【コミカライズ】婚約披露パーティーで、思い切り婚約者の足を踏み抜いた結果
誤字報告をありがとうございます、修正しております。
王宮の大広間では、美しいピアノの調べに合わせて、多くの着飾った貴族のカップルたちが優雅にダンスを踊っていた。
きらきらと輝く大きなシャンデリアに照らされて、大広間のほぼ中心で踊っているのが、第二王子のリシャール様と、その婚約者となった私、アビス公爵家の長女アデレイドだ。
今日の主役は、私たちだ。だって、今日はこれから、私たちの婚約披露の挨拶を控えているのだから。
私は、目の前に立つリシャール様の、この上なく美しい顔を見つめた。
さらさらとした艶やかな金髪に彩られた、端整な色白の顔。すっと整った鼻筋に、やや薄い唇、そして理知的な切れ長の碧眼が、理想的なバランスで配置されている。
何度見ても、思わずほうっと息を吐いて見惚れてしまうような顔だ。
それだけではない。彼は聡明で穏やかで優しく、素晴らしい人柄も兼ね備えている。
大好きな彼との婚約を公式に発表するこの日を、私はとても楽しみにしていた……はずだった。彼を生涯隣で支えたいと、私は、彼の婚約者の第一候補に挙げられた日から、ずっとそう願っていたのだ。
でも、私の手を取って踊る、彼の宝石のような碧眼には、私の姿は映ってはいない。
時折、私の前の彼が微笑むのは、別の令嬢と視線が合った時だけだ。惚けたように笑う彼の視線の先にいるのは、クロエ・ピルスナー子爵令嬢だった。
ふわふわとカールした茶色の髪に、大きな桃色の瞳をした小柄な彼女は、男性の庇護欲をそそりそうなタイプだ。
長身で、黒髪に真紅の瞳をした、きつい顔立ちの私とは、彼女はちょうど対照的だった。
一緒に踊る私を見ようともしないリシャール様に、私の心は絶望に沈んだ。そんな私の心を見透かしたかのように、私を視界に捉えたクロエ嬢が口角を上げる。
勝ち誇った顔で笑んだ彼女を見て、私の胸には、彼女に対する激しい殺意が湧いた。
(本っ当に、嫌な女……!!)
私は悔しさを堪えて、ぎゅっと唇を噛んだ。
ほんの少し前までは、リシャール様が私にとても優しかったのが、まるで嘘のようだ。
(これも、この乙女ゲームの世界で、彼女がヒロインで、私が悪役令嬢だからなのかしら)
彼女が現れるまで、リシャール様と私は上手くやっていたと思う。それは私の独りよがりではなかったと、そう信じている。
けれど、クロエ嬢が現れてから、まるで抗えない力に捉われるかのように、彼は彼女に惹かれていき、私のことを見なくなっていった。
彼だけではない。彼以外の攻略対象たちも、まるで催眠術にでもかかったかのように、おしなべて彼女に熱い視線を向けるようになった。彼らの婚約者に当たる私の友人たちも、そんな現実を受け入れられずに嘆いているようだ。
そんな状況に、逆ハーエンド、なんていう言葉が私の頭に浮かぶのも、私が前世の記憶を思い出したからだ。
大好きなリシャール様のお側にいたくて、ゲームの流れになんてできるだけ抗おうと思っていた私だったけれど、限界はすぐにやって来たようだった。
ーー私に魅力が足りなかったから?
ーークロエ嬢の方が好みだった?
……それとも、ゲームの仕様上、どう足掻いたってヒロインには勝てないのかしら?
