屋上
初投稿です。気軽に読んでみてください。
01
「好意の反対は無関心である」とはよく言ったものである。
今では色んな所で耳にする言葉なので、誰が言った言葉なのか、とさえ考えないほど有名な所謂名言であるが、この言葉を最初に聞いた時から何の疑いも無く納得出来た人は一体どれ位いるのだろうか。
少なくとも僕には納得いかなかった。誰だって、明確に嫌悪されるのと、無視されるのだったら、後者の方がマシに思えるのではないだろうか。なぜなら嫌悪されることの方が明らかに危険だからだ。身体的、あるいは精神的な苦痛として、身に降りかかる可能性が大きい。
故に僕にとってこの言葉は詭弁であるとしか思えなかった。自分が嫌われていること、あるいは軽蔑されていることを少しでもごまかそうとする詭弁。
有名で影響力のある誰かが「好意の反対は無関心だから、自分は人から嫌悪されることを恐れない」と言ったところで、それはその人が、他人から嫌われている以上に自分に好意を向けている人がいることを知っているからこそ言えることではないのだろうか。
しかし、いくら頭の中で考えたところで、現実とその中で得た経験には思考は及ばない。
つまり結果から言うと、僕は現実の中で「無関心でいられるより、明確に嫌われている方がマシ」という状況に遭遇したのである。いや、遭遇というよりも現在進行形でその状況の只中にいると言った方が正しい。
十七歳の僕が直面した「無関心」。それはクラスの中でのいじめだった。
02
花瓶が置いてある。
とても高価なものとは思えない普通の花瓶だ。どこにでもありそうな、ガラス製で口の部分が少しラッパ型になっている。
違和感があるとしたらそれは、むしろそれが置いてある場所の方だ。そこに一輪も花が挿さっていなければ、僕はそれをただのコップだと思っただろう。
花瓶は僕の机の上に置いてあった。
朝の八時二十分を少し過ぎた頃だろうか。僕が教室に入って、自分の席に着こうとするとそれが目に入った。
「……またか」
口に出したところで何も変わらないのは分かっていながらも、溜息とともにそんな感想が口を衝く。
僕が言葉を発しようとも、クラスの中で反応するものは無く。ただ、僕を嘲るような、馬鹿にしたような空気を感じていた。
一、二週間程前から始まったそのいじめは、唯々淡々と行われている。
過激では無く、淡泊であることはある意味では(暴力を振るわれたり、お金を巻き上げられたりはしないから)マシとも思えたが、それが延々と続くとなると日に日に精神を消耗するものである。
このいじめが始まった当初は、それがどうにもならない事だと悟って諦観しようと思ったりもしたが、ストレスの溜まるこの状況がいつまで続くのか分からない不安の中で、それも限界だった。
「…………」
しかし、だからと言って声を出そうにも、肩を揺さぶろうにも、周りのクラスメイト達は絶対に僕を無視することは分かっていた。
それは恐らくクラス全体の意志となっている。もしかしたら始まりは、誰か一人による提案で、今もなおその人物によって何らかの手段でクラス全体が僕を無視し続けるように促されているのかもしれないが、こうも徹底的にそれをやられるとその人物を見つけることさえできない。故に、これはもはや全体の意志と言って差し支えない。
更に言うと、この「無視」は、一見過激に見えないいじめだという事がとても質が悪い。
僕が無視されているという状況以外は、まるで平和な教室そのものであり、他のクラスの生徒や教師も全然この事態に気が付いている様子はないのだ。
いや、あるいはある程度、教師やほかのクラスの生徒も気が付いてはいて、そのうえで加担している可能性さえ感じる。
僕からすれば、完全に八方塞がりで、まるでこの状況を打破しようがないと感じてしまう。無言の中に住まう悪魔のような意志が僕を追い詰めているのである。
しかし、思い悩むと同時に多少の疑問もある。それは、この教室の中の誰も罪悪感を覚えていないのか、というものである。
僕はこのクラスの全員と仲が良かったわけではないが、少なくとも数人は仲の良い友人がいる。(今ではもはや、いたと過去形を使った方がいいかもしれないが)
そんな彼らも、当然のごとく無視を決め込んで、一切僕に反応する素振りを見せない。そういう態度には心底腹が立つし、またとても心を削られる。
しかし、彼らに限っては時折、陰鬱な雰囲気で僕の机の方を見ている様に感じる瞬間もある。少なくとも彼らにはある程度、罪悪感があるのかもしれない。
どちらにせよ、集団でのいじめに加担している事には変わりないのだが、そんな友人たちさえも悪意の中に巻き込む集団の同調圧力を恐ろしく思う。
