人のふんどしで相撲をとる
亜矢子は、四組の教室の扉を開いた。放課後、閑散とした校舎にその音は響き、一人机の上に腰掛けた川越は扉の方へと顔を向けた。
――亜矢子と川越の二人は、はっきりと目を合わせた。
「や。昨日は、いきなりだったから本当にびっくりした」
と、軽く笑って声を掛けるのは亜矢子の想定で、実際にはそれより早く、川越が顔を背けた。それによって、亜矢子は声を掛けるタイミングを失う。
亜矢子は、明らかな動揺を顔に浮かべた。下を向いている川越にはそれに気がつく由も無いが、亜矢子の頬が赤らむ。
気を落ち着かせる為か、亜矢子はわざわざ後ろを向き直してから扉を閉めた。その音に反応した川越ともう一度目が合ったが、やはり川越はすぐに目を逸らした。
亜矢子は少し申し訳無さそうに、廊下側最前列の机に腰掛けた。窓際にいる川越との距離が、途方も無いものに感じられる。
(川越くん……。どうして?)
川越は、時々組んだ足をブラブラとさせながら退屈そうに何かを待っていた。その何かとは、亜矢子には絶対に分からない。
亜矢子は、制服のポケットから携帯を取り出した。もう何度も何度も見返したのに、亜矢子は昨日のメールの全てをまた見返した。だが当然、何かが変わる訳じゃない。相手は確かに川越康介、今日の放課後四組で会おうと言っている。
諦めたように亜矢子は、ただ待つ事にした。川越が何かを言ってくるまで、何十分でも何時間でも待つ事に決めた。
***
(いくらなんでも遅いな)
川越は、亜矢子と二人きりの教室で綾子を三十分間待ち続けた。だが、連絡も無しにこれは何かあったに違いない。痺れを切らしたように川越は立ち上がり、扉の方へと歩き出した。
この時川越に他意は無く、ただ単に廊下の様子を見てみようと思っただけであった。だが実際には廊下に出る為には亜矢子の横を通る必要があり、それ故亜矢子は驚いた様に過剰な反応を見せた。
(? なんだこいつ)
しかし川越は特に気にも留めず、扉を開くと覗き込むように顔を出して廊下を見渡した。廊下には、誰もいない。
川越はため息をつくと扉を閉め、再び窓際の机へと戻った。そしてポケットから携帯電話を取り出すと、カチカチとメールを打ち出した。
亜矢子の体に緊張が走った。二人しかいない教室の、静まり返った空気が頬を縛る。
川越は、疲れた様に首を捻りながら、メールの送信ボタンを押した。特に何の弊害も無く、送信終了の画面が表示される。
(何やってんだろ。個人面談はまだだろうし……。まさか、約束ほっぽって帰ったって事もないだろうけど……)
静か過ぎる教室に、亜矢子の携帯の振動音が響き渡った。
あてもなく漂っていた川越の足が、ピタリと止まる。そしてゆっくりと、視線を亜矢子へ向けた。
亜矢子は愕然と、今にも泣き出しそうな目で携帯の画面を川越に見せた。
「『今どこ?』って、どういう意味……?」
震える亜矢子の口元を見て、川越の手から携帯が滑り落ちた。