第80話 火事
吹き抜け広間で柱構造の陰に隠れてやり過ごした巡回夜番衛士は【盾士】。西棟につながる大廊下に向かったので、トーマは広間を通って東棟に。
不味い料理を食わせる食堂の入り口には扉が無い。誰も居ない食堂の奥に広がる暗闇を不安な気持ちで眺めながら、トーマは突き当りの階段に向かって音を立てずに急いだ。
東棟2階。ここには会議室や役人の執務室のほかに、酒食におぼれて健康を害した3人の賢者の居室もあるはずなのだが、彼らは他所に泊まっていることが多いらしい。
警戒すべきはむしろ3階に住んでいるはずのクローヴィスだろう。
クローヴィスの居室は扉も床も天井も鉄で覆われているという。当然扉も鉄製で錠がかかっている。内側に閂もしてあるかもしれない。政庁舎内で暗殺を企てることはトーマには考えづらい。
幸いにしてフロルに与えられている部屋は2階にある。階段の反対側、中央吹き抜け側の突き当りだ。
フロルの部屋の扉にも錠がかかっている。熟睡しているだろうフロルが、目を覚ますほど強く扉を叩くわけにはいかない。濡れ手巾を畳まれたまま鍵穴にあてがい、上から青鉄の短剣を強く押し込み、捻る。青銅製の錠は小さな音を立てて破壊された。
「フロル。フロル。起きてくれ」
「…… ん、む……」
トーマの使っていたものの半分の大きさの寝台に黒髪の少年が寝ている。17歳だったはずだが寝顔はもっと幼く見えた。揺すっても起きないので濡れ手巾を口に当て、冬の空気で冷えた掌を掛け布団の中のフロルの素肌に押し当てた。
「!!!」
「トーマだ。声を出さないでくれ。大事な話がある」
大声を出さないように小声で何度か確認し、手巾を外す。フロルは口元を寝間着の袖で拭いつつ上半身を起こした。
「……なんなんですか……」
「8刻までに南の見張り塔まで一緒に行ってほしい」
「今何刻です? なんのためにですか?」
「7刻の半ばくらいかな。塔の見張り所に行けばお兄さんと会えるかもしれないんだ」
嘘をつくのは気が引けたが、隠密行動にフロルを協力させるにはこの理由が一番手っ取り早い。クローヴィスの弟子であるフロルに全て話して協力させるというのは無理がある。
ラウラが何のためにフロルを連れてくるよう書いてきたのかは分からない。レオニードは前領主賢者の子だから統治権を主張する資格があるかもしれない。
だが前領主の側近だった過去を持ち、クローヴィスを擁立しておきながら袂を分かって自ら辞任した元司法官の子では、あまりそういう使い方は出来ないはず。
ともかくここに居てもフロルにはそれほど幸せな未来は無い気がするし、ラウラがフロルに無慈悲な事をするとも思わない。
「……わかりました。準備します」
部屋の壁の火皿を外し、芯に触って火をつける。フロルが身支度を始めた。
政庁舎から南の尖塔まではせいぜい200メルテほどなので、8刻初めまでには十分間に合う。クローヴィスの僧服に似ているがずっと単純な意匠の白い服の上に、袖付きの毛皮外套を着こんだフロルがトーマにむかって頷いた。
政庁の庭に向いている南向きの窓はガラス窓で、格子状の窓枠に9枚の透明なガラス板が縦横3列にはまっている。
窓枠を固定している釘を摘まんで力任せに全部引き抜く。灰土の壁に膠で固定されていたが、トーマの力なら簡単なことだ。
窓枠ごとガラスを外すと人が通り抜けるのに十分な大きさの穴が開く。真冬の外気に一瞬体が震えた。
「え? そこから出るんですか?」
トーマは肯定してフロルに黒い大きな布を被らせた。自分も被り、背中を向けてフロルの前にしゃがむ。負ぶさってきたフロルの体重は見た目通り軽かった。
窓から見まわすと、ちょうど巡回衛士は居ない。雪は今止んでいるが、政庁舎の庭には足首ほどの高さまで積もっていた。
トーマはフロルを背負ったまま、庭に飛び降りた。腿の筋肉を最大限に発揮して、着地音を小さくする。そしてそのまま外塀にむかって駆けると、高さ2メルテの青銅の格子塀を飛び越えた。
庭に焚かれていた篝火は赤々としていて、【梟】でない者もトーマたちの姿を見たかもしれない。だが篝火の焚かれた庭は政庁舎のどの方角にもあるので、どのみち冒さなければならない危険だった。
大雪の晩であれば篝火が消えていても不自然ではなかったのだが。
手の中の石炭のかけらに最小限の『明火』を灯して、南の尖塔に向かって駆ける。窓から飛び降りて30秒で尖塔内部に通じる扉の前に到着。背中のフロルを下ろした。
足音を立てないようにしたとは言え、40階梯のトーマの本気の走りに付き合わされたフロルは目を白黒させている。