まだゲームのエンディングがある王立学園の卒業式までは長いのに、私はもう我慢の限界を迎えてしまった。始まりの婚約披露をする前に、既に絶望的な終わりが見えていた。
この時、私は悟っていた。
このままゲームの流れに身を任せれば、私はクロエ嬢を害する本物の悪役令嬢となって、実家もろとも巻き込んで破滅させてしまうと。
夢見るような表情でクロエ嬢の姿を探す彼を、私は見上げた。
「リシャール様?」
彼は、私の言葉にも何の反応も示さなかった。
もう無理だと、今この場で婚約解消を願い出ようと思った私だったけれど、私の声さえ、彼の耳には届いてはいない。
こんなに物理的な距離は近いのに、私たちの心の距離は測れないくらいに遠い。
ーーねえ。最後にもう一度くらい、私を見て。
頭の中でぶつりと何かが切れるような音が響いた時、私は、高く鋭いヒールのある靴を履いた利き足を、思い切り彼の足に向かって振り下ろしていた。
***
私が前世の記憶を取り戻したのは、婚約披露パーティーから一月ほど前のある日のことだった。
王立学園の窓から中庭を見下ろした私は、一人の令嬢に笑い掛けるリシャール様の姿に、頭をがんと殴られたような衝撃を受けていた。
(どうして、リシャール様はあの子にあんな笑顔を見せているの……?)
数人のクラスメイトと談笑している途中、ふと視線を窓の外にやった私の表情が強張ったことに気付いたらしく、友人のユリア様が心配そうに私を見つめた。
「どうなさいましたか、アデレイド様? どことなく、顔色が悪いようですが……」
嫌な汗が額に浮かぶのを感じながらも、私は首を横に振って微笑んだ。
「少し、眩暈がしただけよ。何も問題ないわ」
私は、つい最近、この国の第二王子であるリシャール様との婚約が調ったばかりだった。
けれど、私と話している時には、普段はそれほど大きく表情を動かさないリシャール様が、窓の下で華やいだ笑みを浮かべている様子に、私は嫌な予感を覚えていた。
それだけではない。リシャール様の前に立っているのは、会ったこともない令嬢のはずなのに、私にはどことなく既視感があった。
(あの子、誰なのかしら……?)
その時、頭の奥が疼くようにずきずきと痛み始めた。何かを思い出しそうな、そんな感覚を覚えながら、こめかみを押さえた私の身体はぐらりと傾いだ。
「きゃっ、アデレイド様……!?」
クラスメイトの友人たちが口々に上げる悲鳴が遠のいていくのを感じながら、私はそのまま意識を手放した。
(ん。ここは……)
私が意識を取り戻したのは、保健室のベッドの上だった。
ゆっくりと目を瞬いた私の顔を、リシャール様が心配そうに覗き込んでいた。
「よかった。目が覚めたみたいだね」
「リシャール様?」
慌てて身体を起こそうとした私に、リシャール様が手を貸してくれた。
「突然君が倒れたって聞いて、急いで来たんだ。身体は大丈夫?」
「ええ、大丈夫です」
(よかった。いつものリシャール様だわ)
ほっと胸を撫で下ろしながらも、私は思わずまじまじと目の前のリシャール様を眺めてしまった。
リシャール様の顔を、食い入るように無言で見つめていた私に、彼は首を傾げた。
「俺の顔に、何かついてる?」
「いえ、何も」
私はやや顔を引き攣らせながら、首を横に振った。リシャール様は、不思議そうにしつつも私に向かって微笑んだ。
「まだ、顔色が悪いようだね。家まで送ろうか? 聞いた話だと、君は倒れた時に頭を強く打ったらしいんだ」
確かに、頭はまだ痛かった。そっと触れると、こめかみの上のあたりに大きなたんこぶができていた。どうやらここを打ったらしい。
「いえ、どうぞお気遣いなく」
「……わかった。お大事にね」
片眉を僅かに上げたものの、手を振って保健室を出て行くリシャール様に、私は小さく頭を下げた。
