叩きあげ執事の勘
この世の地獄を知っていた。
母親が自ら産んだ子供をお金に換え、女は自らの持つ全てを売り、誰もが明日を生きるために泥水を啜り、草の根を齧り、目的を果たすためにはこの手が何色に染まることも厭わない。
そうしなくては生きていけない場所で俺は生まれた。
そして、死にかけた。当然だ。
物心ついた時には既に母親の顔なんて知らなかった俺が、生きる術を教わる前に捨てられた俺が、そんな地獄で当然生きていけるはずもなくて。
気がつけば日も当たらない場所でただ死ぬのを待つだけの日々が過ぎた。この世の何も知らずに死んでいくと思った。自分の名前すら書けないまま。
そんな俺を救ってくれたのが、先生だった。
王宮で貴族たち相手に学問を教えている先生。俺に、生きる道を与えてくれた。
俺はその日、初めて風呂に入り、温かいご飯を食べ、柔らかい布団で眠り、そして初めて――泣いた。
そんな俺に先生は何も言わず、ただ黙って手を握り、一晩中側にいてくれた。眠れそうになかった俺に色んな話をした。王宮のこと、教え子たち、自分のこと、そして俺のことを初めて見た時、頭に浮かんだこと……。
次の日泣き腫らして目が膨れ上がった俺を、先生は笑いながら、冷たいタオルを渡した。そして俺に尋ねた。これからどうしたいかを。
俺はただ一言、「生きたい」とだけ、答えた。
先生はゆっくりと頷いた。
「ケイト。私は君をあの路地裏で見つけた時、君の目に生きる意志を感じて声をかけたんだ。だから良かった。私のしたことは間違いではなかったのだと、証明されたのだから」
それから俺の忙しない毎日が始まった。
始まりは言葉から。王宮に行っても恥ずかしくない言葉遣いを習った。次に文字の読み書きを。初めて自分の名前を書けた喜びは今でも忘れない。
いつしか先生に会ってから数年が経ち、背が伸び、声が変わり、漸く王宮の執事見習いになった時――彼女は現れた。
「聖女様……?」
たかが執事見習いである俺にまで優しくしてくれる王子たちや、その友人。先輩執事たちや、恩師である先生。
みんなみんな変わってしまった。まるで人が変わったように。
そいつが現れてから皆おかしくなってしまった。彼女が殺せと言えば誰でも殺してしまいそうな、そんな目をして彼女の名前だけを口にした。
どんなに叫んでも俺の声は届かない。あの日俺を見つけてくれた先生でさえ。
それなのにあいつは言うんだ。まるで何もおかしくないみたいに。
誰も何も言わなかった。同じことを他の誰かが言えばきっと先生はそれが誰であろうと食って掛かったに違いない。先輩は俺の為に怒ってくれたに違いない。王子たちだって、その発言を諫めるくらいはしただろうに。
「孤児だなんて、どうしてそんな子がいるのかしら。私の国にはいなかったわ。とても平和で、ご飯を食べられない子供なんていなかったのに……」
今までに一度だって過去を恥じたことなんてない。
確かに、両親のいる温かい家庭を、羨ましく思ったことがないと言えば嘘になるかもしれない。暖かいご飯に屋根のある家、寝る前には読み聞かせの絵本を。それはきっと誰もが望む理想の毎日。
そんな毎日を先生はくれた。嬉しかった。だけど今こうしている間にもそうでない子供は沢山いる。俺みたいな人間でさえ羨む人は腐るほどいる。こんなんでも、俺は幸せ者なのだ。少なくとも俺はそう思っている。
なのに、
「辛かったね。寂しかったね。いいんだよ。無理して笑わなくても。私がケイトのお母さん代わりになってあげる。だって私も、貴方の気持ちが分かるから」
聖女様だという人は、この世で一番美しく清らかだというその人は、まるで俺の悲しみを自分の悲しみのように言って泣き、そんな台詞を言って俺をそっと壊れ物を扱うように大事そうに抱きしめた。
分かると言った。私には、貴方の苦しみの全てが分かるのだと。その言葉に、その表情に、涙が、出そうになった。
怒りで。
辛かった時も、寂しかった時も、無理して笑ったこともある。確かにそれはそうだ。だって苦しいのは当たり前じゃないか。飢えが、孤独が、生にしがみつくそれが、そうでない人なんかいるもんか。でもそれは、貴方が言っていい言葉じゃない!
貴方に何が分かる。その綺麗な手で、その穢れを知らない瞳で、俺の苦労の一体何割を知っているんだ。
「だって、誰だって一人は辛いでしょう」
一人? 貴方の周りにはいつだって何でも与えてくれる人がいるのに。
辛い? 貴方は何もしない。聖女だからと、かつてこの国を救ってくれた初代様に礼を尽くして国がなんでも与えてきた。それを甘んじて受け入れて疑問を持つこともしない。
貴方は平和な世界から来たという。何も知らない目をして。苦労を知らない手をして。
それがどうして、一体俺の何が分かると言うんだ。
貴方には俺が可哀想に見えるのだろう。一人で生きてきた、可哀想な人間だと。
だけどそれは大きな間違いだ。俺は先生に見つけて貰えたあの日、あの場所で間違いなく誰よりも幸福な人間だった。
上っ面だけを覗いて俺の全てを分かった気になるな。口から出た綺麗事だらけの嘘。心のこもっていないありきたりな同情心。
命は重いというその言葉に、なんの重みも感じない。
誰かおかしいことに気づいてくれ。聖女だというこの女の、この言葉を、この表情を、この温かいはずの温もりでさえも、おかしいことに気づいてくれ。
止めてくれ。その瞳を。
そんな、憐れむような視線で俺を見るな!!
