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夏のホラー2020

韋駄天は廻る。過去とこの瞬間の狭間を

 小さなころ、テレビ越しに見ていたのとは、まるで異なる現地の傾斜面に、思わず目をつむりたくなったものだ。木々の隙間から夏の日差しが地面を照らし、精油の香りが鼻腔をくすぐる。

 始めは心地よかった山道も、今や足の裏や腿を食らう牙を剥き出しにしている。

 額に流れる汗を、向かい風で吹き飛ばし、回転数を上げた脚の感覚は薄れていた。蓄積した疲労がボクの器から溢れている。それでも走らなければならない理由がある。

 中腹から斜度が大きくなり、肺が悲鳴を上げる。門脈に乗せられた糖質も、筋肉から剥ぎ取られたタンパク質さえ、風前の灯火よろしく最早虚しい。

 襷を受け取った去年のボクが、少し離れたところを走っている。幻影を追い抜き、引き離すことができたなら、限界を越えることになる。腕時計のカウントは悪くはない。

 昨晩の雨に濡れた土はぬかるみ、ボクの靴底に容赦なく絡みついてくる。心臓のポンプが張り裂けても構わない。脾臓が、背筋が、全身くまなく駆け巡る痛みもろとも引き連れて、ボクは疾駆する。

 急勾配を上り切ると、次に待ち受けていたのは、歪曲する下り道だった。実は負担になるのは、下りの場合も少なくはない。

 間接がはぜ、軋む音が、骨から神経を伝って脳へと遡る。

 腕も、肩も、意思に関わらず、勝手に前後に振れているとしか思えない。

 ボクの朦朧とする視界は、遂に仲間たちの背中を捕らえた。彼らは振り返ることなく、猛スピードで険しい斜面を下っていく。

 時計をちらと見る。揺るぎないハイペースだ。

 ずっと以前から分かっていたが、ボクと彼らとの間には、埋めることのできない、圧倒的な差が広がっている。

 淡い影となって、霧がかる林の向こうに消えていく仲間たちの背中を一心不乱に追いかける。

 どれだけ手を伸ばそうと届かない。

 今日も追いつくことはできなかった。

 麓に辿り着いたころ、山にぶつかった雲が、カーテンのような雨を晒していた。

 仰向けになったボクは曇天から垂直に落下する雨粒を身体中に受け止めて、

「あの日もこんな雨だった」

 呟いた拍子に涙がこぼれた。或いは目に雨の雫が入っただけかも知れなかった。

 入学したばかりのボクらは、夏の合宿で手厚い洗礼を受けることになるとはつゆも知らず、往路のバスでは随分とはしゃいでいた。

 晴れ模様の酷暑ですら倒れる者が後を絶たず、豪雨の折りにはリタイアが続出した。一寸先は霧に飲み込まれた真っ白な世界を、泥で覚束ない脚をフルスピードで運ばなくてはならない。

 先輩たちの背中は練習開始するやいなや、文字通り霧散して行方を眩ました。

 仲間とともに必死に見えない背中を追い求めた日々を忘れたことはない。

 ボクは起き上がった。掌や首筋には土や草がこびりついている。

 まだ走らなくてはならない。ボクは汚れたウェアもそのままに、再び山へと向かった。

 一ヶ月の合宿はあっという間に過ぎていった。先輩たちと実践形式で競い合った最終日。負けてはしまったけれど、脱落者はでないまま幕を閉じた。

 斜面を滝のような水流が満たしていた。くるぶしまで浸かった両足を、ひたすら漕いでいく。ボクは走っているつもりでも、誰かが見たら笑うだろう。それくらいに遅かった。

 ボクの意思に反して、どうにも動かなくなるまで、腕を振り、膝を上げ続けた。

 復路はタイムを気にするまでもなく、次第に薄れていく視界に成す術がない。体温が奪われて、水中を泳ぐような有り様に、ボクはとうとう倒れてしまった。

 一度うつ伏せると、地面と体が硬く結びついた。

「助けてくれ」

「置いていくな」

「待って」

 耳の奥にしまっていた仲間の声がボクの鼓膜を揺する。

 いつもボクが感じていた気持ち。

 合宿所からボクらを乗せたバスが出発した。疲れきった仲間たちは直ぐに眠りについた。

 ボクは窓の外を眺めていた。車内は恐ろしく静かだった。練習で何度も通った山道を、バスで下るのは不思議な感じがした。

 睡魔がボクに語りかけようと近づいたとき、突然辺りは真っ暗になった。夢を見ているようだった。

 朝だというのに、夜よりも暗い。完全な黒に包まれた。

「うう」

「痛い」

 暗闇から聞こえてくる呻きや唸り、叫びは、紛れもない仲間のもので、丁度同じころボクの体が少しずつ痛みを覚え始めた。

 割れた窓から流れ込む雨水とおぼしき液体に触れると、土の臭いに混じって鉄の錆びたような香りもした。

 仲間たちの慟哭は、幾つもの夜を越えた。そこここから沸き上がる彼らの振り絞った命は、順番に乾いていく。

 うつ伏せていると、顔が土に埋まって、真っ暗なあの日に戻れるような気がしてならない。

 ボクら部員は猪突猛進、前にしか向かないことを至上としていたのに、今ではボクはこうして過去にしがみついて立ち止まったり、振り返ったりしてしまう。

 仲間たちの足音が、うつ伏せるボクの傍らを過ぎ去っていく。もう何周目だろうか。

 長いこと這いつくばっていたが、雨は弱まり、雲間から光が射している。ボクは立ち上がる。

 例えこの身がちぎれそうなほど苦しくても、生きている限り、走ることができる。

 ボクは走る。ぬかるむ道をひた走る。

 また倒れるかも知れない。それでも構わない。仲間から託された襷を、ボクが絶やしてはいけない。

 夏の険しい山道に仲間たちを尋ねる、今日も韋駄天を目指すただ一つの影。(了)


運がいいことは、一方で運が悪い側面を備えていた。


勝利の影には敗者が必ずいるように、今を生きる者は、記憶や歴史を背負わねば歩み続けることはできない。



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