保健室のドアが閉まるのを見届けてから、ようやく私は深い息を吐いた。
(最悪だわ。こんなことって、あるのかしら……)
私は、窓ガラスに薄く映る自分の姿を見つめた。腰まである黒髪に、少し吊り上がった真紅の瞳。改めて眺める、華やかに整ったその顔は、前世の姉が楽しげにプレイしていた乙女ゲームの悪役令嬢そのものだった。
(何ていうゲームだったかしらね……? 誰かに、嘘だって言って欲しいところだけれど)
残念なことに、前世の姉がゲームをしていたのを横目でちらちらと眺めていただけだったため、私はあまり詳しくはゲームの内容を知らない。ゲーム名さえ思い出せないくらいなのだから、当然と言えば当然かもしれない。前世では時々姉が興奮してゲームの状況を話し掛けてきたため、盛り上がるイベントについては所々知っている程度だ。
ただ、幸か不幸か、前世の姉の推しはリシャール様だった。そのために、人気の攻略対象の一人だった彼の顔ははっきりとわかる。さっきはそのせいで、答え合わせでもするかのように、リシャール様の顔をついじっと眺めてしまった。
なぜ、今まではリシャール様を前にしても彼のことが思い出せなかったのか、そして自分の顔を見ても悪役令嬢だと気付けなかったのか、私には不思議なくらいだった。
そして、ヒロインがリシャール様のルートに入った場合。ハッピーエンドを迎えると、彼女を害したとして断罪され、家ごと没落の憂き目に遭うのが、悪役令嬢ポジションにいる自分だということは、私の記憶に割としっかり残っていた。
私は痛む頭を抱えて呟いた。
「……だから、あの子に見覚えがあったのね」
リシャール様がさっき中庭で立ち話をしていた、ふんわりとした雰囲気の可愛らしい彼女が、この乙女ゲームの世界のヒロインに違いなかった。
ヒロインとリシャール様が話す場面を見たショックをきっかけに、どうやら私に前世の記憶が甦ったということのようだ。
(確か、ヒロインの名前はクロエ嬢だったはず)
他にも、同じ学園の公爵子息や教授など、数名の攻略対象の顔が目まぐるしく私の頭に浮かんできた。それぞれ、ゲームでは二次元だった顔が、私の知っている三次元の顔に重なる。
「やっぱり、間違いないみたい」
とりあえず、これまでの自分の人生を振り返って、まだ何も後ろ指を差されるようなことはしていないことに、私はほっと胸を撫で下ろしていた。
はっきりと物を言う方だし、多少頭に血が上りやすいとは自覚してはいるけれど、記憶の限り、私は間違ったことはしていない。
ただ、私は、今まで公爵家の長女として育てられてきた自分と、それを第三者の視点で客観的に眺めている前世の自分の意識が混在しているような、奇妙な感覚を覚えていた。
前世の私は、ゲームに熱中する姉を比較的冷めた目で眺めながら、悪役令嬢のアデレイドを見て思っていた。
――せっかく美人に生まれ付いて、家柄も良くて能力も高いのに、婚約者に執着するあまりにすべてを失うなんて、何て愚かで滑稽なのだろう、と。
前世の自分の記憶を思い出してショックを受けながら、私は瞳に涙が滲むのを感じていた。
(どうせ前世を思い出すのなら、リシャール様を好きになる前に思い出せたらよかったのに)
そう。今の私は、リシャール様のことが好きで、大好きで仕方なかったのだ。
私に微笑んでくださるだけでも、それを宝物のように思いながら一日を過ごせるほどに。少し彼に触れられるだけで、まるで身体に電気が走るように感じられるほどに。
彼の聡明な瞳も、やや低くて耳触りのよい声も、穏やかで優しく落ち着いているところも、そのすべてが心の底から好きだった。
前世の私には、これほど誰かを好きになった記憶はない。
とうとうリシャール様との婚約が決まり、嬉しくて天にも昇るような気持ちでいたのに、その幸せな気持ちに突然冷や水を浴びせられたようだった。
