第49話 靴底
街道を嬉々として走っていくロベールの背中に、トーマは大声で叫んだ。
「待てよ! 何なんだウミウソってのは! 聞いたこと無い魔物だ、まさか海の魔物じゃないだろうな!」
大湖海に流れ込む大河であるアクラ川なら、海の魔物が遡上してきてもおかしくはない。そして海の魔物は川の魔物よりはるかに恐ろしい。大きさの桁が一つ違ってくる。
走る続けるロベールは前を向いたまま答えた。
「見ればわかる。確かに海にも住んでるようだが大したことは無い。陸に上がっているなら好機だ」
しばらく走っていると街道は東に向かって曲がりだし、さらに数分後、下り坂の向こうにアクラ川の流れが見えた。このあたりで川沿いの道と合流するらしい。アクラの川幅はまだ対岸が霞んで見えるほどに広い。
「いたぞ」
立ち止まったロベールが右手で指さすところ。街道を50メルテほど進んだ先、河岸の木の生えていない土地に巨大な黒いナメクジのようなものが横たわっている。
「ウミウソの中では並だ。つまらん」
そういうとロベールは荷物が結わえてある棒と、脱いだ外套をよこしてきた。トーマが受け取ると、そのまま黒い魔物に向かって駆け下ってゆく。手伝えとは言われていないが、いちおうトーマも息を整えつつゆっくり後を追った。
ウミウソが近づいてくる敵に気づいて首を持ち上げた。
川から上がってくる魔物と言えば竜尾カワウソを思い出すが、顔はあまり似ておらず、耳が無く鼻先に向かって滑らかに細くなるような形をしている。
ウミウソがロベールの方を向いて「ア゛ォオオオオヴ」と声を出した。威嚇だろう。その口の中に並ぶ牙や歯は体色と同じで真っ黒である。
ロベールが腰の2本の長剣を同時に抜いた。その剣身もなにやら黒っぽい。魔物はのたうつような動きで双剣使いを迎撃しようと向かってきた。
トーマの大きさの感覚が狂う。ロベールの方が手前に居るのに、ウミウソは胸部から頭部までの高さでロベールの2倍ある。
ウミウソは叩きつけるようにその上半身を振り下ろした。地面に巨大な頭部が打ち付けられる。衝撃で大地が波打ったように感じられた。よくみれば魔物の頭には横向きに小さな耳がちゃんと生えている。
トーマがこれまで対峙した中で最大の魔物。急に左に体を半回転させて悲痛な鳴き声を上げた。魚のヒレにも似た形をした短い右前脚が、半分ちぎれて血が噴き出している。
ヒレの向こう側、魔物の体の上にはいつのまにかロベールが立っていて、両手の剣を同時に振るった。ちぎれかけていたヒレが、一瞬間をおいて捥げ落ちた。
ロベールを振り落とし、ウミウソはのたうって方向転換をする。東にほんの15メルテ移動すればアクラ川の流れの中に逃げ込める。トーマの居る側からはなにが起きているか見えないが、魔物の体の向こう側でまた血しぶきが上がった。
最初魚のようだとも思ったが、ウミウソは獣の系統の魔物であるようだ。遠目に見ればぬるりとした質感に見えたが、よく見れば全身毛でおおわれている。口元もたくさんの長いヒゲが生えている。
後ろ脚が無いように見えるが、だらしなく延びた下半身の先端に2枚のヒレがついている。
前足もヒレなのだから、これがこいつの後ろ脚なのだろう。後ろビレと言うべきか。
再びロベールがウミウソの体の上に飛びあがると、右の長剣を逆手に持って腰のあたりに突き刺した。
深々と突き刺さった武器を引き抜きつつ、暴れる魔物の体から飛び降りる。ウミウソは上半身だけでうごめいている。後ろビレはもう動かず、移動ができないようだ。
「興が冷めた。お前がやっていいぞ」
「は?」
トーマの所まで戻って来たロベールが、2本の剣の刃の部分を根元から先端までこする合わせるようにした。ジャリンッ、というような音が出る。
手の中で柄を回転させながら4度繰り返す。潰れた刃先を整えているのだろうか。
「お前の仲間だった槍使いや、他にも剣士やなんか。武器を強化する異能を持っている連中。俺も奴らのように異能が使えればと、何度思ったか知れん。俺は連中を打ち負かすために、20年自分の剣技を磨き続けた」
うつむきながら話すロベールの表情は陰になっていて見えない。左手の手袋の中身は薬指が無いはずだった。
