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第83話 ボリス

 トゥイースの街に向かって夜の闇に駆けてゆくラウラたちを見送って、ボリスはアクラ川に振り返った。迫りくるグロロウからの追手。

 やはり船頭として本職の【水の導師】の顕現精霊はボリスのものよりも泳ぎが早い。東岸に着くまでもう2分と言ったところか。

 まだ400メルテ近く離れているので、松明も持たないボリスの姿は普通なら見えないはず。【梟】であっても人が居ると認識できるかどうか、ぎりぎりと言ったところか。元々の視力次第だろう。



 破壊工作開始の合図に、グロロウ西門の隣の壁にでかい穴をぶちあけた『大爆地(アイナシーフォウ)』2発。そして大ナマズを(かたど)った顕現精霊魔法。

 最後にトーマの腹の傷の治療。余剰マナの半分近くまで消費してしまっていた。【魔蔵】の異能≪蓄積マナ量増加≫が無ければ空になっていたということになる。



 ボリスは革靴を脱ぎ去った。

 川岸を覆う湿った枯草を裸足で除けて、地面に足の裏からマナを流した。地精霊に同調させながら呪文を唱える。


願い奉る(モタティデジム) 悠久たる大地に眠(ヘトマーヨンヘヒリテ)る地精霊(ディゲノモス) 心のままにその(ジャ ファンプタス)御力を(アーリーン) 

 顕わに露わし(ヤーイーン ロボン) 現し象れ(ボーレリント) 我がマナを供物(ジェマナ ウェイタ )と納め(ムポスティ) 我が魂の願いを(モタテル ジェアール)叶え給う(マカミィサーリ)


 足元の地面が蠢いた。地中に地精霊が顕現し、呪文を唱え終わってもボリスの足裏から漏れるマナに戯れている。いつでもボリスの意図を読み取って動いてくれるだろう。



「早う来い。目にもの見せてやろう」


 彼我の距離は300メルテほど。弓なら届かないでもない距離。もっともよほどの腕でなければ当たらないし、当てられる気も無い。ボリスは長いあごひげを撫でつつ魔法の射程に獲物が入ってくるのを待った。



 鼻歌を歌いながら一分半。距離は30メルテまで迫った。向こうの松明の火でボリスの姿はもう見えているはず。

 この距離まで近づいてなお矢を射かけてこないのは、向こうに腕のいい射手が居ないということ。紫外套の風魔法使いの女が報せて、急遽かき集められた者らなのだろう。

 舟の数は4隻である。それぞれに7、8人の衛士や司法官部隊員が乗っている。


 ボリスは水が足に触れる位置まで川に近寄った。地精霊は付いてきている。

 膝をついてしゃがみ、川の水と地面の境目に両手を当てて、その両方に可能な限り大量のマナを流し込んだ。


請う(エルク) 地の精(ファンゲノモス) 我がマナを代償にシフディシチジェマナ 揺れ動き(ヴェリダヌス) 舞い上がり(イェンダブキ) 水と交わり戯れよドゥッキウンディレッパンタ

請う(エルク) 水の精(ファンウンディ) 我がマナを代償にシフディシチジェマナ 打ち震え(ジェベニッタ) 滲み通り(ローバンス) 地と交わって戯れよドゥッキゲノモスレッパンタ


 30年近く昔。親しかった領主ブルスタが年のせいか心を病み、それが気にかかってはいたがグロロウという街はまだ自由があった。街を訪れた賢者オーエンが、同じ精霊適正を持つ者のよしみと教えてくれた複合精霊魔法。


泥状禍(ディオローク)


 本来多めに水分を含んだ土地で使う魔法だが、こういう環境ならその効果は倍増する。ボリスから前方の地面、というよりも川の底面が地鳴りのように何度も激しく振動し、波打つ。

 ボリスから半径20メルテ、半円状の範囲の土壌が川の水と混じり合い、飛沫を上げつつぬかるみの大地と化した。

 丁度その位置でボリスを囲むようにしていたグロロウの舟の顕現精霊は泥の上に乗り上げ、しばらくびちびちと跳ね、形を失って消えた。



「失敗したなぁクローヴィス! 遠回りでも橋を渡ってきた方が良かったんじゃないか⁉」


 嬉々として、叫んだボリス。

 水神と称えられた大魔法使いから見て、中央右の舟にはクローヴィスが乗っていた。

 舟をきれいな水まで押し戻そうと乗員が飛び降りるが、ぬかるみの中に胸まで沈み込んでしまう。もがいても足掛かりは無く、残っている乗員の重さで泥に食い込んでいる舟はほとんど動かない。顕現精霊の守護を失っていることが彼らの焦りをいや増しているのだろう。