しばらくすると、予鈴が鳴った。それに若干遅れて担任の教師が教室に入ってくる。
いつも気だるそうに見えるその中年の教師は、鈍感なのか、あるいは気が付いていて無視に加担しているのか、僕の机の上に馬鹿にしたような花瓶が置かれていることに触れずにホームルームを始めた。
その様子を見て、このいじめが今日も何の解決もされずに続いていくことを僕は感じていた。
03
僕の机の位置は一番左の列の最後だった。これが教室のど真ん中の席だったらより居心地が悪かっただろう。十分休みくらいだったら、教室の隅で孤独でいることには耐えられた。
しかし、昼休みに入るとどうしてもその居心地の悪さは大きくなる。
教室の隅で一人孤独に昼食をとるのは、まるで晒し者になっているようなのだ。クラスメイト達が何人かで机を寄せ合って昼食をとっているのを横目で見ながら過ごすことに著しく惨めさを感じた。
最近は昼休みにはなるべく教室を離れるようにしていた。離れたところで他に行く当ても無いので、僕は校内をひたすら回って極力人気のない所を探すのだった。
しかし、今日はあんまり人気のない場所を見つけられずにいた。中庭のベンチや、体育館裏など、不運にもちらほら人がいるようだ。別にそこまで徹底して人に見られないようにする必要もないのかもしれないが、いじめられ続けている影響なのだろうか、少し人の視線に敏感になりすぎている。
他に一人になれそうな場所は――。
「……トイレとかか?」
自分で言っておいて少し馬鹿らしくなった。同時に悲しくもなる。自分の思考は日に日に内向的で、陰鬱なものになっていると気が付いた。憤慨、諦観、悔悟、いろんな感情が沸き上がって頭痛がしてくる。
僕はどこかで自分をこんな惨めな状況でも強く自分を保っていられる精神の持ち主だと自負していたかった。どんなに居心地が悪くても毎日学校に通っているのは、親に心配されたくないというのもあったが、それが僕なりの反骨精神でもあったのだ。それなのに必死で隠れるように一人になろうとして、思い当たるのがトイレの個室くらいとなると、いよいよ惨めさも極まって滑稽ですらある。
しかし、しばらく諦めずにうろうろしていると、ふと思いつく場所があった。
屋上はどうだろう。ドラマみたいに都合よく屋上が開放されている可能性は低いし、もし開放されていたとしても誰もいないという保証はなかったが、少なくとも屋上前の踊り場には誰もいないのではないかと思った。
考えるが早いか、僕は屋上へと向かった。すると、案の定屋上前の踊り場は、人気がなく閑散としていた。昼休みの賑やかな喧騒も届かない、一人で過ごすには最適の場所に思えた。
その様子からやはり屋上が開放されているとは思えなかったが、僕は一応屋上へと出る扉に手をかけてみる。
「……あれ?」
すると難なく扉は開いた。
やはり屋上は開放されているのか? と思ったがぱっと見て誰かいる様子はない。もしかしたらただ鍵をかけ忘れられているだけかもしれないが、どうやら屋上には入れるようだった。
季節は五月。まだ夏の暑さも遠く、外は過ごしやすい。今日は程よく陽気が良いため、こんな日に屋上が開放されているのなら、来ない理由はないだろう。
もしかしたらたまたま運よく屋上には入れただけなのかもしれなかったが、こんな日にこんな場所を一人で過ごせると思うと、少し気分が軽くなった。
否。残念ながら一人ではなかった。
先客がいたのである。
そして僕はその人物を見たとき、激しく屋上へ来たことを後悔した。
04
そこにいたのは一人の女子生徒だった。
知り合いではない。
「あ」
屋上に入ってきた僕に気付いた彼女と目が合う。
最初に目についたのは、晴れた陽気に照らされて輝く金髪だった。どう考えても染髪が校則で許容されているはずはなかったので、明らかに校則違反である。若干以上に所謂不良生徒と言える雰囲気がある。
しかし、次に目についたその顔立ちがあまりにも整っていて、日本人離れした美しさがあったのでとてもその金髪が似合っていた。一瞬、もしかしたら地毛なのかもしれない、と思ってしまう程である。でも頭頂部に僅かに地毛が見えていて、金髪が染められたものとかろうじて分かる。
というより、何よりも問題なのは、その容姿ではなかった。
僕が一目見て、ここに来たことを後悔した最大の原因。それは彼女が煙草を手に持っていたことにあった。
喫煙である。
校則どころか法律にさえ違反しているのであろうそれは、僕の思考を停止させるのには十分な衝撃を与えた。
