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 鈴鳴りのかなたで       

作者: 谷畑美帆

物語はここから

  麻でできた簡単なテントの中からは、消え入るような声が聞こえてくる。中に入ってみると、そこには何人かの病人らしき者たちが寝ている。彼らの発する声は、熱にうなされてのもので、言葉として発せられたものではなく、うめき声だ。しかしその声はだんだん小さく、そしてとぎれとぎれになっていく。

「結さま、この男は死んでしまいました」

呼吸がなくなったことを鼻に手を当てて確認したものがいった。たった今男が一人、こと切れた。

「そうですか。では少し離れたところで焼いてきてください。」

「え、人を焼くのですか?」

人を焼くなどということを考えたこともない、驚きの表情で男は質問をした。火葬という風習は一般的でなく、死んでいる者とはいえ、人を焼くことにはかなりの抵抗があるようだ。

しかし、少女は、そうするように指示した。

「そう、焼くです。そのままでは燃えにくいから木など燃えやすいものと一緒に焼くのです」

「は、はい。わかりました」

立ち去る男を見送る少女の疲労はピークを越えていた。

「やらなければ、とにかく、なんとかしないと・・・」

結はつぶやきながら、

「結さま!!!」

倒れてしまった。

「結さまぁ!!!」

皆が駆け寄ってくる。

「とにかくお休みいただこう。これ以上無理はさせられない」

「そうだな・・・」

「結さま、しっかりなさってください」

「結さま・・・」

皆が声をかけているが、少女の意識は遠のき、

「大丈夫。大丈夫だ。とにかくなんとかしないと。感染症の拡大を食いとめないと・・・」

うなされながら、深い眠りへと落ちていった。


医者の娘

JR内房線の下り電車がとまり、K駅のホームに足をつけた。ここは郊外の駅なので、都心にくらべて、あまり多くの人が行き来しない。が、それでも夕方には登下校の学生や家路へと急ぐ会社員の姿が多くなり、そこそこの混み具合となる。

駅西口の階段を降りると、夕方にも関わらず、強い日差しが照り付けていた。とはいえ、八月も下旬をすぎ、じりじりとした太陽の力強さの中には秋の気配も感じられる。

「夏もおわりだなぁ。でもあつぅ~」

少女は思わず叫んでしまった。

「暑いと何もかもがどうでもよくなってくるな、早く涼しくならないかな」

高校は夏休みも終盤に入っていた。授業はないが、部活は毎日ある。そのため登校しなければならない。少女はいわゆる「歴女」で、高校では地域歴史研究会、通称、地歴研に入っている。

しかし、このクラブに入ったのはなりゆき。友人に誘われ、なんとなくの入部であったため、当初、やる気はほとんどなかった。というのは、歴女にもいろいろなタイプがあり、アウトドア風で山登りのようにグループで遺跡巡りをする仲間系と一人でコツコツ調べてその成果を雑誌に掲載したりするボッチ系に分けられる。

(この遺物の年代はこのあたりだから、このガラス玉はこっちより古い。)などとほくそ笑む。なのではこの少女は後者に入る。歴史は好きだが一人でコツコツ調べるのが好きなタイプで、みんなで調べて発表する―という研究会ならではのノリについていけないところがあった。

 少女の名前は、鈴守結は、17歳である。化粧っ気のない顔には時折、ピンク系のリップをつけ、ピアスの孔はとりあえず左右に1個ずつあけている。肩まで伸ばした髪は実用性重視のポニーテールかお団子ヘアが定番。そしてやや神経質でオタクなところを除けば、やや幼い感じの顔立ちの平凡な女の子といえた。

駅を降りて、大踏切のほうへ歩いていく。と、和菓子屋「澪元」の大旦那に遭遇した。

「おかえり、結ちゃん、今日も暑いね」

「ただいま、おじさん、暑いねえ。がんばるねぇ、でも無理しないでね」

「ありがとう。今日も元気いっぱいだよ」

「すごいなぁ、おじさんは・・・」

といいかけて、自分がどうしてこんなに疲れているのかと思ってしまった。

この大旦那は、今年80歳。白髪だが菓子屋という労働のため、筋肉質な体を持っており、老人ながらにたくましい。

それもそのはず、ふつうの会社員なら定年退職して年金暮らしをしているところだが、このおじさんの場合は、まだまだ現役で、今でも毎朝五時に起きて、あんこを炊いている。

「おじさん、今日も元気だね」

「そりゃそうさ、あんこだき、お菓子作りは体力がないとできないし、感性も豊かでないとね。日々精進しているよ」

「すごいね」


しかも、この大旦那、全日本和菓子コンクールで若いころ優勝したことのあるすごい人なのだ。そして、今では品評会等には顔を出すことは少なくなったが、今まで通り黙々と、地元で「定番」の和菓子を作っている。ガラスケースをみると、菓子はいつも通り完売だった。

