惚れた病に薬なし
「このメールアドレス、あんたの?」
川越は携帯の画面を差し出した。教室一個分離れている亜矢子にそんな小さな物が見える由も無いのだが、亜矢子はその場から動くことなく頷いた。
川越は、ため息をついた。
「……じゃ、なんかごめんね。そういう事だから」
亜矢子は、整理のつかない頭で精一杯状況を理解しようとした。その結果、辿り着く答えは身の毛もよだつ程想像もしたくない出来事であり、またその考えがほぼ間違いない事も亜矢子は肌で感じ取っていた。
川越が携帯をポケットへとしまい込み、腰掛けていた机から立ち上がったのを耳で感じていても、亜矢子は俯いたままの顔を上げなかった。必要以上に静か過ぎる教室の、独特の空気が二人を包む。
川越は決して目を合わせない様にしながら、静かに扉を開いた。教室の外の涼しげな空気が教室の中へと流れ込み、川越はその流れに逆らう様に教室の外へと出て行った。
そして亜矢子は、一人になった。
亜矢子は、期待していない訳ではなかった。万が一、もしかしたらと、川越が教室を出て行く直前まで微かに希望を残していた。だが結局川越は去り、はっきりと何かを言われた訳でもないのに二人は別れた。亜矢子の一年来の片想いは思いも寄らぬ形を迎え、後には悲惨な思い出だけが残った。
なのに亜矢子は、メールに文章を打ち込んだ。
***
『でも、私は本当に好き。改めて付き合ってくれませんか?』
階段を降りている川越の元に、登録名「松原綾子」のアドレスからメールが届く。その本文を見て川越は、胸の奥が痛むのを感じた。一体何と返せば良いのか見当もつかない。
もし、自分が亜矢子の立場だったなら、どれ程自分を恨んだだろう。そう考えると川越は、自分がした事の罪悪感に押し潰されそうになった。
なら、付き合えば良い。川越には、それが今自分に出来る最大限の罪滅ぼしであると思えた。これらの理由はあくまでも後付けだが、亜矢子は容姿も性格もそこそこ良い様に思える。
(……もしも合わなかったら、暫くしてから別れれば良い)
そう思い川越は、メールの返事を打ち込んだ。
「川越くん」
親指が、送信ボタンを押そうとしたその刹那。ほんの少しだけ早く、誰かが川越の名を呼んだ。
慌てて携帯をしまい込んでから後ろを振り返ると、そこには綾子が立っていた。
***
『ごめん』
三十分後、川越からメールが返って来た。亜矢子はそれ以上返信をせずに携帯を鞄の中に放り込むと、教室を後にするのは更にその一時間後だった。