発見した厠。便器のある個室と、男が小便をするための石で作られた小便器があった。トーマが用のあるのは個室の方。連日量が増えていく粥はトーマの体力を回復させ、胃腸の活動も健全化していた。
腹の傷に響かないように、慎重に時間をかけて、ゆっくりと用を足した。
きちんと始末をして再び綿布を腰に巻き付ける。脱いでいた毛皮を羽織る。今更だが、やっとマラヤナに下の世話をしてもらわなくてもよくなりそうだった。
晴れやかな気分で個室を出ると、小便器を使っている者が居る。うしろ姿でも「魔眼」は『魂の器』の種別を見極める。階梯30台半ばの【剣士】。フロルと同じく水精霊適正だけがある。
「え? レオニード?」
「え? あ、トーマ殿!」
行方不明のはずだった元衛士長は両手を前に、首だけを回してトーマに向かってハシバミ色の瞳を輝かせた。
療養中の部屋の中でトーマは敷き布団の上に座っていた。目の前に居るのはレオニード。そしてレオニードが呼んできたフロルだった。
トーマは左の膝を床につき、立てた右膝に両手のひらを重ねてその上に額を当てた。
「フロル。そしてレオニード。俺が一人でうろうろしていたせいでロベールに目をつけられ、連れ去られる時巻き添えになって、ソフィアさんは…… 殺されてしまった」
「……はい。聞いています」
答えるフロルの声に、激しい怒りや氷のような冷たさは無かった。その声音にはただ悲しさだけが漂っていた。
「俺の油断が無ければ、俺があの場に、土橋村に居なければソフィアさんは殺されなかっただろう。……本当に済まない」
「顔を上げてください。その時トーマ殿はラウラたちの計画を知らされないまま巻き込まれ、彼らを信用できる状況に無かったのだと聞いています。一人で居たのは必然であって、トーマ殿に罪は無い」
「トーマさん、本当に、止めてください」
「フロル……」
「その恰好、ちょっとあんまりだと思うんです……」
トーマは元通りの姿勢に座り直して、裸の体に毛皮を巻きつけた。
「トーマさんは命をかけてロベールを殺してくれました。本当は僕がしなければいけなかったのに…… トーマさんに対して僕は感謝こそすれ、責めるつもりはありません」
「いや、それをすべきだったのは私だ。そもそも母があんなことになった原因は、私にある」
「兄さん……」
「トーマ殿、ご存じかと思いますが私とフロルは父が違う。フロルの父アリストンは自分の子ではない私に対しても分け隔てなく愛情を注いでくれていた。それなのに、反発するように養成所に入った私は、不相応にも【剣士】などに目覚めて調子に乗った。自分に与えられた力で生きていくと自惚れながら、衛士として出世出来たのは実父と養父の威光のおかげでしかない。グロロウには私より階梯の高い【剣士】くらい何人も居ますから」
レオニードは今普通の皮上着を着ている。横に置いた剣もどこにでも売っている物。刈り上げていた金髪は少し伸びて、以前よりも若く見えた。20代半ばなら年相応の見た目だ。
「養父アリストンが殺されたとき、母はフロルを連れて一緒にグロロウを出ようと言ったのです。衛士長の座が目の前にあった私はそれを断りました。賢者としてクローヴィス閣下に育ててもらえるなら何の不満があるのかと、あの3人の様にならないように私が守ると、そう言って…… アリストンを殺したのが閣下であるという噂を聞いたのは、少し後でした」
兄弟はお互い見つめあった。レオニードが【剣士】でなければ。フロルが【賢者】でなければ。この二人とその父母の運命は違ったものになっていただろう。
「その後、母が土橋村に身を寄せてああいう結果になったのはつまり私のせいです。私が閣下の…… クローヴィスの悪辣さを見て見ぬ振りしたことで母を死に追い込んでしまった」
「兄さんは悪くないよ、悪いのは僕だ。僕が賢者なんかにならなけりゃ――」
「よせフロル、自分の魂を貶めてはいけない。父さんと母さんの間に生まれたお前の尊い魂が、根本の器たる【賢者】を花開かせたんだ。この先の長い一生で、お前は幾千の人々に希望を与えることになる。父さんも母さんも、絶対にお前を誇りに思うはずだ」
うつむいて、数秒。フロルは声を殺して泣いた。
フロルの涙が床にこぼれ、それを見てレオニードも一筋だけ涙を流した。
もう一つ謝るべきことを思い出し、泣き止むのを待ってもう一度トーマはフロルに向かって膝をついた。
「ほんと止めてください。というか嘘ってどういうことですか? 実際兄さんとは再会できましたけど」
そうなのである。ラウラに言われるがまま、フロルを連れ出すための材料として兄との再会をほのめかしたわけだが、結果としてこういうことになっている。
いったいどういう事情でレオニードがラウラたちと行動を共にすることになったのかを遠回しに聞いてみた。
「謹慎を言い渡されて5日後に、土橋村の内通者を名乗る男がラウラの手紙を持ってきまして、フロルの事はトーマ殿が守って連れ出してくれるから、二人の足手まといにならないよう、先にグロロウを離れろと。……え? その時点でトーマ殿は脱出計画を共有していたんですよね?」
トーマは微笑んで、あいまいに答えた。正直に答えれば要らぬ不和をもたらしてしまうだろう。よく考えているのか考えなしなのかわからない、悪辣な雌ヤマネコの顔が頭に浮かんだ。