この和菓子屋には、いわゆる「イートインコーナー」がある。といっても、店のありようは昔風の食堂で、大福やまんじゅうに加えて、ラーメンや海苔巻きも食べられるといったものだ。結のようなはらぺこ高校生には本当にありがたい存在であり、お世話になることも多い。

「結ちゃん、今日はラーメン食べていかないのかい」

「うん、太るからちょっとセーブしてるの」

「そんなことしなくてもいいよ。いまよりもうちょっとふっくらしたほうが可愛いんだよ」

「そんなこといってくれるのおじさんだけ」

「そんなことないさ、かわいいもの」

「あはは、ありがとう」

ここの和菓子に関しては、根強いファンが多い。

しっとりと、後からくるここちよいあん。それをひきたてるため、わずかに入れられた隠し味の塩気。たまらない。

(うーん、おじさんにしかこんなあんこはつくれないだろうな・・・。和菓子にノーベル賞とかあったら受賞しているはず。)とあんこを堪能しつつ思うのだ。

「これ、もってきな」

「え、いいの?」

「かたちが悪いんで、のけておいたのさ。いつも買ってくれるし、こんなのでよかったら」

「ありがとう、おじさん。ダイエット少し忘れるわ」

「あはは、そうこなくっちゃ。お父さんによろしくいっといてくれよ。あ、それから、さっき真っ赤な服着たおばちゃん歩いてたけど、あの人、結ちゃんちのおばあちゃんだよね」

「う、うん、たぶんそう」

(あーそういえば今日、おばあちゃんくるっていってな。)

お菓子を食べ終わり5分ほど歩くと、大通りから奥まったところに、ぽつんと立つ「鈴守整形外科」の看板が見えてくる。

玄関のドアをあけると、京都からやってきた祖母が家の中から飛び出してきた。ゆるくパーマをかけたショートカットに真っ赤な口紅をきっちりひき、ビビットなワンピースを着た年配の女性だ。

「おかえり、結ちゃん、今日は、まあまあ、はよ帰ってきてんな。今も弓やってんの?部活は歴史のンか?つかれたやろ。またおおきなったんちゃう?それにまた娘さんらしなって、お母さんに似てきたし、別嬪さんなってきたわ。ボーイフレンドとかおるんちゃうん?あ、そやそや、おばあちゃんな、結ちゃんにお土産こうてきてあげてんで、食べや。このお菓子好きやろ。いやあー、それにしても晃一には困ったもんやで。もう礼子さんな、あっお母さんっていわなあかんかってんな。結ちゃんのな、お母さんやな、しなはってから3年も経つのにまだ結婚しーひんねんな。もう、結ちゃんもこまるやろ。お父さんに、はよ結婚し、っていうたげてーな。あ、それからな、おばあちゃん、結ちゃんにかいらしい服こうてきたげてん、きてみ。ようにあうと思うわ」

関西弁で機関銃のようにまくし立てるこの独特の言い回しには閉口してしまう。それに

(ラメ入りか・・・、この派手な服・・・・。うーん、どこできたらいいんだろ。お菓子は好きなやつだからいいんだけどな。)

とため息が出た。

すると、奥から、

「おーい、受付やってくれ」

と声がした。院長の父である。

「お父さんよんではるし、はよ、いったげ」

電話もなりだし

「あっ、電話鳴ってるし、出るわな。はいはい。もしもし・・・」

と祖母も言ってくれたので、

「はぁーい」

と父の手伝いをしにいく。

だが、これがなかなかめんどくさいし、バイト代をもらえるわけでもない。

いってしまえば「ちょいだるい仕事」なのだ。だが、これも、開業医である父・鈴守晃人を支える大事な仕事。具体的には、 

「鈴守整形外科でございます。どうなさいましたか?」

と電話で応対をしたり

「本日は1200円となります。処方箋はこちらです。お大事になさってください」

と会計をしたり、

「ちょっと包帯巻くの手伝ってくれ」

と言われて、忙しいときは、看護助手のようなこともやらされるのだ。

だが、この仕事を、最近、結構やりがいがあるものと思うようにもなってきた。そして「医者になるのも悪くないかも」と思ったりしている。

この町に住み、地域に根ざした医療を実施している父の仕事には多くの人が感謝していて、尊敬もされている。そのため、最近では医学部への進学も進路の一つとして考えていた。

