第68話 弩弓
東岸に向かって橋を行くこと少し。前を行く者たちの歩みがだんだん速度を上げて来た。
どうやら皆痺れがとれてきているようだ。
分散放射の形で用いられたクローヴィスの非殺傷性の『雷光』。
対象を麻痺させる効果があるようだったが、麻痺毒などと違いどうやら短い時間で回復するもののようだ。
橋の半ほど、中洲にかかっている部分までたどり着いた。
橋脚の横を、丸っこい体形の人物がよじ上ってきている。
「アッサン、無事だったんだね?」
「ごめん母さん。失敗だったよ」
橋を行く一行の最後尾に居るトーマには誰と誰が会話しているのか見えないが、橋脚を上って来た人物は声からすると宿の女主人のマラヤナのようだ。
母さんと呼ばれているということは、襲撃に参加した人間の中にマラヤナの子どもがいたという事か。そういえば長方形の刃の剣を持った似た体形の男が居た気がする。
後ろを振り返って見るがまだグロロウ側の追手は見えない。半刻もすれば足場を整えて大軍勢を送り込んでくるのではないか。
東岸にたどり着いて、トーマは驚いた。今朝、立派な椅子2脚を持って西岸に渡った時には確かに数十棟建っていた幕屋が、わずか2刻間ほどですべて無くなっている。
あとに残っているのはいくつかのボロボロの家具や、魔物や獣の骨やなどの集積。百数十人いた常人の女子供は一人も見当たらなかった。
「襲撃の事を知らされていなかったのは、俺だけなんだな」
ラウラの背中に向かって話しかける。
マラヤナに鎧の右腕部分を外してもらいながら、振り返りもせずにラウラは答えた。
「だまし討ちなんて卑怯な事に、書庫の賢者のトーマを協力させるわけにはいかないじゃない?」
「卑怯な事と思うなら、なぜやったんだ」
「クローヴィスが言ってたでしょ。この辺りの冬の寒さは本当に厳しいんだよ。『魂の器』を持ってない女子供が幕屋で生活していては、本当に凍死する危険がある」
トーマ自身も懸念していたことではある。食料も暖を摂るための薪も森から採って来ることは出来る。毛皮で衣類だって作れるが、住居だけはどうにもならない。
トーマがこれまで旅で訪れた寒さの厳しい地域では、住居の壁は隙間風が入らないような分厚いもので、立派な煙突のついた暖炉が備え付けてあったものだ。
「だからって、クローヴィスを殺せばなんとかなったのか?」
「クローヴィスを殺して、グロロウの正当な統治権が前領主賢者ブルスタの縁者にあることを主張する」
「それはレオニードの事か?」
「そう」
「クローヴィスを殺されて、衛士長であるレオニードが何でラウラたちに協力することになる」
「……」
「……そのためのソフィアさんか」
トーマには母親の思い出が無い。
14歳までいかがわしい娼館の経営者の子として育ったトーマ。生みの親は十中八九娼婦の中の誰かだろう。客の前では媚びを売り、それ以外の時は常に周りに不機嫌をまき散らしていた彼女たちにやさしく接してもらった記憶は無い。
トーマの実家では娼婦の出入りが激しく、数年勤めれば辞めていく者もたくさん居た。なので自分を生んだ母親に、物心がついてから会ったことがあるのかも定かでなかった。
見るからに容姿が似ていたので、父親が血のつながった実父であったことは確かなようだった。だからなのか、他にも居た娼婦の子ども達の中でトーマは比較的優遇され、読み書きや計算を教え込まれた。
14歳になった頃、街に『書庫の賢者』が訪れたという話になった時、父親はすぐにトーマに『魂起こし』を受けさせると決めた。街の領主も【賢者】保有者であったが、領主に『魂起こし』を頼むには莫大な金を積む必要があるという噂だった。
結果としてラケーレの弟子となり、トーマにとって母親に一番近い存在はラケーレだろう。
レオニードはいったいどういう気持ちなのだろう。トーマとは逆に、レオニードは父親を知らない。
ソフィアの夫はアルスランであり、レオニードの実の父親ではない。実の父親は自分の側近に妊娠したソフィアを押し付けたブルスタだ。
そのアルスランが死に、【剣士】に目覚めた自分が衛士として仕えるクローヴィスが暗殺したのだという噂があり、父親違いの弟はクローヴィスの弟子となった。
あまりに複雑。そんな複雑な状況に置かれた人間がどういう情緒になるものなのか想像もつかない。だが、今回の交渉実現を望んでいたレオニードは本当に平和を求めていたように見えた。母が暮らす土橋村とグロロウが手を取り合うことが、レオニードにとって一番の望みだったのかもしれない。