 悲鳴じみた喧騒の中。クローヴィスが舟の上で靴を脱いでいる。裸足を船の外に出し、一歩。

 驚く周囲の者には構わず、ボリスに向かってゆっくりと歩いて来た。その足元。

 足の裏が触れた所を中心に氷が張っている。


「泥状禍は優れた水魔法の使い手が地理的優位を得るための魔法だ。私に対しては意味が無い。耄碌(もうろく)したか、ボリス翁」

「さぞ足が冷たかろうな。能書きはいいからさっさと掛かってこんか。一人で何ができるか見せてもらおう」


 距離は10メルテ。お互いの魔法が届く距離。


「ボリス。なぜグロロウに反逆する。共同墓地に眠る家族に申し訳ないとは思わないのか」

「……貴様が、それを言うかっ!」



 クローヴィスが推し進めた蜂蜜酒の販売。それも伝統的な物ではなく蒸留によって強烈になったそれのせいで多くのグロロウ人が人生を踏み誤った。

 高価な酒を手に入れる為に罪を犯す者。酔って屋外で寝て凍死する者。


 ボリスにはかつて体の丈夫でない娘が一人だけ居り、孫娘を生んで無くなってしまった。孫娘の父親、つまりボリスの義理の息子は酒の毒で頭がおかしくなり、孫娘を絞め殺してしまった。7年前、孫娘は3歳であった。

 ボリスに残された唯一の肉親を殺したその男は、鉱山送りになって2年後落盤事故に巻き込まれて死んでいる。


 ボリスの妻が原因不明の病で突然亡くなったのはラウラが橋を作り始めた頃に合致している。

 突然訪れた妻の死。一切のしがらみを失ったボリス。

 ラウラに協力し孫の仇をとってくれと、妻が言っている気がした。



 クローヴィスが杖の頭の水筒から水を吹き出させ、それを身に纏った。複合精霊魔法の水精霊側の呪文を発声詠唱している。霜が降りたように全身が真っ白になり、風が巻き起こってクローヴィスをモヤに包み込んだ。


「改めて見ると、おっそい魔法じゃのう」


 とはいえ高速で回転するあの渦の中に魔法や矢などの遠隔攻撃を通すことは難しい。『大爆地』なら下から攻撃できるのだろうが、殺傷力が低いので発動を邪魔できるかも怪しい。そもそも『泥状禍』で作られた沼のような土壌で地魔法は使えない。


 『雷光(イカヅチ)』は発動までが遅くても攻防一体の魔法であり、攻略が難しかった。そして発動してしまえば防ぐ手段は少ない。


 高速回転する白いモヤから一条の青白い稲妻がボリスに向かって走った。辺りの闇が一瞬払われ、昼間のように明るくなる。耳をつんざく破裂音。

 ボリスの正面に突き出して魔法行使者を守った顕現地精霊が、稲妻に内部を焼かれて力を失い土塊に戻る。巨大なミミズの形の精霊だった。


 モヤが晴れ、何事も無かったかの如く立っているボリスを見てクローヴィスは驚いた顔を見せた。


「さすがだボリス、敬意を払おう。大人しく投降すれば命は取らない。快適な牢の中で、天才魔法士として過ごした人生の栄光を本にしたためてはいかがか」

「いやぁ、下らんのう。そんな無駄事に余生を費やしたくはない。今わしが稼いでいる時間。若者たちを遠くに逃がすための一分一秒。それこそが価値のある時間じゃ」


 「そうか」と呟いたクローヴィスの声には喜びのような、昂った感情があった。背後の松明が陰を作って顔は見えない。

 クローヴィスの広げた両腕の周りに風が巻き起こった。


 ボリスも杖頭の水筒の栓を抜いた。親指を突っ込み『水鞭(ニーロヴィーポ)』の呪文を思考詠唱しながら、残されたありったけのマナをその中に注ぎ込んだ。

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