あるいは、既に成人している者なのか、とも脳裏を過るが彼女の小柄な体躯と、制服を着ているという点からその可能性は低い。もちろん容姿だけの情報から人物の年齢を正確判断することができるとまでは言わないし、その顔立ちや雰囲気から妙な大人っぽさは感じるものの、流石に二十を超えている様には見えない。何より、制服を身に着けている以上校内で喫煙をすることは許されないはずだ。
いや、しかし実際問題、僕からしたらはっきり言ってそれはどうでもいいことではある。誰が未成年喫煙していようと、僕自身には一切関わりはない。僕はこの学校の風紀を守ることを信条としているわけではない。(それどころかいじめられている身だ)
問題なのは僕がそれを目撃してしまった、という事実。相手からすれば見ず知らずの男子生徒に重大な違反行為を目撃されているのだ。暴力的な強硬手段によって口止めをしようとしてきてもおかしくはない。
つまり僕にとって、今最も主張しなければいけないことは、自分は目撃したことに関与せず、他言もしないという意思表示だった。
そこまで思考がまとまるまでフリーズしてあっけにとられていた僕は、我に返って踵を返す。一刻も早く、自分は何も関与する気はないことを伝えて、ここを立ち去らなければならない。
「……あっあの、ごめん。ここでは何も見なかったことにします。邪魔してすいませんでした」
「……待ってよ」
「いえ、本当に誰にも他言しません。そんなことしても僕に何も徳はありませんので……」
「……いや、そうじゃなくってさ」
意外なことに立ち去ろうとする僕の背に彼女は声をかけてきた。その声のトーンは意外なほど冷静で、まるで焦っている様子がない。
そしてその雰囲気に充てられた僕は立ち去ろうとする足を止めざるを得なかった。
「……なんていうかさ。あんたもここに居るってことは、何かしらの理由があるんじゃないの?」
「……え。……理由?」
理由、という言葉で尋ねられたことには違和感を覚えずにはいられなかった。極端に言えば、人間のあらゆる行動には理由があるだろう。しかしそれがいちいち明言する程のものでなければ、「なんとなく」としか表現のしようはない。
現在僕がここに居る理由も実際には、教室にいるのが嫌だからとか、他に一人になれる場所がなくてたまたま思いついた、とかの理由はあったが、見ず知らずの彼女に伝えて理解してもらえる程の理由であるとは思えなかった。そして、この屋上という場所自体も理由がないと来ない、という程のものでもないように思える。
「……理由とかは無くて、たまたま開いてたから、入ってきちゃっただけなんだけど」
「…………え、……ああ、そうなんだ」
一瞬、何か言い淀んだような雰囲気を見せつつ、彼女は、短く答えた。
「でも、別に私に遠慮して出ていくことはないんじゃない? ここに居たいならいれば?」
「……え、いや、いいんですか?」
いいんですか、と聞いておいて、やはり僕はそれでも一刻も早くこの場を立ち去りたいという思いは変わらなかったけれど、どうやらむしろここに留まらせたいのは彼女の方の様に感じた。もしかしたら、ある程度彼女の口から他言しないように釘を刺したり、あるいは僕が本当に他言しない人間なのかを見極めたい、という気持ちの表れなのかもしれない。どちらにしても、立ち去らせたくないという圧を感じて僕は留まらざるを得なかった。
仕方がなく僕もフェンスに寄って腰を下ろした。よく考えたら、学校の屋上にくるのは今までの人生で初めてのことだと思う。学校の屋上とは一般的に生徒に開放されているものなのだろうか。この学校の屋上は別にベンチが置いてあるわけでもなくただ貯水タンクが置いてあるだけで、学生が休み時間などに訪れることを想定している雰囲気ではなかった。
隣を見やる。すると彼女は僕がここに居ることを気にした様子もなく、煙草に口をつけ、煙を吐き出していた。よほど神経が太いのか、まるで冷静そのもので涼しそうにしていることに僕は驚愕した。
そしてそこまできて、ようやく彼女について僕は思い出したのだった。
思い出したと言っても、やはり知り合いというわけではない。ただ、彼女はその見た目の派手さから、何の関わりもない僕でさえ知っている程にこの学校で有名な女子生徒だった。
確か名前は宮下凉穂と言っただろうか。この学校に入学した当初から、悪目立ちしている女子が同じ学年にいるということで聞いたことがある。クラスが違うから実際に見かけたこともなかったので、それが彼女であるということに気が付くのに時間がかかった。
噂で既にアウトローな生徒であることが有名だったが、まさか校内で堂々と喫煙をする程の人物だとは夢にも思わなかった。
