第62話 石炭
剃刀イタチの魔石はミーアにタダであげた。トーマと同じことを考えた者は他にも居るようで、昨日魂起こしをかけたというのにもう2階梯に上がっていた。
自分のことは棚に上げて「自分で戦わずに得た魔石を摂るのは10日に一つ以下にするように」と言いつけた。それでも格の高い魔石ばかり摂れば年に12階梯上がることになり『贅沢病』の危険域に入ってしまう。
だが、低格帯の魔石でもどんどん階梯が上がるという状況は最初だけではある。
ラウラが帰ってこないので、トーマは宿に戻って夕食をとって寝た。タルガットはもう去っている。荷物は帰りに双子の幕屋から持って帰ってあった。
朝起きると雨だった。宿の調理場には屋根も無く、マラヤナは雨具をかぶってカマドので大毛マムシの汁を煮ている。気温は低く、霧雨のような粒の細かい雨に触れるとほとんど氷のような冷たさだ。もういつ雪になってもおかしくなかった。
大毛マムシの肉は煮込むとぷるぷるとする。トーマは食感が苦手なので遠慮し、手持ちの携帯食で朝食を済ませた。
ティズニールで買ってからずっと使う機会のなかった雨具を引っ張り出してかぶり、ラウラを訪ねる。ソフィアではない中年女が現れた。
「ラウラ様なら今日は会えないよ。寒くて気分がすぐれないってさ」
「そんなことを言ってられる状況でもないだろ。明後日にはグロロウの執政官と直接交渉なんだぞ」
「うるさいね。女にはいろいろあるんだよ」
「……重いのか?」
「いいから今日はほっておきな」
橋のたもと、アクラ川東岸に設置されている湯場に来ていた。街にある浴場のような施設ではない。
8メルテ四方程の範囲が目隠し幕と天幕で覆われて、突き固められた土に排水用の溝が掘ってあるだけの場所だ。今日のような寒い日には、思った通りトーマ以外の利用者は居ないようだった。
南東の隅にある煙突付きの大きなカマドで湯を沸かす。薪は村の備蓄を売ってもらった。一抱えで銅貨10枚。水はアクラ川から汲む。
火魔法を駆使して効率的に熱を回し、大なべの湯はもうすぐ沸騰する頃合い。
隅の方に逆さに積んである盥をカマドの近くに置いて、大なべの中の湯の、倍の量の水を新たに手桶で川から運んで盥に入れた。沸騰し始めたお湯も手桶ですべて注ぐ。
ちょうどいい温度になった湯で行水をする。服を脱ぐ瞬間は気分が落ち込むほどに寒かったが、湯に浸かってしまえば快適だ。
そもそも『高階梯器持ち』のトーマはちょっとやそっとの寒さで体を壊さない。体力が持つ限りは常人が凍傷になるような状況に晒されても無事なのだ。
湯場に置かれている盥は直径が1メルテもあって、横になれば上半身を全部湯に浸けられる。午前中に短剣と一緒に研ぎあげたナイフを使い、手探りで髭を剃る。
剃りながらふと思う。
こんな環境では冬場、常人は体を洗えないのではないか。体を洗わなくともそうそう死にはしないが、常人はあまり不潔にしていると病気になるのではなかったか。
夫や父や男兄弟に連れられて土橋村を訪れた女子供。あるいはグロロウで家族を失って自らやって来た者たち。常人の彼らが土橋村に集まって来たのは橋が完成した今年の春からだという。
去年の冬は『器持ち』しか居なかったから良かったのだろうが、その辺りの対策は出来ているのだろうか。
服も着替え、さっぱりしたトーマは余った薪を集積所に返し、宿に帰った。
マラヤナに教えられて、自分に貸されている区画に入る。スカートを穿く女特有の座り方でソフィアが待っていた。
「ソフィアさん、どうかしましたか」
「ラウラ様が、これをトーマ様にお渡しするようにと」
包み布を解いてソフィアが渡してきたのは、紺色に染められた綿服の上下だった。
「これは?」
「ラウラ様が用意されたもので、交渉の時に着ていただきたいと。トーマ様がおめしになっているものは少しその、お古くなっているようだからと……」
トーマが今着ている空色の綿服は残った物の中で一番状態が良いものだ。他はもっとぼろぼろである。
ソフィアが持って来たものはおそらく新品で、確かに見た目が良い。襟もとには黄色い糸で飾り刺繍までされてある。合わせてみるとトーマの体の大きさにだいたい合っていた。つまりほとんどの男にとっては小さすぎた。
「わかりました。交渉の時はこれを着ます。しかし、本当に明後日クローヴィスは西岸に来るんですか?」
「どうでしょうね……」
無表情にトーマを見返すソフィアは少しやつれているように見えた。40代半ば、中年の健康な女は普通もっと太っていることが多い。
「失礼ながら、ソフィアさんの事情を少し、人に聞いてしまいまして……」
「はい」
「お子さんが二人、クローヴィスのもとに居るというのはなんというか、お辛いことと思います。俺は基本的にラウラの味方のつもりでいます。でももし、ソフィアさんが人質のような意味でここに留まらされているのだとしたら、俺は何とかしたいと思います」
「人質、ですか?」
ソフィアは首をかしげて少し考え、トーマの顔をまっすぐに見て答えた。
「確かに私は亡きアリストンの妻であり、レオニードとフロルの母です。私が土橋村に居ることでクローヴィスが直接的な行動を躊躇う意味はあるかもしれません。しかし私がここに居るのは私の意志です」
【賢者】に目覚め、現在クローヴィスの弟子になっているという子供はフロルという名らしい。はっきりと話すソフィアの表情は、二人の子どもと無理に引き離された被害者のものではないようにトーマには思えた。
「では、ソフィアさんがグロロウを離れたのは、ご主人を手にかけたクローヴィスをやはり許せないという、そういうことですか」
「それは、確証の無い事ですし…… それよりも圧政に苦しむグロロウの人々の犠牲の上に、私一人が豊かな暮らしを送ることが、息子たちの立場を利用してそうすることが耐えられなかったというか……」
湯冷めしたらしく、トーマはくしゃみが出そうになるのをこらえた。早くカザマキヒョウの外套を着るべきだった。二つ尾イタチデカチの毛皮の上着だけで過ごすような気温ではない。
「私は、本当はどうするべきなのでしょうね。こうしてここに居るだけでは、何も変わらないのに。こんどの和平が成れば、グロロウの状況は何か変わるのでしょうか……」
トーマも自分が何をすべきなのかを見失いかけている。どうにも、事態の展開が急すぎる気がしてならない。
ほんの五日前、トーマはライマーンで酒に酔っぱらっていたのだ。
「そうでした、トーマ様にお渡しするものがもう一つあるのを忘れていました」
そう言ってソフィアは巾着型の麻袋を渡してきた。中を開いてみると黒い石が10個ほど入っている。
「ボリス様がそれをトーマ様に渡すようにと。北の鉱山で採れる石炭というものです。村では使われていませんが、なんでも火の魔法を使うのに都合が良いとか」
木炭よりもずっと密度が高く、本当に石のように硬い。ユリーが使っていた媒介と同じもののようであった。




