君子危うきに近寄らず
一般的に、中学校や高校の屋上というものは封鎖されており、生徒達が勝手に出入りできないようになっている。小説や漫画では生徒が屋上に自由に出入りできるような描写が普遍的だが、実際にはそんな事はなく、大抵の生徒は屋上に足を踏み入れる事は無い。
とは言え、まあ、仮に開放されていれば……という話でも無いのだが、松原綾子は一人、教室最前列の自席で弁当箱に向かうのが常となっていた。その周りにはまるで綾子を隔絶するかの様な空間が自然と出来上がっていて、その狭間を越えるといくつもの男子グループや女子グループが笑い声を上げながら楽しげな昼休みを過ごしている。ただ、狭間と言っても、あまりにあからさまな事をするとクラスの雰囲気が重くなるので、せいぜい綾子の周囲には誰も座っていないという程度の話である。また、それぐらいが一番辛いのだが。
「今日帰りどっか寄ってこー」
「ねえ、ライブ見に来ない? 俺らのバンドが出るんだけど」
陽気な喧騒を背中に感じながら、綾子は弁当箱の中のソーセージをつついた。別にもう慣れた事なので、逐一胸が痛んだりはしない。ただ、呆然と流れていく時間に倦怠感を抱きながら、綾子はソーセージを口へと運んだ。
昼食が一通り済むと、今度は授業のプリントに手をつけたり、彼氏がいる時は彼氏の元へと会いにいったりするのだが、今日は小さくため息をつくと立ち上がり、教室を出た。当然、何か目的がある訳ではなく、ただ何となく廊下をうろつき、最終的にはトイレに行き着く。それだって明確な「目的」がある訳では無いのだが、一人落ち着ける場所としてトイレの個室を選んだ。
暫く、個室の中で携帯をいじるなりして過ごしていると、ようやく昼休み終了の予鈴が鳴る。綾子はそれに紛れ込ます様にため息をついた。一日一日、この昼休みの時間をどう過ごすか。ある意味、綾子にとって最も身近で最も大変で、かつ毎日訪れる問題だった。
綾子は、もう一度だけ大きくため息をついて、トイレの個室を出た。
放課後、綾子は珍しく古本屋に立ち寄った。後藤と別れたばかりで暇を持て余していたというのもあるが、何か昼休みに読む本が見つかればというのがその最たる理由。綾子は古本屋の駐輪場に自転車を停め、自動ドアを開き中へと進んだ。
「いらっしゃいませー」
綾子はいつも面白く思う。接客業に就いている人々は、自分を他の人と等しく扱う。クラスの中心人物も、綾子の様な立場にいる者も、一歩校舎の外へと出れば全ては同等。それは言うまでも無く当然の事なのだが、その度に綾子は新鮮な感覚を味わっていた。それどころか、自分は顔が良い分、男性の店員は自分を微かに優遇するという事も理解している。それが理由で、綾子は普段から用も無くコンビニや本屋などに足を運ぶ様にしていた。
ただ、今日は純粋に本を探しに来た訳で、綾子は店内の従業員に目を配りつつも目的のコーナーへと進んだ。
この店は、基本的に一般書物よりもコミックに力を入れている。その結果、当然の如く小説やエッセイ等は店の隅へと追いやられ、またそれらのジャンルは区別されず一緒くたに並べられていた。酷い扱いだったが、重厚な小説からふざけたような内容のものまで肩を並べている様子は少し面白く、綾子は意外と気に入っていた。
『授業の度にお前にルーズリーフ配んなきゃいけない奴の身にもなれよ』
一冊の本が目に入った。表紙にでかでかと陣取ったそのフレーズが妙に面白く、綾子はそれを手にとった。
それは一人のお笑い芸人が書いた本で、表紙のフレーズの様に相手に精神的ダメージを与える語録ばかりを数百個集めたという非常にユニークな内容だった。綾子はページをペラペラと捲り、気がつけば小さく笑ってしまっていた。
(買っちゃおうかな)
基本的に一ページに一つのフレーズずつしか載っていないので、凄いスピードでページが捲られていく。そのどれもが独創的でバカバカしくて、綾子は夢中になって指を動かした。
『いつも見かけないけど昼休み、どこいってんの?』
綾子の指がピタリと止まった。弾んでいた目元が、ゆっくりと濁っていく。綾子は目を閉じ、大きく息を吸って、そして吐いた。
綾子はその本を元あった場所に静かに戻すと、何も買わずに店を後にした。