(神様は、何て残酷なのかしら)
私は、再び深い息を吐いた。
***
「お姉様、お帰りなさい!」
私は、玄関口に走って来て私を出迎えてくれた、愛してやまない幼い弟を抱き締めた。
「ただいま、ロイ」
16歳の私に対して、弟のロイは8歳と年が離れている。私は彼のことを生まれた時から溺愛して、よく世話を焼いてきた。お母様が彼を産んで早世してしまったこともあり、私は彼の姉と母代わりの両方を兼ねている。
滑らかな黒髪に、私よりは橙寄りの、暖炉の火のような温かみのある色の瞳をした彼は、とにかく天使のように可愛い。
結局、あのまま保健室でほぼ一日を過ごしてから帰宅した私に、ロイは心配そうに尋ねた。
「今日はどうしたの、お姉様? 何だか顔色もよくないし、体調が悪いの?」
「ほんの少し頭痛がするけれど、たいしたことはないわ。心配してくれて、ありがとう」
さすが我が弟、察しが良いなと私は目を細めた。
彼は、とても賢い。乾いた砂が水を吸うように、次々と新しい知識や情報を楽しげに吸収していく。最近は、お父様が連れて来た客人の噂話にもさりげなく耳を傾け、この歳にして結構な情報通になっている様子だ。
順当に行けば、今この国の宰相をしているお父様よりも、将来的には優れた宰相になること間違いなしだと私は思っていた。
(でも、私がヒロインに手を出したら、このアビス家ごと没落してしまうのよね。そうしたら、可愛いロイまで巻き込んでしまうことに……)
ゲーム通りに進むなら、ヒロインがリシャール様ルートに入った場合、これから私は彼女をリシャール様から引き離そうと、数々の嫌がらせをするはずだった。
前世の記憶では、アデレイドが嫉妬にその美貌を歪めてヒロインを追い詰めていく様子は、悪役令嬢らしい迫力があったけれど、その当人となってしまった今は、さすがに笑えない。
この子の未来を奪ってはならないと、私は固く心に誓った。
ロイは、そんな私を見上げて眉を下げた。
「お姉様、心配事でもあるの?」
「ううん、何でもないわ」
「嘘でしょう。お姉様、すぐに顔に出るんだもの」
「……」
やっぱりこの子は鋭いと思いながら、私は苦笑した。
「本当に、気にしないで」
ロイの頭を撫でると、私は自分の部屋へと足を向けた。
自室に戻った私は、帰りの馬車の中で辿り着いた結論を頭の中で反芻していた。
リシャール様ルートにヒロインが入らなければ、何の問題もない。
リシャール様ルートに入っても、ヒロインのバッドエンドなら問題なし。
問題は、彼女がリシャール様ルートを選んで、ハッピーエンドへと向かって行く場合だった。
私が痺れを切らしてプツッと切れ、彼女に手を出したなら、私とこの家の破滅エンドに向かって一直線だ。
(粘ってみる価値はありそうだけど、それでもダメなら、潔くリシャール様を諦めよう)
まだ痛む頭を抱えて、重い気持ちでベッドに潜り込んだ時、来客を告げるベルが鳴った。
我が家に長年仕えている老執事が、私の元に飛んで来た。
「リシャール様がお見えです」
「えっ、リシャール様が?」
老執事の後ろには、見舞いの花束を手にしたリシャール様の姿があった。
彼は私のベッド脇まで来ると、その美しい碧眼で私を見つめた。
「まだ頭は痛むかい?」
「多少は。でも、大分落ち着いてまいりました」
「それならよかった」
彼は優しい笑みを見せた。
「君の様子が何だかいつもと違ったから、気になってね」
「……っ」
(やっぱり、私、リシャール様のことが大好きだわ……)
彼を諦めなければならない未来もあるのかと思うと、胸がぎゅっと掴まれるような、切なくてやるせない気持ちになった。
私の目から大粒の涙がぼろりと零れ落ちたのを見て、彼は驚いた様子で私の涙を指先で拭うと、そっと私の髪を撫でた。
「どうしたんだい? 君の涙なんて、初めて見たよ」
