親の心子知らず
松原稔子、享年68歳。聡明だった彼女は何事に対しても冷静な判断を下す事が出来たし、こうして認知症が進行する前に遺書を残しておく事も出来た。
稔子は、綺麗な顔立ちをしていた。それが理由かどうかは当事者にしか分からないが、若くして銀行員の妻となり、何一つ不自由の無い結婚生活を送った。忙しい夫を支える事を生きがいに感じ、空いた時間には友人との交流や趣味にも精を出した。
貯金にも時間にも余裕が出来た頃には晴れて第一子を出産し、通常言われている程の苦労は味わわずに子育てを楽しんだ。その上四十代半ばには大手企業に勤めていた親の遺産を相続し、友人の間でも羨まれる様な幸せな人生を稔子は辿った。
それでも、稔子は膨れ上がった貯金には興味を示さず、その頃には平穏な老後、昔から憧れを抱いていた孫との幸せな風景というものを夢に描くようになっていた。
――ただ、孫はなついてくれなかった。
順風満帆な人生において、稔子はただ一つ、孫との幸せを味わえなかった。もちろん、孫がまだ己の意志も持たぬ様な乳飲み子の頃には、抱きかかえて可愛がったりもした。しかし、小学校中学年時には早くも稔子を毛嫌いする様になり、年末年始稔子の家を訪れる時も終始つまらなそうな顔をしていた。
そんな孫から少しでも好かれるには、明らかな物資として愛情を伝えるしか稔子には思い浮かばなかった。
お年玉袋には、常に年齢不相応の多めの額を入れた。何らかの用事で孫が稔子を訪れた時には、その度にお小遣いを手渡した。それが稔子に出来る精一杯の事だった。
とは言え、それに加えて、孫は中学校入学を迎えた事で感情の隠し方を学んだ。それによって嫌な顔をせず年末年始を稔子と共に過ごしたし、度々稔子の元を訪れる様にもなった。それこそが、稔子にとっては自分がしてきた事の正当性を肯定する原因となったのだが、それが稔子にとって良かったのかどうかは誰にも分からない。
そして、孫が高校に進学した頃には、稔子は完全にアルツハイマー型認知症になっていた。孫が中学生の頃にはまだ老人用のグループホームに入居していたのだが、急激な体力の衰えと共に入院を余儀なくされ、最終的には誰の顔も分からない様になっていた。
稔子の認知症の進行は、極めて早かった。
平均的な推移と比べて約半分程の時間しか、稔子が夫の顔も分からなくなるのに時間は要さなかった。これは、科学的な関連性は分からないしあくまで抽象的な話なのだが、「苦労を知らなすぎた」と娘は話している。
――そして綾子は、祖母の元を訪れない様になっていた。
孫の顔まで分からない様になり、そもそも入院している事で個人用の財布を持たされない様になった稔子に、特に用は無かった。もっとも、そうなった時には稔子もそれに対して何かを感じる様な事も無かったので、この一事について誰かが喜んだり悲しんだりする事は無かった。
誰もが羨む様な幸せな人生で、最後の最後に稔子は不幸な境遇を味わったが、それも全ては記憶の枠から消え去っている。
いつ死ぬか分からない上に、果たして自分の認知症がどこまで進行するのか分からなかった稔子は、遺書をすぐには分からない場所に隠しておいた。それ故、それが開かれるのはもう少しだけ後の話になるのだが、全てを忘れた稔子の死に顔は、少し微笑んでいる様に見えたそうだ。
***
祖母が息を引き取った約六時間後、綾子は、学校祭当日の朝を迎えた。
こういう話だと、正直退屈に感じてしまわれる方も多いのかなと思いますが、
読み飛ばさず、流し読み程度にでも目を通していただけたら嬉しいです。