「……で、何でここに居るの?」
まるで、本当は別に聞きたいと思っていないかのような気だるげなトーンで彼女は尋ねる。
細かいことを言うようだが、「来たの?」ではなく「居るの?」という聞き方にまたしても若干の違和感がある。
しかし幸いなのかは分からないが、重ねてそう彼女が尋ねてくるということによって、どうやら彼女が僕の身の上について特に察することが無いのだと気付いた。
クラスぐるみで徹底的に無視されている僕のことはある程度他のクラスの人達にも知れ渡っていると思っていた。
いじめられていることをわざわざ話したりする必要があるのだろうか、とも考えたが、思えば今のこの状況を誰かに相談したことは無かった。家族には、心配させたくないという思いがあり、学校では話す相手がいなかった。
そう考えると、彼女にはむしろ話しやすいのかもしれない。ほとんど関わりのない他のクラスの女子である彼女なら別に話したところで、何かに影響があるというわけではないし、今後もたぶん関わることはない。それに、今目撃してしまった喫煙について他言する相手が僕にはいないし、そんなことにかまっている程自分に余裕があるわけでは無いということも伝わると思った。
「……いや、まあ、実は――」
そうして僕は語りだした。ここ一、二週間前から始まった僕に対するいじめについて。そして、今日はたまたま、人気のない場所を探してここに来ただけだということについて。
「……へえ。なるほどね」
話終えた僕に、すごくどうでも良さそうに彼女はそう返した。
そんな彼女の態度を見ると、なんだか僕は話し損な気分になったが、それでも今まで誰にも言えなかったことを誰かに話せたからなのか、気持ちが軽くなった気がした。
「でもさあ、今聞いた話だといじめられている理由が分からないね」
「……ええ、そうですね」
意外にも興味をもって話を聞いていたのだろうか。彼女はそう聞き返した。
僕も意図的にその点について伏せていたわけではないが、このいじめが始まった理由については語らなかった。
「君のその話だと、いじめは突発的に何の前触れも、きっかけもなく唐突に始まったことのようだけれど……。当然原因はあるんじゃないの?」
「…………」
全くその通りだった。物事にはすべて理由があるように、僕がいじめられていることにもまた理由がある。それは僕自身も意外なほど意識することが無くなっていたことだった。無視され続けているという現在の状況がそのことに対する意識を弱める原因となっていたのかもしれないが、思い直してみるといじめられている事実を伝えることよりも、誰かに話すときはその原因の方が気になるだろう。彼女の疑問も当然のものである。
「……そうですね。原因というか、きっかけはありました。忘れていたわけではないですけれど、自分でも実際にそれが本当の原因なのか、とまでは分からなくて……」
何せ無視されているので、その思い当たるものが本当に原因なのか、とさえ問質すことはできなかった。しかし僕にとってその出来事が今の状況と何の関係もないことだとは考えられなかった。
それは同時にあまり思い出したくもないことでもあるので、人に伝えるのは憚られたが、ここまで語った以上すべて喋ってしまおうと僕は思った。
05
それは三週間ほど前の話である。
僕は通っている塾からの帰り道に公園を通っていた。
時刻は既に九時半を回っていた。僕は週に何度か塾に通っているが、遅い時間の授業をとっているため、帰りはいつも遅くなる。
帰り道に通る公園は所謂自然公園といわれる広い公園で、そこのウォーキングコースに沿って公園を通ると最寄りの駅に近かった。夜の自然公園はウォーキングコースの端に立っている電灯以外の明かりが無く薄暗いが、明るい道を通りたかったら自然公園を避けるように駅に向かわなければならないので、僕は帰り道にいつもそこを通っていた。
ふと前を見ると、見渡しの良いウォーキングコースの四十メートルほど先に女子学生が歩いているのが見えた。彼女も恐らく僕と同じ塾から駅に向かっているのだろう。制服の様子からして同じ学校の生徒ではないが、この時間にこの辺を歩いているのはあの塾の生徒くらいだろう。
たいして気にすることでもなければ、気になっていたわけでもない。この自然公園を通る道が駅に向かう近道であると知っているのは僕だけではないだろう。いつも帰り道には僕と同じようにこの道を使っている学生は何人かいた。
その日は僕の前を歩くその女子が偶然目についただけのことであった。
しかし、駅には近道といっても、駅に向かわない生徒も大勢いるし、こんな薄暗い道を通らない者もいるだろう。その日の帰り道でこの道を使っている者は僕と彼女だけだった。
