第70話 本棚
口の中が鉄臭い。意識をとりもどしたトーマが最初に感じたのはそれだった。
湿った布団のようなものの上に転がされ、後ろ手に金属製の手枷で拘束されている。
灯火の明かりで、石造りの壁で囲われた部屋の中に居るのが分かった。
「目が覚めたか。賢者のトーマ」
声をかけて来た人物は部屋の出入り口の前の椅子に逆向きに腰かけている。背もたれの上に乗せた腕で顔の下半分が隠れていた。
「……ロベール。自分が誰を殺したのか、分かってるのか」
「ん? あー、あの女か。ソフィアだったらしいな。しかたないだろ? 騒がれたら俺が殺されてたんだから」
「レオニードの母親だぞ」
「だからなんだ? そもそもグロロウを裏切って、あんな所に居やがるのが悪い。それにレオニードはもう衛士長をクビになったぞ。当たり前だよな、自分が推し進めた交渉があんなことになっちまったんだから」
ロベールは笑っている。
強敵と戦うことに高揚する類の人間だという事はわかっていたが、力の無い女を殺しても、高揚する人間とみえる。
トーマは上半身を起こした。着ていた外套は脱がされて二つ尾イタチデカチの上着姿。左脚の短剣と腰のナイフは外されている。足に拘束具は着けられていない。
「ここはグロロウ行政府庁の地下牢だ。馬鹿な真似をしても逃げるのは無理だぞ。まぁ俺が居る限り何もさせんがね」
「いったいどうやって……」
「どうやっても何もないだろう。言ったはずだぞ、グロロウはアクラ川の渡しで発展した都市だと。危険はあっても少人数を運ぶ舟くらいなんとでもなる」
渡し舟を警戒するためにボリスがグロロウ方面に出向いたので安心していたが、よく考えなくても下流の方を警戒しなくていい理由が無かった。
もう僅か、ほんの少しだけでも頭を働かせていたら、こんなことにはならなかった。あまりにも、絶望的なまでに迂闊。
トーマの背に周ったロベールが、手枷を掴んでトーマを立たせる。
出入り口まで引っ張られた。
分厚い木製の扉を叩いて「開けろ」と一言。向こう側で閂を外す音がする。
部屋から出ると薄暗い廊下。閂を外した牢番らしき男は当然『器持ち』。
トーマの入っていた部屋以外にも扉は3つ見えたが人の気配はしない。
お偉い連中が政治を司る政庁の地下に本格的な牢があるというのも変な話なので、犯罪者を収監しておく施設は他にあるのかもしれない。
ロベールに「右だ」と言われて少し進むと上階につながる廊下がある。
牢番の男が二人を追い抜いて先に階段を上がり、鉄格子の向こうに声をかけ、外に居る同僚に錠を開けさせた。
「どこに行くんだ?」
「目が覚めたら連れて来いと言われている。お前をどうするのか、決めるんだろうな」
階段を上がった先の廊下は地下よりも灯明の数が多く、明るい。何度か角を曲がって進むと、ガラス窓のある大廊下に出た。
窓の外は真っ暗であり、夜であることが分かる。トーマが自分の体の感覚、特に尿意を意識してみるに、丸一日以上気を失っていたということはなさそうである。気絶していた時間はせいぜい数刻間、長くても10刻間以内だろう。
地階の壁は普通の石造りだったが、一階の壁は灰土でできているようだ。
土橋村の建造物とは違い、表面は奇麗な平面に整えられている。
壁の一部が柱のような形に形成されていて、縦溝の装飾がある。そこから梁のように天井を支えている部分は弓なりになっている。
各部屋に通じているだろう重厚な二枚扉。磨かれて黒光りしている。廊下の床は石畳のようになっている。
敷き詰められた平らな白い石が、艶めくほどに研磨されて灯火の光を反射している。建物全体に優美な雰囲気が漂っていた。