気遣わしげに私の顔を覗き込んだ彼に、私は本音を言う訳にもいかず、仕方なく見え透いた嘘を吐いた。
「目に、ごみが入ったようで」
「本当に、それだけかい?」
「……」
しばらく考えてから、私は慎重に口を開いた。
「今日、学園でリシャール様が楽しそうにお話しされていた、茶色い髪に桃色の瞳のご令嬢はどなたですか?」
「ああ、彼女はクロエ・ピルスナー子爵令嬢だ。僕のいるクラスに今日から転入してきた彼女に、挨拶をされたんだ。ただそれだけだよ」
(やっぱり、あの子はクロエ嬢。このゲームのヒロインだったのね)
クロエ嬢の話をする彼の瞳に、どこか熱を帯びたような不思議な色が浮かぶのを、私は歯痒い思いで見つめていた。
「ではアデレイド、ゆっくり休んで」
「はい。お越しくださってありがとうございました、リシャール様」
ーーリシャール様は、これからあの子に惹かれていくのかしら。
嫌な予感が胸を覆うのを覚えながら、私は部屋から出て行く彼の背中を見送っていた。
(……そういえば)
念のためにと、私はその後、老執事にクロエ嬢の名前と外観の特徴を伝えて身辺調査を依頼した。
***
クロエ嬢に関する身辺調査の報告書は、早々に私の手元に届いていた。
クロエ・ピルスナー子爵令嬢。16歳。
平民として、花栽培を営む農家に生まれる。兄弟姉妹が多く、幼い頃は家計が苦しかったようだ。その美しい容姿と賢さが、農家の上客で子供のいなかったピルスナー子爵夫妻の目に留まり、養子に迎えられることになった。
ピルスナー子爵家は最近力を伸ばしている新興勢力の一角だ。事業に成功し、金銭的に潤っている。クロエを養子に迎える際には、それなりの対価が実家に支払われたらしい。
クロエはその後、しばらく家庭教師をつけて学び、王立学園への転入が決まって現在に至る。
明るく快活で美しい彼女は、平民出身ゆえの遠慮のなさが逆に好意的に捉えられ、ちやほやとされている様子だ。
(平民出身の貴族令嬢、ね……)
確かに、ヒロインはそんな設定だったかもしれない。
そう思いながら手元の報告書に目を落としていると、私の横からロイがひょいと報告書を覗き込んできた。
「ふうん。貴族令嬢にしては、随分と珍しい生い立ちだね」
いつの間にか隣にいたロイの声に、私は目を瞬いた。
「あら、ロイ。こんなものを読んでも、面白くなんてないでしょう?」
「ううん、なかなか興味深いよ。……お姉様は、どうしてこの人のことを調べてたの?」
こてりと首を傾げた彼に、私は内心の焦りを隠して答えた。
「リシャール様のクラスに転入された方がいると聞いて、一応ね」
「そっかあ。さすがお姉様だね」
「そ、そうかしら?」
用心深いという意味かなと思いながら、私は曖昧に微笑んだ。
残念ながら、王立学園での状況は、少しずつ悪い方へと進んでいっていた。
リシャール様のクラスに転入してきたクロエ嬢は、急激に彼との距離を詰め始めた。リシャール様や、彼と仲の良い高位貴族の令息たちに自然に溶け込んでいる彼女を遠目に眺めて、私はぎりりと悔しく奥歯を噛み締めていた。
(どうして、あの子が図々しく彼らに混じっているの……)
リシャール様だけでなく、幾人もの攻略対象と近い距離にいる彼女は、いわゆる逆ハールートに向かっているようにも見える。
彼女の側にいる者たちは、やたらとボディタッチの多い彼女に、わかりやすくデレデレとしていた。リシャール様は多少ましなようにも見えたけれど、そんな彼女に好きにさせているところに私は苛立っていた。
どうしてこんなに短期間で、攻略対象たちに囲まれ、逆ハーレム状態を作れるのかわからないけれど、これがヒロイン補正というものなのだろうか。
一度、友人のユリア様の婚約者である侯爵令息に、彼女があまりにベタベタとしていて、見るに見かねて苦言を呈したことがあった。近くで見てもとても可愛らしい顔立ちをした彼女からは、甘ったるい香水の匂いがした。