だからなのだろう。別段彼女の様子を注視して視ていたわけではなかったが、彼女がふと物陰に消えたことに僕は気が付いた。
その物陰は公園に設置された大きな公衆トイレの建物だった。だからふと消えていただけなら、トイレに寄っていっただけに思えるのだが、偶然にも僕は明らかに彼女がその建物の裏側に吸い込まれるように入っていたのを見てしまったのだ。
そう、まるで何者かに手繰り寄せられたかのように。
僕はその時、一瞬最悪な想像が脳裏を過ったが、すぐに自分で払拭した。そんな非日常的なことがいつも通っている塾の帰り道で起こるはずはないと。
しかしこんな薄暗い公園のトイレの裏に人が入っていく事に疑問を抱かないはずはない。その数十メートル先のトイレに僕は別段歩を早めることもなく近づいて行った。そして何もないことを願いながら、トイレの裏手へ回り込んでみる。
結果から言うと、最悪な想像が現実となっていた。
男女が音を押し殺すように揉み合いになっている。いや、揉み合いというより、一方的に男の方がその女子学生を押し倒している姿がそこにはあった。
男は大柄で僕よりも一回り大きい。暗い色のスウェットとフードのついたプルオーバーを着ていて顔にもマスクを着けていた。そして左手で女性の口元を抑えながら右手に構えた鈍く光る刃物を押し付ける。その様子から声は聞こえずとも「叫んだら殺すぞ」といったような意志表示がなされているのは明白だった。いや、それ以上にその男の挙動は数十メートル離れた物陰からでも分かるくらい尋常ではないくらい興奮状態であることが見て取れる。
僕は心臓が早鐘の様に鳴り出すことにさえ意識が向かないほどに、その光景に絶句した。手足が震えていることが知覚できないほど、その状況に意識をもっていかれていた。それと同時に漠然とした、しかし爆発的な「何とかしなければ」という感情が沸き起こる。
震える手で携帯を取り出す。何はともあれ警察に通報しなければならないと思ったからだった。
男が女子学生を襲っている現場から死角になるようにトイレの建物に隠れて110番を押す。しかしその数瞬の間に様々な疑問が脳内に同時に流れ込む。
果たして、今から警察を呼んでここに駆け付けるまでにどのくらいの時間がかかるのか。
それまでの間、僕はどうするのか。
止めに入るべきか。
隠れているべきか。
僕は力もそんなに強くはない。
止めに入ったら逆上して僕が襲われる可能性がある。
いや、それよりも通報されたことを知れば、目の前の女性を殺してしまうかも。
諦めて逃げ去る可能性はあるか。
こんな犯行に及ぶ人間が冷静な判断をするだろうか。
では警察が来るまで僕は傍観しているべきなのか。
考えは堂々巡りである。僕に冷静になる暇なんて与えてはくれない。
一般的に称賛される勇気ある行い。それはもちろん、暴漢を止めに入ることだ。しかしこの状況に立たされた人の何人がそれをできるだろう。天秤にかけているのは他人と自分の命である。頭の中が真っ白になるとは、まさにこのことだと思った。
僕は動揺してまとまらない思考の中やっとの思いで警察に状況と場所を伝えた。その間も建物の陰から、横目に犯行現場を捉えていたが、犯人は十数メートル先の物陰から自身の犯行が目撃され通報されていることに気が付いている様子はない。刃物に怯えながら必死で抵抗する女子学生の衣服に手をかけ、ついには事に及ぼうとしていた。
その様子からも、その男の目的は明らかに殺しではなく強姦であることは分かる。だから警察が駆け付けるまでの間に女性が刃物で傷つけられることは無いだろう。
そう、だから何も命を失うわけではない。例えば僕が今暴漢に通報したことを伝え、犯行を止めに入れば、女性かあるいは僕がその手に持った刃物で襲われる可能性が高い。だったら、ここは黙ってみていた方が彼女にとっても安全なのではないだろうか。
そう思いつつも、それが安全を考慮して導き出された決断などではないことはどこかで理解していた。僕もただ怯えて諦めていたのである。こんな人気のない危険な夜道を岐路に選んでしまった彼女と僕の過ちである。どうしようもないことだ。
その時だった。
男に抑え込まれて身もだえする彼女の顔がこちらを向いた。僕が見ていることに気付いて見たのではない。ただ偶然こちら側に顔を逸らしただけだったのだろう。
しかし一瞬僕は彼女と目が合った。
そんな気がした。
その目にどんな感情が宿っていたかは分からない。何せ十数メートル離れた表情など読み取れるはずはない。