「俺の剣はあんな、でかいだけのウスノロにとどめを刺すためにあるのではない。魔石はくれてやるからさっさとしろ」
「……」
トーマは荷物を地面に下すと。「ア゛ア゛ア゛ア゛」と鳴き声を上げ続けるウミウソに近づいた。黒い瞳は痛みと絶望を訴えかけてくる。
3メルテほどの距離まで近づくと、トーマは両手を地面についてマナを流した。魔物の流す血は生魚のようなにおいがする。
『請い奉る 地の精 火の精よ 地の力を熱と変え 熱で膨らむ力を溜めよ ――
思考詠唱と発声詠唱を組み合わせる二重詠唱。それとは別。
文法を工夫することで発声詠唱のみで2種類の精霊に同時に働きかける。『書庫の賢者』ではおそらく使われていない呪文法。
精霊言語の理解が完ぺきでければ不可能な、この『2精霊混合呪文法』はトーマが考え出したものではない。4年前にロベールを手下としてトーマと対立した【賢者】保有者ディミトリエが、相性の悪い風・地精霊の複合精霊魔法を行使した時に使っていた呪文法だ。
戦闘中に聞こえた独特な詠唱を参考にし、後に研究したもの。トーマがこれを実践できるほどに習熟したのはオカテリアに帰ってからである。
通常の二重詠唱の方が一般的だが、トーマはロベールにそれを見せる事を躊躇した。一時ディミトリエと組んでいたロベールにとってはむしろこちらの呪文法の方が見慣れているはずだ。聞きなれているというべきか。
―― 我がマナの導くままに 形を成して 噴き出し放て 灼岩噴槍』
本来火精霊魔法は媒介の燃焼の熱を用いるものだが、熱そのものを操ることも可能だ。大地の底。10メルテ以上深くに眠る地の圧力を熱に変え、その熱によって生じた膨張力を魔法の威力に変える。
トーマが少年のころに面会だけしたことのある『七賢』の老人、『灼岩のビセンテ』が開発したという『灼岩噴槍』。呪文法が違うので別物ともいえるが原理は同じだ。
余剰マナの7割を費やし、長い呪文を唱え終わると、地面から突き出した灼熱する石の槍にウミウソの頭部が下から貫かれた。
燃えたぎるように赤く光っていた岩の槍はすぐに空気に冷やされ灰色に戻ったが、熱量はウミウソの頭蓋の中身を破壊するのに十分だったようだ。
マナの恩恵を失った魔物の巨体は泥のように地面の上で形を崩した。
「初めて見る魔物だ、魔石の位置が分からない」
「普通の獣型と同じ、胸にある心臓の真下だ。取ってやるか? 死んだ魔物の体なら剣も傷まない」
ロベールの言葉に甘えることにした。トーマの刃渡りがなく切れ味も無い短剣ではこのデカブツの解体は難しい。
ロベールが長剣一本で死体の胸部から巨大な肉塊をそぎ落とすと、肋骨が剥き出しになる。肋骨の大きな隙間に長剣を根元まで突き刺して、棒状に中身をくり抜くと血が飛び散った。ロベールはそれを躱してほとんど汚れていない。
魔物の体の中心部であっただろう位置の肉を切り取って、剣先に乗せてトーマに渡す。1キーラムほどのグヨグヨとした桃色の塊の中に、トーマのこぶしより一回り小さいだけの暗紅色の魔石があった。口に入れるには大きいが、ウミウソの体と比べれば予想外に小さかった。
顎を外しそうになりながらなんとか噛み砕いた魔石の成長素もまた、予想を裏切る少なさだった。六つ足オオカミの女王のものとほとんど変わらない。体積なら20倍はあったはずなのだが。
釈然としない思いのままトーマはアクラ川河岸の街道を北に走り続けた。
ロベールによれば、トーマが現在履いている冬靴の靴底に使われているのがウミウソの皮らしい。そういえば靴屋でもその名だけは聞いていた気がする。
あれだけ巨大な死体を放置したままでいいのかと思ったが、皮に需要があり、魚臭いが肉も食えるのだから集落の人間がすぐ解体に来るだろう。
3刻間の間、アクラ川を右手に臨みながら走り続ける。川の流れに沿っている道は途中から徐々に北西方向に曲がる。
トーマは景色の違和感に気づいた。はるか向こう、水平線の向こうにおかしな影がある。アクラ川の川幅は相変わらず広く、1キーメルテ近くあるように思える。
「あれが、ラウラの作った土橋だ」
速度を落とし、近づいたロベールが指で示した。
まるで蜃気楼のようにアクラ川の水面の上に浮かんで見える直線。長大な橋がアクラ川を跨いで横たわっていた。