けれど、そんなつもりはなかったと瞳を潤ませた彼女に、リシャール様の取り巻きたちから、平民出身で貴族のマナーに慣れていない彼女にそんなにきつい言い方はするなと、私が逆に窘められた。
もう私は、着々と悪役令嬢の道を進み始めているのかもしれない。
……でも。
あの時、クロエ嬢は私を振り返ってにっと笑ったのだ。周りの男性陣には決して見せないであろう、挑発的な笑顔で。
「何なのこの女」というのが、私の正直な感想だった。
私は、頭にかっと血が上りそうになるのをどうにか押さえて、ぎゅっと両手を握り締めた。あの場で挑発に乗っては、彼女の思う壺だったからだ。
ヒロインだし、もしかしたら、話してみたらいい子かもしれないなんて、少しだけ期待していた私が馬鹿だったようだ。
泣きそうな顔をしていたユリア様を見て、クロエ嬢を破滅させてやりたいと思う気持ちが膨らんだけれど、私はどうにかそのどす黒い思いに蓋をした。
(これは、悪い予感しかしないわね)
私は怒りと失望を隠せないまま、早足でリシャール様たちの前を辞した。
***
あっという間に一月が過ぎ、リシャール様と私の婚約披露パーティーの日がやって来た。
王宮のパーティー会場となる大広間で、綺麗なドレスを纏い着飾った私が隣にいるにもかかわらず、騎士団長の息子にエスコートされてやって来たクロエ嬢を見て、リシャール様の瞳が惚けたように細められた。
「クロエ様も招いていたのですか?」
冷ややかに尋ねた私に、リシャール様ははっとしたように答えた。
「あ、ああ。彼女も俺のクラスメイトだしね」
(リシャール様、最近ずっとこんな調子だわ。私といても、心ここにあらずといった様子だし)
優しく、気配りも細やかだった彼が少しずつ変わっていく姿を目の前にしても、何もできない自分が悲しかった。
ふと振り返ると、正装したお父様とロイが、少し離れたところから私たちを見つめていた。いつもポーカーフェイスのお父様は変わらない様子だけれど、ロイはどことなく心配そうに私を見ている。
(粗相のないように、気を引き締めなくっちゃ)
私は背筋を真っ直ぐに伸ばすと、来客たちにどうにか笑顔で挨拶を繰り返した。
けれど、ダンスが始まって程なくして、冒頭の場面に至る。
私は力の限り足を振り下ろすと、リシャール様の足を踏み抜いた。
「ぐっ……」
鋭いヒールに思い切り力を乗せられて、さぞかし痛かったのだろう。リシャール様は顔を歪めて呻き声を上げると、身体のバランスを崩して大理石の床に倒れた。彼の足を踏んだ時、私も足を捻ってしまったらしく、私も彼の上に重なるように倒れた。
一瞬、会場がざわめいたけれど、すぐに落ち着いた。ほとんどのカップルが、私たちを見て見ぬふりをしてダンスを続けてくれている。
そんな中、一人だけ空気を読まずに私たちのところに駆け寄って来る令嬢の姿があった。
「リシャール様! 大丈夫ですか?」
私が見上げると、そこには心配そうに眉を下げたクロエ嬢の姿があった。彼女の甘い香水の匂いが鼻を突く。
むかむかと吐き気を催すのを我慢しながら、もうどうにでもなれと思っていた。どうせ、私は悪役令嬢だ。
これで私が咎められ、婚約を破棄されて修道院辺りに送られることになったとしても、我が家の没落にまでは至らないことを願いたい。
そう思っていると、無言のまま身体を起こしたリシャール様が、徐に私の身体を両腕に抱き上げた。
「……えっ」
驚く私をよそに、彼は私の顔を覗き込んだ。
「足を捻ったのだろう? すぐに冷やした方がいい」
そして、クロエ嬢からは身体を遠ざけると、彼女を冷たく睨み付けた。
「クロエ嬢、覚悟しておけ」
「そんな! リシャール様、何を仰っているのです?」
(……???)
