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第82話 大臭ジェドラム

 ラウラが飛び乗って来た。20キーラムの斧を背負っているラウラの重さで小舟はまた大きく揺れる。


 ロベールはトーマの手首を放し、両手で剣先の刺さった首を押さえた。何か言おうと口を開いたが、出て来たのは大量の血泡。


「良い剣だなロベール」


 武技系の異能で強化されなくても高階梯の『器持ち』の体を容易に傷つける。黒ずんだ剣身は普通の鋼鉄ではない。


 股間が生暖かく濡れている感覚。軽口を叩いてる場合ではない。刃を力いっぱい握ったせいで傷ついた右手で腹を押さえるが、次から次に血が出てくる。

 足に力が入らなくなりトーマは船底に座り込んだ。

 同時に、水棲魔物がうじゃうじゃと棲むアクラ川にロベールは仰向けに落ちた。


「トーマ! 何これ、血⁉」

「……そうだよ」


 トーマを背後から支えたラウラが手を重ねて腹を押さえた。ラウラに続いて飛び移ってきたクルムが川に落ちたフロルを髪糸の束を使って引き揚げている。

 ロベールとトーマの数秒の戦いの間にも水中の顕現精霊は二隻の舟を背中に浮かせたまま泳ぎ続けていて、フロルはかなり離れてしまっていた。


「斬られたのか!」「嘘だろ?」

「え? 誰にです? え?」


 先を行く中型の舟の上で騒いでいる。ラウラの胸に頭を預けながら、トーマは焦った。この状態では≪書庫記載≫を満足にできる気がしない。

 ≪書庫≫の異能を使うにはただでさえ集中力を要するのに、記載はまだ実際にやったことがないのだ。このままトーマが死んだら、クローヴィスの企みは書庫に致命的な干渉が成されるまで発覚しない。最低限の役割が果たせない。



 フロルがクルムによって小舟の上まで引き上げられた。真冬の川に落ちたフロルはカタガタと震えている。12階梯しかないフロルはまだそこまで寒さに強くない。


「ラウラ、フロルを連れて前の舟に移れ。ペトラシュ、松明をよこせ」

「……」

「いうことを聞きなさい。早くトーマの傷を診たい」


 ボリスに言われて、ラウラはトーマから離れた。震え続けるフロルを抱き上げると2メルテほどの綱で繋がる前の舟に跳んで戻った。入れ違いにボリスが大股で乗り移る。ラウラと違って舟の揺れは最小限だった。


「クルム、松明を。手をどけてみろ、トーマ。一瞬でいい」

「……精霊、は……」

「一度頼めば対岸に着くまで勝手に泳いでくれる」


 船尾のクルムが松明で照らす。トーマは船底に仰向けに寝て、ボリスに言われた通り一瞬手を離す。へその真上に空いた穴から血が飛び出た。手を戻したが、力が入らない。無意味に握っていた左手の短剣を離して、両手でふさぐ。


「腹の大血管が傷つけられている。いいかトーマ、今からお前の体の血のめぐりを抑制する。意識が遠のくが、死ぬわけでは無いからな」


 そう言ってボリスは腰帯からナイフを抜き出して、自分の左手首を突き刺した。

 ナイフを仕舞い、ぎょっとするトーマの両手を腹から外す。それまで何事も無いようだったボリスの手首から、血の帯がまっすぐにトーマの傷口に吸い込まれた。

 血液を水魔法で操作しているということか。聞いたことも無い魔法運用だ。


 トーマの体の中に他人の魔法の媒介と化した液体が巡っていく。痛みで昂っていた意識がだんだん沈静化し、眠気のようなものまで感じだした。


「胃にも腸にも傷は無いようだ。助かるかもしれんな。まず大血管の傷を塞がねばならん。できるな?」


 ボリスの言葉に、クルムは袖口から髪糸を出した。

 トーマの体に注がれ続ける血の帯に沿って髪糸が腹の中に入り込む。

 小さな声でボリスに何か耳打ちした。


 「痛むぞ」の言葉と共に腹の中でボリスの血が暴れる。眠りかけた意識が再びたたき起こされる。


「患部の血管を周囲から剥離した。これで糸を巻き付けられる。血管が治って、糸を抜き取る手術までこれ以上痛いことは無いから、安心しろ」


 クルムの異能は糸を物体に接着するものだ。書庫内にすら記録の無い正真正銘の『不明種』。こういう風にも使える素晴らしい異能なのに、なぜ誰も知らなかったのだろう。ボリスと組んでの治療も初めての事ではなさそうだ。