後ろ手の金属製の手枷を掴んでいるロベールの誘導の通りに進んでいくと、大廊下の突き当りに二人の人間が立っているのが見えた。
背の高い者と低い者。クローヴィスと同じ禿頭だ。服は黒かったが、意匠はクローヴィスの着ていた僧服と似ていた。
二人とも遠目に見ても分かったほどに肥満している。近くで見てみれば二人とも【賢者】保有者だった。
「ほほっ、こちらが新しく連れてこられた賢者ですか」
「ずいぶんやせっぽちですなぁ。碌なものを食べていないとみえる」
「マナ出力が少ないですな。これで仕事が務まりましょうか? 司法官殿」
「まぁ、入国審査所の手伝いでもさせればよろしいでしょ、次期司法官殿」
自分たちだけで話し合っている禿頭のデブ賢者二人の階梯は、恐らくトーマより若干低いくらいだが、『マナ出力』や『マナ操作』は大きかった。『力』『耐久』『速さ』はマナ出力の半分ほどしかない。
突き当りを右に。二階への階段を昇っていると、下から笑い声が聞こえてくる。トーマの事を笑っているのかもしれないが、怒る気にならなかった。
彼らの目の下には真っ黒な隈が出来ていて、甘酸っぱいような体臭に混じって薬臭いにおいが漂っていた。あれはただ太っているだけではない。まともな健康状態とは思えない。
ロベールが後ろから、退屈そうな声をかけてきた。
「お前もあんなブタに成り下がるのかね。腕前を考えれば惜しい気もするが、まぁ賢者の本分は戦う事ではないだろうからな」
二階に上がると、床は板張りになっていた。その上に朱色の毛織物が敷かれている。今通って来た一階の廊下の真上に当たる部分を折り返し、また進む。
半分ほど進んだところでロベールに手枷を引かれた。横にある扉は他よりさらにすこし重厚に見える。
ロベールがいささか乱暴に扉を叩いた。
「俺だ。客人が目を覚ましたぞ」
中から「少し待て」と声が聞こえてきた。扉が分厚いためなのか、声は小さくしか聞こえない。
扉の把手のあたりから、カチャリと錠を開けるような音。この扉には牢の鉄格子のように錠が付いているらしい。
トーマには木製の扉に錠をかけてもあまり意味が無いように思えたが、少なくとも扉を開けてほしくないという意思表示にはなる。
開かない扉くらい火魔法で燃やしてしまえば、というような考えは野蛮なのかもしれないと思い直した。
二枚扉の右側が部屋の内側に引き開けられた。中は廊下よりもずっと明るい。ロベールに押されて入室した。
まず目についたのは左右の壁に並ぶ本棚だった。
オカテリアやライマーンと言った大都市にある図書室に匹敵する、数百冊、あるいは千冊以上の蔵書がみっちりと詰まっている。
天上から円環状の巨大な灯り台が吊り下げられていて、灯明がいくつも灯っている。
図書室の利用者のための文机が無い。
中心に一つだけ、真っ白な布が敷かれた小さな丸卓があった。丸卓の上にトーマが見た事のない照明器具がある。真鍮製と見える手の平大の装置の上に、下部が膨らんだガラスの筒が載っている。曇ったガラスに閉じ込められ揺らめく小さな炎から、柔らかい光が広がっていた。
白茶色の毛編みの上着をゆったりと羽織ったクローヴィスが、手に持った数冊の本を本棚に仕舞っていた。
「今日はもう遅い。茶を淹れたら下がりなさい」
「はい」
クローヴィスが話しかけたのはトーマでもロベールでもない。入室したトーマの右手に居た少年が、本棚の隙間にある小さな扉を開けて図書室を出て行った。
トーマよりも少し背の高い、黒髪の少年。『魂の器』は10階梯前後の【賢者】。
ソフィアの息子にしてレオニードの弟。そしてクローヴィスの弟子であるというフロルはやはり、あの日トーマがライマーンで見掛けた少年だった。




