Concierto de Aranjuez
スペインの作曲家ホアキン・ロドリーゴ氏のあまりにも有名なギターコンチェルト「アランフェス協奏曲」は好きで、よく聴きます。音楽の趣味は、わりとベタなのです。
ですが、アランフェス体験の最初が富田勲氏のシンセサイザーでしたから、よく写真で見るような、アランフェス宮殿の美しい姿や豪華な装飾、美しい庭園などは、あまり、ピンときません。
むしろ、富田氏推薦のナスカの地上絵などと結びついてしまいました。思い込みとは恐ろしいもので、なかなか払しょくができずにいまに至っています。
というわけで、詩のほうも勝手なイメージです。
風紋とともに広がる砂漠の真ん中に、なぜか、同じスペインのサグラダ・ファミリアのような高い塔がぽつんと建っている。それも、とうに打ち捨てられて、いまは廃墟となっている。
住む人のないはずの異形の窓からは、ぽつりぽつりと明かりが漏れだし、地上を満たす漆黒の暗闇の中に、その輪郭がぼんやりと映し出される。そして、空には無数の星が、それこそゴッホの「星月夜」のように渦を巻いて広がっている。
思い切り、個人的な「そうだったらいいのにな」の世界です。
これも、個人的な思い込みなのですが、「御心のままに」という言葉は、ビートルズが歌った「Let it be」の意味合いと同義だと思っています。通常は「ありのままに」と和訳されますが、全体の歌詞の内容からすると、聖母マリアの言葉は「御心のままに」のほうがしっくりくるのです。
この部分だけは一神教が腑に落ちています。
緩徐章・・・
爪弾く指からこぼれる調は
乾いた哀しみのように、こころを湿らせることもなく
さらさらと、指の間を流れ落ちるように
想いの隙間に落ちてゆく
古の華やかな宮殿と庭園を行きかう人々の姿は
すでに、時の彼方に消えて
乾いた石積みの柱の陰に
夕暮れの砂漠にも似た幻影が、ただ、広がっている
砂の海・・・
こぼれ落ちた哀しみは
風化した想いに吹き寄せられながらも、融け合うことはなく
繰り返し、繰り返し
風に舞い上がり、砂漠の上を流れる砂のように
やわらかな調を己が胸の内に奏でてゆく
描かれるはずの哀しみの形は
こころの、何処にもとどまることはなく
ただ、風紋のように、その時々の想いを浮き上がらせる
御心のままに・・・
哀しみを嘆き続ける、昨日の姿は消えて
ただ、あるがままに祈りを捧げる
頭を垂れた、この、ちいさなからだが
夕暮れの陰りの中に溶けてゆけば
誰がための祈りか
なにを祈るのか、それさえも問う意味をなくし
ただ、あるがままに
こころの風景のように、哀しみを受け入れながら
ふり仰げば、高楼の彼方に幾千の星は輝く
そういえば、いつかきみに「外国に行くのならサグラダ・ファミリアと大英博物館がいいなあ」と言ったのでしたね。なかなか、忘れないものです。