「聖女様はなんて慈悲深いのだろう」
「ケイト、お前は不幸なんかじゃない。たった今、この場の誰よりも幸せなんだから」
「違いない」
「……!」
その日は泣きすぎて、次の日はどこにも行けなかった。あの日のように冷たいタオルを持って先生が俺を尋ねてくることはない。あの人は今彼女に夢中なのだ。俺の些細なことでも見逃さずにいてくれた、優しい先輩も王子もその友人も、今は誰もいない。
今頃みんな聖女の元にいるのだろう。
「……なんなんだよ。なんなんだよ、あいつ!!!」
聖女がいなくなって、先生たちが正気に戻って俺に謝りに来たあの日。皆が言ったあの言葉を、俺は忘れない。
「もうあんな目には合わせない。……すまなかった。許してくれとは、言わない。ただお前に心から謝罪したい」
「……そんな、いいんです。本心じゃなかったこと、分かってましたから」
分かっていても傷ついたとは、言えなかった。
だって俺は知ってる。あのあとすぐまたやってきた別の聖女が、今度は何故俺に近づく間もなく帰ったのか。
俺は知ってる。「元の世界に帰った」のだという聖女たちが、本当はどこに行ったのかも。
俺は知ってる。先生たちが何を思って、俺たちが何を思って、聖女たちが何を思っているのか、全部。
全部全部知っていて、知らぬふりをして、俺は俺のために何度も何度も聖女に話しかける。
まるで、皆が背負った罪を少しでも代わろうとするように。
「マナミさん! 今日は俺と遊んでくださいよ!」
「ケイロ君。私が今何してるように見える?」
「さあ……刺繍ですかね? それから俺はケイトですって」
健気に見えるらしい。一人で生きてきて頑張ってきたように感じるらしい。俺の今を知らない人が俺の昔を語る。
今までの聖女たちはみんな、俺の境遇を知って涙し、望んでもいない言葉を投げかけ、あわよくば王子たちや先生からの評価を上げようとしてる。勘違いから生まれた同情心。向ける相手は嫌悪しか生まない。どっちを見ても敵だらけ。聖女様、貴方の言葉は軽すぎていつも天に昇るだけ。俺の心には届かない。
そしてその言葉を追うように、いつか貴方も、
「ケイト」
「いいじゃないですか先生! 俺だってマナミさんとお近づきになりたいんですから」
聖女様聖女様、気づいてますか?
ここにいる俺の同輩も、先輩や先生も皆、貴方が言う一言を今か今かと待っているくせに、その言葉で俺が傷つくのを恐れてるんだ。……変でしょ?
今に始まったことじゃないのに、優しすぎるから天に登って行ってしまう言葉を必死に掴んでる。届きもしないのに。
「悪いけど、これ刺繍じゃなくて自分の服を手直ししてるの。このままだとどうしても着慣れなくて……」
「俺も手伝いますよ」
「メイト君、仕事は?」
「今は休憩時間です。それからケイトですって」
それでも貴方はいつまでもその一言を言わない。もういつもなら俺を抱きしめて泣き真似でもしてる頃なのに。
期待させといて落とすのは聖女の十八番。だけどまた期待しちゃうのは、もしかしたら他の聖女様とは違うんじゃないか。もしかしたら今度こそ天女という束縛から解放されるんじゃないか。……なんてそんなことを考えてしまうから。
そんな、夢のような期待を。
「それにしても器用ですね。俺、母親がいなかったからこういう光景は見慣れなくて……」
ほら。きっかけになる台詞を言うと、先生たちはともかく同輩たちの体はびくりと動いた。その優しさに、その甘さに、思わず溢れそうになった笑みを無理やり悲しみに変換した。
誤変換されたそれは未完成。取り繕われたそれは無理やり過ぎて。バットエンドをハッピーエンドに作り替えたらどうしても途中で物語の歯車が合わなくなるのに。そんなの、読み聞かせを知らない俺だって分かることなのに。
「……マナミさんの側にいると、なんでかな。母親がいたらこんな感じかなって、思っちゃうんです」
嘘、嘘。最初から最後まで、自分で吐き出しておいて全てを吐き出してしまいたくなる嘘。
だけど今までの聖女が一番喜んだ言葉。
これを聞いて、今までの聖女は俺を撫で、抱きしめ、終いには「お母さんのように思っていいよ」なんて的外れなことを言って、俺に憐みの視線を向ける。
そうしたらあとは簡単だ。ここにいる全員が貴方を完全に敵とみなす。そしたらいつも通りだ。それなのに、
「え、私、まだそんな年じゃないんだけど。それに君にはドリル先生がいるでしょ」
「ドリル先生て誰ですか。ドニ―先生ですよね、その人」
マナミさんはしない。言わない。だから、嫌なんだ。
落ちてくれればいい。誰かに。惑わされればいい。俺たちの罠に。言ってしまえばいいんです。
「ここにいたい」って。
そしたら俺たちは、貴方を敵と思える。天に帰すことを、辛いとは思わなくなる。でも、
「そうだっけ。ごめんね、モイト君」
「どんどん離れていきますけど、ケイトです。覚える気あります?」
「……………………あるよ?」
「その間なんですか」
この人が今までの人と違うって感じるこの直感を、信じるかどうかは、まだ悩んでいる。
何物でもない、誰でもない、己の、勘を。
○見習い執事
ケイン。苗字なしの孤児出身。執事たちの中でも最強の叩き上げにつき大人びているがまだ13歳の見習い執事。素だと口が悪いし手が早い。
執事や見習い執事になるためには王宮内である程度の権力がある人からの推薦状が必要なので、孤児出身でここにいるのはめちゃくちゃ凄いし、かなり目立つ。後見人は拾ってくれた先生。推薦者は先生の担当している生徒(貴族)。