「一晩と言わずにマナの持つ限り塞ぎ続けてやれよ? トゥイースまで運び、着いたら大臭ジェドラムの根を目いっぱい飲ませろ。しばらく昏睡するが、40階梯ならそうそう死なんだろう」

「腹の皮はどうします」

「皮も肉もしばらくは縫えないな。水魔法の巧みな医者に清め続けさせろ」


 クルムはボリスの顔を見ている。表情の少ない男だと思っていたが、松明の火に照らされる中年男の顔はなにか不安げにトーマには思えた。




 トーマの治療の間も舟の下の顕現精霊は泳ぎ続ける。トーマの腹はクルムの異能≪クモ≫によって外側からも塞がれている。ボリスは左手首にどこから取り出したのか包帯を幾重にも巻いていた。

 心臓の拍動が弱く、遅い。

 夢うつつの状態になりながら、時々痛みに覚醒することを何度か繰り返し、「着いたぞ」と誰かがいう声を聞いた。


 ボリスもクルムも飛び降りて、トーマが船底に寝ている小舟が川岸に引き上げられていく。角度がついて見える景色が変わった。


「……おい…… あれ……」


 トーマが力なく指さす先、今渡ってきたアクラ川の水面に松明の火が揺らめいている。その数は十近い。


「ちくしょう! ちゃんと言われた通り舟底に穴開けたのに!」

「顕現精霊の上なら浸水せんからな。気にするな。最初からこのつもりであったのだ」


 グロロウからの追手がもう川の半ほどまで来ているらしい。ボリスが小舟の上に顔を出してトーマに話しかけた。


「よいか。おぬしの治療をするためにわしの余剰マナは半分近くまで減ってしまった。わしは命の恩人じゃな」

「……ありがたく、思っている」

「そうか。ならわしの頼みを一つ聞いてくれ。わしが奴らを食い止めるから、おぬしは逃げのびてクローヴィスを倒せ。すぐでなくてもいい、ゆっくり傷を治せ」


 食い止めるとはどういう意味なのか。いくら水神と言われるほどの魔法使いでも相手は10人乗りの舟が数隻だ。


「本気かよじいさん!」

「聞いてませんよ!」


 双子のどちらかと、マラヤナの息子の声。ラウラは何も言わない。

 小舟の上に寝せてもらったまま双子にでも担がせて、このまま全員で逃げればいい話だ。トーマはゆっくり首を振った。


「それほど時間を稼げていない。このまま逃げても隠れ処(かくれが)まで奴らを案内してしまうじゃろう。トーマ、頼む」


 違う。そんなふうに頼まれなくてもクローヴィスはトーマの、『書庫の賢者』にとっての敵だ。頼まれるまでも無く倒すつもりなのだ。

 それを伝えるための声が出ない。議論する時間も無い。


 トーマには頷くことしかできなかった。


「ラウラ、皆を頼むぞ」

「分かったよ、じいちゃん」

「ボリス様。私も残ります」

「おぬしはトーマの傷を塞がにゃならんだろ。いままで世話になったな、クルム」

「……それは、私の台詞です……」


 ラウラの指示のもとに小舟が持ち上げられた。フロルも乗っている。

 ラウラが船の舳先を後ろ手に持ち、双子が後ろの方を掴む。さらに後ろからクルムが髪糸を伸ばしたままついてきて、先頭は松明を持ったマラヤナの息子。

 二人の賢者を舟に載せて運ぶ5人の戦士たち。


 最も夜の長い時期。東の空が白んでくるのにまだ2刻はかかるだろう。真夜中の魔境の森を進む。

 揺れる舟底。再び降り出した雪が一粒。トーマの頬に冷たく溶けるのを感じた。

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