【BL】花を数える
相撲見物のあとで夜桜でも見に行かないかと誘ってみると、皆川は、花見とはこれか、と笑って猪口を傾ける仕草をした。
皆川は端正な紳士めいた身なりとは裏腹に、相撲の賭師などをやっている男だ。振る舞いに品がある(俺たちと違って)とか、芯から金に困った様子を見たことがない(俺たちと違って)だとか言われているが、少なくとも俺が最もよく知る顔は桟敷で出会う軽薄な顔だ。
「それもいいが今日は生憎と銭が心許ねえ。酒はついでになるが、いいか」
「おれは別にかまやしないけど……夜桜とはアンタも案外風流だね、曽根谷」
「こんなもんで風流が気取れんなら、俺なんかとうに通人だ」
「いいじゃないか通人、なってやろうよ」
そう言って皆川はへらへらと誘いに乗った。
夕闇の中でぼんやりと照らされた桜は、いつもより濃く色付いて見える。堀端に沿って並ぶ桜の周囲には、夜桜見物のためにか常にはない行灯がぽつぽつと設えられていた。
「思ったよりも人が多いね」
連れだってやって来たものの、皆川の言うとおり桜の下は行き交う花見客で真昼のような人出だった。なるほどこれなら行灯も必要になるだろう。
「世の中は浮かれた暇人ばかりなんだろうよ」
俺は自分と皆川を順に顎で示した。
「なるほど、違いない。さて暇人は暇人らしく、田楽でも摘まんでやろうか」
田楽の屋台を見つけた皆川がそちらへ向かおうとして、二人連れの男女とあわやぶつかりかける。二人は頭上の桜に気をとられて上ばかり見ていたようだ。
詫びを言われたらしい皆川が何こちらは大丈夫だ、といったような仕草をして、今度こそ屋台へ行く。
辺りを見渡すと、確かに桜を見上げていて前方不注意の見物客は多いようだ。座って下を向いているのは花より団子か酒の者たちだろう。
「おい皆川、少し端へ行くか」
田楽を受け取ったところへ俺が声をかけると、皆川も意図を察した様子で頷いた。
人の流れを避けて、大きな桜の木と堀の間に二人して立つ。見上げるとたっぷりとした花の量で重みのありそうなその枝は、お堀の水面に向けて今を盛りと差し伸べられていた。
水面に映った二つ目の桜に、舞い落ちた花びらが浮かぶ。
「上の桜もきれいだが、下の桜も乙なもんだねえ」
食べ終えた田楽の串を揺らしながら、隣にいる皆川が歌うように呟く。春の夜風が心地よく、俺はただ、ああ綺麗だと思った。
しばらくぼんやりとそうしてから、俺は堀に背を向けると、今度は行灯の合間を行き交う人々の方を眺めた。
「こうして見ると、誰も彼も本当に上ばかり見てるもんだな」
「そりゃァこんなにすぐ頭の上に、これだけ見事なものがあるんだ。辺りも薄暗いし、人なんざろくに見てやしないさ」
こりゃあ掏摸にも気をつけた方がよさそうだ、と言って皆川は手にした串を折って辺りの屑籠へ放り込んだ。
「ああ、掏摸か……そっちの心配はすっかり忘れてたな」
言いながら俺は手を伸ばして、素知らぬ顔で皆川の左手を握る。
「急になんだい? アンタまさか、おれが人の財布に手を出すとでも思ってるのじゃないだろうね」
握られた自分の手を見て、皆川が心外そうな顔をした。今度の意図は察して貰えなかったようだ。
「莫迦、そんな理由じゃねえ」
俺は一度握った手を、指を絡めて柔らかく握り直す。
「ああー、そういう……。はあ、なるほどねえ」
皆川は間の抜けた返答をした。理解した割には、色気のないこと甚だしい。ちょっかいを出したこっちが恥ずかしくなってきて、顔を背ける。
「ってことはなんだい、もしや夜桜は口実かい?」
「誘ったときはそこまで考えちゃいねえよ。あれだよ、どうせ『薄暗いし、人なんざろくに見てやしない』んだろう」
我ながら単純な話だ。桜が綺麗で夜風が心地よくて隣に皆川がいて、そうしてこいつに触りたいと思った。皆川の方もそうなんじゃないかと勘違いをしただけのことだ。
「──そうなったらお前、惚れた相手の手ぐらい握りたくもなるじゃねえか」
「ふうん」
気のない返事をした皆川が俺の手を握り返して揺するので、そちらを見る。だが皆川はやけに楽しそうな顔をしている。頬に赤みが差しているのは気のせいだろうか。
ほとんど聞こえないような、唇の動きだけで何か言った。
──この、助平!
その表情は、おそらくこいつのほうが余程すけべなことを考えていそうだ。次の行き先で酒を飲む間があるかは、お互いあやしいものだろう。