三章
「それ」は静かな世界にいた。
音がひとつも存在しない穏やかな世界。
広大な海の中で漂う感覚を···········「それ」は感じ取っていた。
その感覚に身を委ねれば委ねるほど············「それ」の意識は薄くなっていく。
自分の名前はなんだったのか?
自分が楽しいと思うことはなんだったのか?
なにをしようとしていたのか?············なにがしたかったのか?··············自分を構成していたほとんどの要素を··········「それ」は思い出すことができなくなっていた。
この静かな海の中に取り込まれたい··········そんな欲求さえあった。
抗う理由がどこにもない。
しかし·········だがしかし·············。
「それ」の中に残っていたひとつの感情が·········自分が海に溶けていくことを··········ほんの少し拒んでいた。
なにもかも忘れたはずなのに········「それ」が最後まで覚えていた感情。
なによりも·········なによりも大切な··········誰かに対しての感情だった気がする·············。
[[さちむら]]
ぴちょん。
雫が落ちて水面が広がっていくように···········。
突如······電激的に響いてきたその「音」は········薄れていた「それ」の意識を大きく奮い立たせた。
[[さちむら]]
二度目のその響きで········この「音」は自分のことを呼んでいるのだと··········「それ」は理解した。
溶け出していた腕と足が··········形を取り戻してゆく。
[[さちむら]]
三度目のその「音」で··········「それ」は···········誰が自分を呼んでいるのか思い出した。
ずっと隣にいてほしい人。
ずっと隣で笑っていてほしい人。
これからも一緒に過ごしていきたい人。
体が浮かび上がる。
海を抜け出し··········大空へと昇ってゆき······「それ」は··········静かな世界から放り出された。
「うわああああああんっ!」
「泣きすぎだろ」
「ぐすっ··········だって·······だって·······幸村が·····幸村が········う········うわああああんっ!」
「心配かけてごめんな」
福子から聞いた話によると········どうやら俺は····容態が急変して···········緊急手術を受けていたらしい。
らしいというのは···········なぜか自分には········そのあいだの記憶が一切ないからだ。
思い出すことができるのは·········あの不思議な夢。
とても静かで········どこまでも続いていきそうな··········海と大空が広がっている場所だった。
心地が良くて···········ずっと居たいと思えた。
けど·······間違いなく言えることがある。
あの場所に居てしまっていたら·············俺は今ここにいなかった。
自分を救ってくれたのは···········あの声。
そしてその声の主は·········。
「うぅ······ぐすっ········ぐすっ·······」
「あー、もういい加減に泣くのをやめろ!」
「ふぎゅっ!?」
彼女の両頬をプニっと引っ張る。
「笑ってくれ」
「·····へぇあ?」
「お前が泣いてると悲しい」
「·················」
福子の顔がリンゴみたいに赤くなった。
「お前の笑顔をみてるとさ·············昔から元気がでてくるんだ」
「·················」
「みせてくれよ」
俺が頬から手を離すと··············。
「·································へへっ!」
いつまでたっても変わらない。
天真爛漫な綺麗な笑顔を··············彼女はみせてくれたのだった。
幸村が退院して1ヶ月。
彼は今··········僕の隣を生き生きとして歩いている。
緊急手術の後·····体調がみるみるうちに良くなっていき··········日常生活を送れるほどにまで回復したのだ。
嬉しい。
胸の中がポカポカする。
二人一緒の日々が、また戻ってくると信じていたけど·············それでも·······僕は凄く嬉しかった。
「なぁ福子」
ふと幸村から話しかけられる。
「なに?」
言葉を聞き逃さないように耳を傾けると··········彼は奇妙なことを話し始めた。
その内容は·········自分には緊急手術前後の記憶がないということ·········海と大空の夢をみたということ··········僕の声が聞こえてきて·······自分を救ってくれたということだった。
「不思議なこともあるんだね」
話を聞いた僕は、一言そう言った。
「そうだな。
俺もあれがなんだったのかわからねぇよ」
「うん。どうでもいい」
「どうでもいいってお前な··········」
「今は僕が隣にいる········それだけで十分でしょ?」
「·················」
あっ。
顔が赤くなってる···········ふふふ、可愛いな。
幸村に対しての愛おしい気持ちが膨れ上がってくる。
「ねぇ。
そっぽ向いてないでさ··········こっちみてよ」
「うるさい」
「ねぇねぇねぇねぇねぇってば!」
「本当にうるさいな!?
あっ!ちょっ!服を引っ張るなよな!」
からかいすぎたかな?
彼が怒って·········僕の方に振り向いたその瞬間。
「っ!?」
少し背伸びをしながら·········僕は········愛しい人の唇に···········自分のそれを重ねた。
「··········!?·········!?··········えっ!?」
幸村は顔をリンゴみたいに赤くさせながら········わけがわからず混乱している。
すごく可愛い。
さっきからそんなことばかり思ってしまうな···········僕。
「幸村」
まだまだ動揺を続けている彼の瞳をみて·····。
「これからはずーっと一緒にいられるね!」
口の端を思いきり上げて············僕は元気よく言い放つのだった。