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恋は思案の外

 充分にしつけられた犬は、基本的に飼い主を裏切らない。飼い主の意思一つでどこへでも行き、飼い主の指先一つでどうにでも動く。これを最たる理由として、綾子は自分の家で飼っている犬を大層気に入っていた。

 綾子にとって、恋愛感情を含む異性との交際はこれの延長線上であり、交際相手が自分に尽くしてくれる事こそを何より望んでいる。それは究極に自己中心的な恋愛であり、だから綾子は一人の相手にいつまでも拘らない。しかしその結果、綾子は彼氏のいない時期というものをほとんど味わわずにこの青春時代を謳歌する事になる。

 何故なら、その過程自体は別にして、綾子がこれまでに多数の異性と付き合ってきたというのは周知の事実であり、綾子は基本的にそこまで理想の高くない、ある程度の相手なら簡単に交際を承諾してくれる美人、という認識を受けている。となれば、綾子が彼氏と別れる度にまた新しい相手、別れる度に新しい相手、と絶え間無く続いてゆくのはある程度自然の流れだった。

 しかしだからと言って、綾子の敷居がそこまで低いものになっているという話では無い。綾子が元来持つ近寄り難さに前述した経緯が加わり、ちょうど程好い敷居の高さを保つ。その結果として、綾子は絶え間無く異性からの告白を受けるが、その相手は綾子が見向きもしない様な不細工な男子ではなく、そこそこ女子からの人気のありそうな相手ばかりとなる。ともすれば、綾子がわざわざその告白を断る由も無く、次第に「交際の申し込みを断らない女」という認識を受けるのも、また自然の流れだった。

 こうして、この話を聞いたそこそこの人気者達はまた綾子の元を訪れ、綾子はそれら全てを受け入れる。そしてそれはまた綾子が告白を断らない女だという定説を周囲に再認識させ、再び異性が綾子の元へと集う。永遠に続く、無限とも思える様な循環。そしてその形式的に定められたかの様な循環から考えれば、今綾子に彼氏はいないので、誰かが綾子に交際を申し込む「番」である。


「俺、松原に告白する」

 朝のSHR前の廊下で川越康介は言った。

 校則違反ながら髪を少しだけ茶色く染めた、女子生徒から人気の高いバンドマン。特に彼が務めるのはバンドの華であるボーカルであり、去年の学園祭で開催したライブでの評価はすこぶる良かった。

「まじ?」

 川越のクラスメイト、坂本は目を丸くして聞き返した。目を丸くしたのは、綾子の素行の悪さを人から聞いて知っていたからである。もっとも、綾子の素行の悪さなら川越も充分すぎる程理解しているのだが、どうやら、綾子に告白しようとする者達にとってはそんなもの関係無いらしい。

 素行の悪さなど関係無いと言って綾子と付き合う事になり、綾子の性格の悪さは流石に受け入れられないと言って別れてゆく。馬鹿馬鹿しく思える様な話だが、綾子と付き合った事のある男子生徒達は皆口を揃えた様にこう話す。

「うん。松原今フリーみたいだからな」

 川越は、普段綾子の事を「あや」と呼んでいた。それは一年生の時に同じクラスだった事を考えれば普通の話だが、とにかく今綾子の事を松原と呼んでいるのは建て前である。

「ふうん。で、告白するとしたらどうすんの?」

 坂本は川越に顔を寄せ、声を小さくして尋ねた。川越は少し考える様に唸ってから、同じく声を小さめにして答える。

「ま、向こうも俺の事は知ってる訳だしメールで言うよ。誰か、今松原と同じクラスの奴からアドレス教えてもらう」

 少なくとも、下の名前で呼ぶ程度には仲の良かった川越が今現在綾子のメールアドレスすら知らされていないのにはまた別の理由があるのだが、その理由は川越当人すら分かっていなかった。

「なんだ、別に俺に相談するまでも無く全部決まってるんじゃん」

 坂本は拍子抜けした様に笑った。

「まあ、別に相談したかった訳じゃなくてただ報告しとこうと思っただけだから」

 川越も笑顔を返し、それを受けてまた、坂本は「なんだ」と言って笑った。

「そんじゃ、せいぜい頑張れよ。応援しといてやる」

 坂本がそう言い終わるのと同時に朝の予鈴が鳴り響き、二人は慌てて教室へと入っていった。


 夜。川越は加藤という今の綾子のクラスメイトにメールを送った。

『突然ごめん。綾子の今のメアド教えてくれない??』

 何分と待たずして、加藤からの返信が届く。


『ayaaya.y-tsg58.2@ezweb.ne.jpだよ』


 順調に推移しているかに見えた、いつも通りの良く見る風景。

 川越は綾子にとっても理想的な相手であり、もし本当に順調に推移していたなら、少なくとも暫くは確実に幸せな時間を過ごせた筈だった。

 だが、時に現実というものは信じられない様な出来事を平然と起こす。それを、綾子、川越、加藤らの三人は充分に思い知る事になった。この一通のメールを引き金として。

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