「ソフィアさんを使えばレオニードを新たな領主として担ぎ上げられると? そう上手くいくものなのかね。実際はその前の段階で失敗したわけだが。女子供が凍え死なないようにしたかったのなら、クローヴィスの話を飲めばよかったんだ。俺には特に問題のある提案には思えなかった」
「分かっていないんだよ、トーマは」
ラウラの右腕の鎧が取り外されると、中から血がこぼれ出た。かなりの出血のようだった。
その瞬間を見ていなかったが、ロベールに負わされた傷のはず。毛糸織の服は右肩から袖口まで真っ赤に染まっていた。鎧の隙間を狙ったにしても、50階梯相当・均等型のラウラ『耐久』は相当なものだ。その肉体を、異能で強化していない普通の武器で貫くのは簡単な技術ではないはず。
トーマを振り返ったラウラの表情。4年前は謎めいてはいても奔放さが感じられたが、今のラウラに感じられるのはもっと大きな何かだった。
土橋村東岸。もはや土橋村跡地と言うべきなのかもしれないが、橋の東端の両脇の土手にバカでかい弩弓が設置されている。
30人ほどの『器持ち』の集団。残りは逃げた者たちの護衛だろう。
初めて見たときはならず者の集団に見えた彼らが、ラウラの指揮のもとに軍隊のように規律正しく動いている。
何が彼らをそうさせるのだろうか。巨大な橋を築き上げた偉業、それによってもたらされた権威だろうか。
「トーマよ、わしは上流の方を見回りに行く。舟を使って敵が渡ってくるかもしれんからな。こっちは人数が足りていると思うが、おぬしはどうする?」
ボリスが話しかけてきた。濡れていた服は着替えられて、今は周りの男たちと変わらない恰好をしている。
「俺はいいです」
「そうか。女子供が逃げ切るまで、丸一日は要る。あの細い橋だ、一度に大勢は送りこめない。大丈夫だとは思うが万が一壁の中にまで入り込まれたら、矢倉塔まで退いても時間を稼がなきゃならんぞ」
東からの敵に備えるためのものではなく、西から来る軍勢に最後の抵抗を試みるための矢倉塔だったわけか。用意周到な事である。
二人だけ連れて東門から出ていくボリスを見送る。背後が何やら騒がしい。動きがあったようだ。
北側の階段を使って土手に上ると、橋の上を大勢の人間が二列になって渡ってくるのが見えた。距離は300メルテほどだろうか、ゆっくりとした駆け足。橋の両脇の水上には船が並走している。
ラウラの号令によって大型弩弓の弦が引かれた。弩弓の数は二基。屈強な男が二人、皮手袋をして弦を引っ張り、反対側からも二人が弓身を引っぱる。全身を包帯で巻かれたディルとペトラシュも参加している。
弓身の長さだけで3メルテを超える大型の弩弓は全体が鉄で補強してある。その軸木に添えられるように、やはり巨大な矢が番えられた。
矢というか材木である。幕屋の支柱のような太さと、長さ。実際に支柱を流用しているのではないか。
支柱の先端には鉄が被せられている。後端には貧弱な矢羽根が申し訳程度に付いている。3メルテを超える矢の全長に比べると、無駄毛のようなものだ。
慎重に狙いを定めていた男が頷く。南側のもう一基も準備が整ったようだ。
「放て!」
ラウラの号令に従って、二基の弩弓が発射された。バッカンというような音が響く。200メルテの距離まで迫っていたグロロウの軍勢、先頭の大きな盾を構えている兵に向かって飛んでいく。
支柱のような矢は二本とも外れた。落胆の声が上がる。
弓を引く者と狙う者、弩弓の係りになっている10名にとっては外れることも織り込み済みのようで、すぐにまた発射準備を整え、150メルテの距離に寄られた時点で第2射が放たれる。
今度は北側の弩弓の一発が命中した。盾で受け止めても衝撃に耐えることができなかったようで、後ろに居た一人も巻き込んで狭い橋の上から転げ落ちた。
鎧を着た人間は水に落ちればすぐに沈んでしまう。並走していた船が落ちた二人に近づき、船の上に引き上げた。
ラウラの号令の下、十数人の男が弓を構えた。弩弓ではなく、『器持ち』が使うための一般的な大弓だ。弩弓に狙われていることを知りながらグロロウの軍勢は侵攻を止める気配も無い。約100メルテの距離まで近づかれた辺りで、弩弓の第3射と同時に土手の上に並ぶ弓手たちの大弓も発射された。