しかし、なぜだろう。僕にはどうしようもないくらいその目が頭に焼き付いている。
僕が思い出せるのはそこまでだ。
その翌日、強姦未遂殺人事件によって一人の学生が命を落としたことが世間を騒がせた。
僕の行動は何もかもが裏目に出たという事らしい。
傍観していても、彼女が死ぬことはないと、高を括って黙って見過ごした。その結果、結局彼女を見殺しにすることになったのだ。
僕は警察が来てからのことをほとんど覚えていない。ただ、今もそのことを思い出そうとすると、心を騒がすようなサイレンのけたたましい音だけが響いてくる。僕の勇気の無さを、無能さを、無力さを嘲笑うような、サイレンの音が。
「ふーん、そういえばそんなニュースがあったね。その当事者が君なんだ?」
そこまで語り終えると、宮下さんはそうつぶやいた。どこか洒脱というか、厭世的な雰囲気を持つ彼女は、あまりそういったニュースにも疎い生活を送っていそうだと勝手に思っていたけれど、流石にこの事件については知っている様だった。
「……結構ニュースになっていましたよね。ここら辺の人で知らない人いないくらいに……。一応、目撃者とか被害者の名前は報道されていなかったと思うけれど、その目撃者が……僕です」
「…………」
彼女は黙って下を向いていた。よく見ると、既にさっきまで吸っていたタバコは無くなっており片手には携帯灰皿が握られている。
「でも、それがいじめの理由なの? その事件と無視されるってことがどう結びつくと思っているわけ?」
確かに、今の話だけでは事件といじめの理由を結びつけるのは難しいと思える。
しかし、それは実は僕にもわからないことだった。
何度も言うようだが、僕はいじめが始まった本当の理由を知る術がない。
でも、最初学校で無視されるようになったとき、それを僕はどこかで納得してしまっていた。
「まあ、飽くまで予想というか、僕もはっきりしたことは分かんないんだけど……。例えばさ、同じクラスに人が襲われている現場にいたにも拘らず、通報だけして、そのあとただ傍観していて、それで結局その被害者を見殺しにした奴がいたら、どう思う?」
「…………なるほどね」
それだけで何が言いたいのか、彼女には伝わったのだろう。彼女はそうつぶやいた。
「でも、被害者の名前も、目撃者の名前も報道されてなかったんじゃないの?」
「……まあ、確かに報道はされていないけど。それでも、人の口に戸は建てられないっていうくらいだからさ。事件が起こった地域の、地元の人達のどこかで、僕がその当事者だってことがばれて広まったんだと思う……」
そう、例えば日本国内の事件だとしても、自分の住んでいる地域から遠いどこかの事なんて、それこそニュースくらいでしか情報は入ってこない。しかし、それが地元の事件となると他人事とは考えられないものだ。身近で起こった事については明日は我が身かも、と考えさせられる。だからある程度調べもするだろうし、地元の人の間で噂も広まっていく。ニュースでは報道されなくたって、地元の噂では襲われたのはどこの学校の生徒なのか、居合わせたのが誰なのか、くらいの情報は簡単に広まってしまうだろう。
そしてその結果、僕のクラスまでその噂は広まって、最終的に彼らは僕を嫌悪し、いじめが始まったのではないか。
被害者の女子は他校の生徒だったけれど、僕らと同年代の学生だった。彼女の代わりに憤慨したクラスメイト達が僕に悪意を向けるのは聊か無権代理的という気もするが、多感な年頃の彼らが事件のことを知って、そこに居合わせたにも拘らず何もしなかった僕を軽蔑したくなる気持ちには納得がいくのだ。
もしかしたら他にも、事件なんて起こる前から僕を気に入らなかった人が中にはいるかもしれない。だから今回の事件は理由というよりも、きっかけなのかもしれないが、どちらにしてもこの事件がターニングポイントであることには変わりないのだ。
「……だから、この事件のことで僕を軽蔑した人たちが、僕をいじめようとしたんじゃないかって――」
「そういう事ね。それで、君はそういう風に勘違いしていってしまったのか」
――え。
勘違い。とは何の事だろう。
彼女は唐突に話を遮る様にそう言った。
その声のトーンは今までの少し気だるそうな雰囲気のこもったものではなく、なんだか焦っているようにも聞こえた。いや、焦っているというより、僕の話はもう聞いていられない、といった感じなのかもしれない。
「……ごめん。私がこの屋上で君に話しかけてしまった事にも責任がありそうだから、早めに君の間違いは訂正させてもらった方がいいと思って……」
今度は少し呆れたようにそう言った。