彼の足を踏み抜いたのは、誰がどう見ても私だ。この時ばかりは、クロエ嬢の言葉が正しいように思われた。
パニックに陥る私の横で、気付けば、青ざめた彼女の周りを、口元を布で覆った数人の兵士が囲んでいた。
会場のざわめきが一際大きくなった。
状況がさっぱり飲み込めないまま、私は片足を引き摺るリシャール様に抱きかかえられて、大広間を後にした。
***
「大丈夫かい? 痛かっただろう」
そう言って、控の間で自ら私の足を氷で冷やしてくれているリシャール様の姿に、私の目からはぽろぽろと涙が零れた。
「リシャール様こそ、足は痛くはありませんか? 先程は申し訳ありませんでした。私なら大丈夫です」
「でも、君は泣いているじゃないか」
「それは、リシャール様が戻ってきてくださったからです」
指先で私の涙をそっと拭い、優しい笑顔を私に向けてくださるリシャール様は、さっきまでの彼とは違う、私が昔から知っている、大好きな彼だった。
「すまないな、君には心配を掛けた。君のお蔭で、目が覚めたよ」
「……は?」
私が訝しげに眉を顰めた時、控の間のドアが開き、お父様とロイが早足で入って来た。
「お姉様!」
ロイが私の身体に抱きついてきた。
「もう、大丈夫だからね。あのクロエっていう人、もう捕まったよ」
「……ねえ、何がどうなっているの?」
「あれっ、お姉様も気付いていたんじゃなかったの?」
ロイが首を傾げている横で、お父様が彼の言葉を継いだ。
「この王国では栽培が禁止されている、異性を惑わせる香りのある禁忌の花が、密かに高値で売買されているとの情報を得ていたんだ。その香りをじわじわと時間を掛けて嗅がせると、少しずつ洗脳することができるとされている。結論から言うと、彼女の生家がその栽培を任されていて、裏で糸を引いていたのがピルスナー子爵だった」
「そんなことが……」
「子爵は、あの花から抽出したエキスで香水を作り、クロエ嬢に使わせていたらしいんだ。特徴的な甘い香りを彼女から感じなかったかい?」
「ええ、その通りでしたわ」
だから、彼女の周囲の男性が一様におかしくなっていたのかと私が絶句していると、お父様が続けた。
「元々、怪しいと目を付けていたのがあのピルスナー子爵家だったが、それに気付いたのか、あえて権力者を味方に取り込もうと、クロエ嬢を利用してリシャール様たちに近付いたようだ。彼女は、あの香りに頼るだけでなく、男性に近付く術にも長けていたようだったからね」
「特効薬の開発が裏で進んでいたんだけど、あんな風に物理的な痛みで正気に戻るなんて、知らなかったよ。よくわかったね、お姉様!」
ロイはそんな薬の開発状況まで知っていたのかと驚きながら、目を輝かせる彼に、私は微妙な笑みを返した。
「あれは偶然だったのだけれど。……リシャール様も、彼女の裏事情はご存知だったのですか?」
彼は私の言葉に頷いた。
「宰相から情報は得ていたから、自分を囮に適度に距離を取りながら近付くつもりだったが、危ないところだったよ。心が丸ごと乗っ取られるようだったんだ。あのままの状況が長く続いていたら、元には戻れなかったかもしれない」
「どうして、今まで彼女を捕えなかったのです?」
父が横から口を開いた。
「ようやく明らかな証拠が押さえられたのが、このタイミングだったんだ」
リシャール様は苦笑すると、私の髪を柔らかく撫でた。
「君があのように協力して、忍耐強く待ってくれた上に、僕を正気に戻してくれたから、こうして解決に繋がった。どうもありがとう」
「クロエ様は、この後どうなるのでしょう?」
「まずは知っていることを吐かされるだろう。禁忌の花の香りを、悪意を持って王族に使ったとなれば、もし牢から出られたとしても大分先のことになるだろうな」
私はほっと胸を撫で下ろした。もしかしたら何か事情があったのかもしれないけれど、彼女の腹立たしい表情を思い出すと、同情する気にはなれなかった。
「よかった……」
お父様とロイがそっと視線を交わしてから部屋を出て行くと、私はリシャール様の腕の中に強く抱き締められていた。
「ごめん。もう、これからは、君にこんな心配は掛けないようにするから」
耳元で聞く彼の言葉の温かさに、私は胸が跳ねるのを感じながら頷いた。
「……割と短気な私ですが、それでも構いませんか?」
「もちろんだ。もし俺が道を外れそうになったら、また戒めて欲しい」
「はい」
そのまま耳元で熱い愛の言葉を囁かれて、私の頬は真っ赤に染まった。
私たちは二人とも、多少足を引き摺ってはいたけれど、この日、無事に皆の前で婚約を発表することができた。
(悪役令嬢の私だって、幸せになってもいいわよね)
これからの学園生活は心穏やかに楽しく過ごせそうだと、私は隣で腕を組む愛しいリシャール様を見上げた。
その後、リシャール様の、熱に浮かされたようになっていたご友人たちも皆、それぞれの婚約者から手痛い一撃を受けて正気に返ったと聞いた。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!