扉の内側の閂がはめられていない。素早く押し開けて中を見まわすが、誰も居ない。見張り塔かつ矢倉塔として使われているはずの尖塔には夜番の司法官部隊数名が毎晩詰めているはずなのだが、どうしたことだろう。
騒がれる前に顎を打ち砕いて全員昏倒させてやろうと心を決めていたのだが。
尖塔の内部の待機所には小さな卓と粗末な椅子が数脚。金属製の、筒状の灯壺のようなものが架けられていて明るい。フロルを招き入れて扉を閉めた。
雪だらけになってしまった靴の毛皮覆いを外して、トーマは一気に25メルテ上の見張り台まで階段を駆け上った。
『明火』で燃えている石炭を見張り台に放り投げて、続いてトーマも飛び出す。
そこには倒すべき見張りは居なかった。そしてラウラも居なかった。
直径2メルテ半の円形の見張り台には四方に半楕円形の大きな窓があり、ガラスなど嵌ってもいない吹きさらしの状態だ。中央には中型の弩弓が移動式の台に載せてある。
石炭を拾う。一度トーマの制御を離れた炎は自然現象のまま自由に燃えており、拾う瞬間左手の指を軽く火傷してしまった。
「あの、兄さんは?」
「……8刻とだけ聞いていたから、まぁ、待ってみようよ」
積雪の上に足跡を残してきた。雪は止んでいるから足跡はずっと消えない。誰かが不審な足跡を見つけて騒ぎになるまでにそう時間はかからない。
深夜のグロロウの空に爆音が高鳴った。5秒置いて、ドッゴンともう一発。
25メルテの高さにある見張り台からながめても、音のした西門の方角に何が起きているのかわからない。
「あっ! 火事だ!」
フロルが北東の方角を見ながら叫んだ。闇夜に赤々と燃え上がる炎。300メルテほど離れているだろうか。あそこには司法官部隊の宿舎があったはずだ。目を覚ました者が居るらしく、街が少しずつ騒がしくなる。
「おーい、トーマー。そこに居るー?」
下から声がする。南側の窓から下をのぞきこむと、黒っぽい頭巾付き外套を被った人物が松明を持ってこちらを見上げている。
「暗くて顔見えないけど、トーマだよねー? フロルくんもそこにいるー?」
窓から顔を出したフロルが下を見て、そして振り向いてトーマを見た。
「あれ誰ですか? なんで女の人が居るんです?」
「あー、ちゃんと居るね? フロルくんだよねー?」
「あ、はーい」
「じゃあ、一発いくから気を付けてー!」
頭巾から赤毛をはみ出させた女は尖塔に近づくと松明を持たない左手を壁に押し付けた。まさかと思うが、まさかだろうか。
約3秒。
さきほど西門の方から聞こえたのに似た、爆発する様な音が直下で鳴り響く。でかい揺れが塔全体を襲う。
「あのバカヤロウ!!」
「ちょっ、えっ、はぁっ⁉」
見張り台の床がだんだんと傾き、車輪の付いた台ごと弩弓が走り出す。
トーマは狼狽えるフロルの胴を片腕で抱いて左肩に担ぎ上げた。加速しつつ倒れていく尖塔。北側の窓の枠に右手を掛けて飛び出す。塔は40メルテ先の南門に向かって倒れていく。このまま倒れれば南門広場につながる大通りの上に倒れるから、直接押しつぶされて死ぬ住民は居ないはず。そう思いたい。
垂直に立っていた塔は水平になろうとしている。尖塔の頂点まで、4メルテもない。助走距離として短すぎる。だがやるしかない。
倒れゆく塔の上で極端な前傾姿勢をとる。
思考詠唱で『風纏』の呪文を唱える。未だかつてこんなに急いでこの呪文を唱えたことは無い。
腹側の空気を体の横を通して後ろに流す。未だかつてこの魔法でここまでの風速を出したことは無い。
もはやほとんど自然落下の速度で地面に向かう塔。その灰土の外壁に体が吸い付けられる。『風纏』を応用してそうしなければ落下中の塔の外壁から足が浮いてしまう。
僅かな距離を3歩、最大の力で走り、塔の先端を蹴りつけ空中に飛び出す。『風纏』の方向を逆にする。僅かな時間、トーマは空を飛んだような気持ちになった。
暗闇の中迫りくる高さ10メルテの真っ黒な南門。塔と地面が衝突した音が空気を振るわせる。
フロルを担いだままで、トーマは石造りの南門の上の、巡回の兵士が歩く歩道に着地した。背後の飛翔音を聞いて伏せる。
塔の一部だった砕けた破片がトーマの頭上、うなりを上げて飛んで行った。
ラウラが門の上に跳びあがって来た。ラウラの両足を下から持ち上げたのは10本ほどの、例の『でたらめ土槍』だ。
肩から降ろしたフロルの様子を探る。気を失っているが頭部の出血は無い。破片がぶつかったわけでは無さそうだ。
「やぁトーマ。久しぶりだね」
トーマは2歩近づき、ラウラの左頬を思い切りぶん殴った。