ここに来て数十分、彼女の口調が変わることが無かったので、そんな彼女の微妙な雰囲気の変化に少し驚く。
それに先ほどから何かを僕に指摘しようとしていることにも激しい違和感を覚えた。
勘違い。間違い。
いずれも僕のいじめに関することだろうか。てっきり彼女は僕の事なんて何も知らないのだと思っていたのに、ここへ来て何だか僕の知らない何かを彼女は知っている、とでも言いたげである。
「ええと…………。何から説明した方が分かりやすいのかな……? 例えば……そう、君が入ってきたそこの入り口、あるじゃん?」
そう言って、彼女は屋上の入り口部分を指さした。
何が言いたいのか、何を言い出そうとしているのか、まるで分らない。
「……まあ、私も自分がここで昼休みにタバコ吸ってるとこ見られるわけにはいかないからさ、……ちゃんとカギは閉めておいたんだよ?」
彼女がそう言った時、後ろで昼休みを終える予鈴の音が小さく聞こえた。
06
その言葉を聞いても何が言いたいのか意味が分からなかった。
彼女――宮下さんは、ここで初めて会った時からなんだか異様な雰囲気を放つ女子ではあったし、その発言の端々に若干の違和感を覚えることもあった。しかし、わけのわからない言動をしていたわけではないし、今この場を冗談でお茶を濁そうとしている様にも見えない。
その謎の発言に僕は言葉を返さずにはいられなかった。
「……えっと、どういう意味?」
「そのまんまの意味だよ。君は私がちゃんとカギまで閉めてある扉を、自分で開けた気になって入ってきたってこと」
「……開けた気に?」
「それも、そのまんまの意味。本当は開けてないってこと」
やはり意味が分からなかった。
しかし、彼女は何か僕に示したいことがあるのだろう。僕は立ち上がって扉の前まで行った。
扉は外開きの開き戸で、丸いドアノブの部分に所謂サムターンと呼ばれるカギのつまみが付いていた。そのつまみは今、地面に対して平行になっている。一般的に多くの扉は、この様につまみが横向きになっている場合、それはカギが施錠されていることを示している。
僕はここに入ってくる時、カギを閉めただろうか。
いや、カギが開いていると思ったからこそ入ってきたわけだし、それに屋上で喫煙している彼女を見て動揺していてそんな余裕はなかったのではないか。
「…………どういう……こと?」
「ごめん。ちょっと遠回しな言い方過ぎたね。でも、気付いていない人に、それをはっきり伝えすぎるのは、私も少し怖いんだ」
彼女の声のトーンが少し暗くなっていっているのが分かった。そしてそれが意味することは、恐らく彼女の優しさなのだ。
僕は、自分が何に気付いていないのか、に気付き始めようとしていた。
そんなことが本当にあり得るのだろうか。
それは本能的な否定であった。誰だって認められるはずがない。しかし、考えれば考えるほどに辻褄が合っていく。このドアのカギのこと。いじめのこと。毎朝机に置かれている花瓶。彼女の言動の端々にあった違和感。そして事件の記憶。
「…………まさか? そんな……」
「……そう、事件についての認識からずれ始めてしまったみたいね。話を聞いていて分かった」
それでも彼女は冷静に続ける。
こんな状況で冷静に続けられるのは、それさえも異常なことだと思う。今まで彼女に感じていた、どこか他人とは一線を画す奇妙な雰囲気が彼女の見た目や喫煙によって感じていたものではないのかもしれない、と思えた。
そして雰囲気の中に異質で奇妙な何かがあるから、彼女が特別なのだと分かってしまう。これが何の変哲もない普通な誰かが言っていても冗談にさえならないだろう。でも彼女の口から言われると、途端にそれが現実なのだと思い知らされる。
「私が知っているこの前の強姦未遂殺人事件で死亡した人物は男子学生だった。犯行現場を目撃して、女子学生を助けるために犯人を止めに入って、不運にも刺されてしまったらしい――」
僕には段々と事件の本当の記憶がよみがえり始めていた。
「――つまり、それが君なんだよね? 幽霊くん」
07
人はいつ死んだことに気が付くのだろう。
私――宮下凉穂は生まれつき所謂幽霊を視ることができたし、彼らと会話することも出来たけれど、死ぬということがどういうことなのかは分からなかった。
当然だ。私はまだ死んだことが無い。
しかし、死んでしまった彼らを視るに、感覚的に「今、自分は死んだ」という瞬間は無いのかもしれない。
屋上に現れた彼の様に自分が死んだことに気が付かない幽霊を今までにも数人見たことがあった。その多くは、現世に未練を残していて、その未練に引きずられるように死んだことの記憶を忘れている。そういった幽霊はいつしか、自分はまだ生きているという思い込みと、それを否定する現実の中で認知的不協和を起こし、それでも死んだことを受け入れられなければ、今度は所謂地縛霊となって負の念を発し始める。(悪霊と呼ばれる類のものである)
私は自分の持つ力を積極的に役立てたいとまでは思わないけれど、自分が見つけた範囲でそういう幽霊を見かけたら、喋りかけて成仏を促すことくらいの事は、やっているのだ。
しかし、今回出会った彼のようなケースは稀であった。
彼にも多少なり未練の様なものはあると思うが、彼が「自分は死んだのだ」ということに気付いていなかった最大の原因は、彼自身の自信の無さであった。
彼は自分の最大限の勇気を振り絞って、自分の命をなげうって人を助けようとした。でも、彼にとって、そんな勇気ある自分はどこか現実味の無いもので、そういう決断をした自分が信じられなくて、結局自分は何もできない臆病なまま生き続けているのだと思いながら過ごしていた。
私は最初に彼を見たとき、一目で幽霊であることは分かったものの、彼が自分の死に気が付かずに未練をもって現世に留まっている者には見えなかった。だから、彼の思い込みに気付くことができなかった。
「……そう言われると、なんで今まで気が付かなかったのかが不思議なくらいだよ」
しばらく私は彼に、彼自身が幽霊であることを説明した。当然、彼も動揺していてしばらくは自分を見つめながら黙っていたが、ようやく納得したように口を開いた。
「……ごめん。どう伝えたらいいのか迷っていて、しばらく話を聞いて、考えてた……。負の感情を抱いたまま死んだことに気が付いてない幽霊には、下手に死んでいることを伝えると危険な場合もあるから……」
過去の失敗、という程までに責任感を覚えているわけではないが、長年そう言ったものと向き合っていると、やるせない気持ちになることも何度か経験したことがあった。
「…………ふっ」
すると彼は小さく笑った。
「……え。何?」
「いや、ごめん。宮下さんのこと全然知らなかったけど、幽霊が見えているとか……、見た目の雰囲気に反して意外と優しかったりで、その……なんか面白いなって。変な意味じゃなくて、もっと生きている内に仲良くなりたかったなって思ったよ」
彼はそう言って無邪気な笑顔を見せた。
そんなこと言われても、私がこういう見た目をしているのは人を避ける目的もあるから、それこそ幽霊にでもならない限り私からは話しかけないし、話しかけられることもない。
「僕は、結局十七年と少ししか生きられなかったし、宮下さんのことを知らなかったみたいに、生きていたらもっと面白い出会いがあったのかもしれないけれど、それでも自分の人生の最後が、勇気ある人助けだったなら……、それは良い人生だったなって思いながら死ぬことができる……って思えてきたよ」
彼はどこか悲しそうにではあるものの、納得したようにそう告げた。
人間だろうが幽霊だろうが、その人の本心は分からない。もしかしたら、彼にはまだたくさんやり残したことはあるだろうし、諦められないことだってあるのかもしれない。それでも彼が自分のなけなしの勇気で成し遂げたことを胸にこの世を去ろうとする気持ちが私には伝わってきた。
「今はもう、たぶん僕は成仏するって事ができると思う。君のおかげだ……」
「……死んだ人がどういう風に感じるかは、私にはわからないけど、両親の顔を見たい……とか、思わないの?」
「……うーん。見たくないと言ったら噓になるけど、それはそれで未練が生まれそうだし。そしたら宮下さんが、わざわざ僕が成仏できるように声をかけてくれた意味がなくなってしまいそうだしね」
「……そっか」
彼は生前からこんなさっぱりとした性格の人物だったのだろうか。彼が言う通り、彼が生きている内に仲良くなれていたら、それはそれで面白かったのかもしれない、とそう思った。
「あ、でも。最後に一つ、宮下さんに言いたい」
「……え?」
「やっぱり未成年なのに喫煙するのはどうかと思うよ?」
いや、やっぱり仲良くなるのはごめんだ。こういう口うるさいタイプは好きじゃない。
「……ふふっ。ご忠告どうも。……暇だったら、あなたの墓前に線香でもあげに行ってあげるわ」
……ありがとう。
と最後に彼は言った。
いや。あるいはそう告げる前に既にこの世を去っていったのかもしれない。
気が付くとあたりは既に日が暮れようとしていた。
夕焼けはフェンスの影を作って西の空に消えようとしている。
その日、自分の死を受け入れた若く勇気ある者の魂は五月の風となってオレンジ色に染まった屋上の女子生徒の金髪を優しくなでた。