(将来のことを考えた場合、こういう作業をやらされるのはプラスになるかも…。でも医学部って難しいんだよな。それにそんな勉強してないしなぁ。)

毎日学校に行き、帰宅して父の仕事を手伝う。夜は宿題したり、歴史の本を読んだり、音楽を聞いたり。そしてたまに、神社で弓のけいこをしたり、友達と遊びに出かける。結は、そんな暮らしを送っている。

「おい、お使いに行ってきてくれ、今日の夕飯の材料だ」

と書かれた買い物メモと1000円札を渡された。するとそれを見ていた祖母が荷造りをしながら

「結ちゃん、お父さんのお手伝い大変やな、はよ結婚せなあかんわ、ほんま心配やわ。せやけど、おばあちゃんな、さっき電話かかってきてな、おじいちゃんがギックリ腰なったいうてからに、すぐ帰らなあかんようになってしもてん。また来るしな。お父さんにいうときや結婚しーてな。ほなまたな」

といって、そそくさと去っていった。

(あーまた結婚いってるよ。)と思いつつ「了解。」というなり、近くのスーパーまで自転車を飛ばす。

この家では、父と結は、二人暮らしなので、家事全般、炊事洗濯掃除の一切はこれまで主に父がやってきた。

ちなみに父の趣味の一つは料理である。

「気分転換になるから」と言い訳をしているが、もともと家事が好きらしい。

結も父を手伝ってできるだけのことはなるべくやろうとは思ってるが、彼女の場合、考え事をしているときに料理はできない。思考が中断されてしまうからだ。

(今、この本を読んでいるし、いろいろ考えているから、だめだぁ~。)

こういう時に、結が料理すると、半分うわの空で調理してしまうため、レシピを半分以上無視したちょっと不思議な味ができあがってしまう。そんなこんなで父からクレームがつく料理をつくってしまうことが残念ながら多い。

忙しい父に悪いなと思って、それでも、考え事をしながらでも結は何かやろうとする。が、あとでものすごいクレームがつくので、やる気もそがれてしまうのである。

「あー、そんなことして」

とか

「なんで、そこでそれを入れるかねえ」

とか、いわれると萎える。そして、料理の最中、結は材料がなければ代用して作ってしまう。例えば、ディップをチコリにのせる料理などの場合、

「まあ、レタスでもいいか」

と思って、レタスにディップをのせてしまう。でも父は違う。

「チコリとレタスとでは全然、味が違うじゃないか。触感も違うし。なんでこんなことするんだ」

と怒り出す。そして、

「この年になるとあと何回食事できるかわからないんだから、1食1食を大切にしていかないと・・・」

とか年寄みたいなこというし、

(いますぐ死ぬわけでもないのに何言ってんだ。それに料理なんて栄養バランス重視でいいじゃんか。)

と結は思うのだ。実際、結はおいしいものが嫌いなわけではない。いや、どちらかというと食べることは好きなほうだ。しかし、普段の生活では「食べる」ということに重点をおいておらず、(体が動いて、おなかがすかないようにしてればいいじゃん。)と思ってしまうので、特にこだわりがない。結のこだわりはもっと他のところにあるのだ。だから、結が役に立てることといったら、もっぱら買い物になってしまう。

「とはいえ、お父さんばっかにやらせちゃいけない、もうすこし料理ちゃんとやらないとなー」

父に対しての後ろめたい気持ちと、ちょっとした焦りから思わずつぶやいた。スーパーで、結は父に言われた食材を探した。

「えーと、鶏のムネ肉とレタスにベーコン…。あった、あった。お父さん、疲れてるときはいつも鶏のムネ肉買うようにいうなぁ。でも、今日は何作るんだろ」

レジで会計を済ませ、家へと急ぐ。ドアをあけると、ご飯の焚けるにおいがした。食材を台所において

「おつりはここに置くね」

じゃらっと、小銭をテーブルにひろげる。

「ごくろうさん」

首を振りながら言った父は、手早く材料を手に取る。

鶏肉を手早くとりだして、そぎ切り。ショウガをすりおろし、醤油とみりんで合わせたたれに鶏肉をつけてしばらくおく。

「時間をおきすぎちゃあ、いけないんだ。水っぽくなってしまうからな」

「こだわりすぎだよ・・」

父はすぐ焼きに入った。フライパンに先に火をいれておき、薄く油をひき、鶏肉を投入。

「焼けてきたぞ。」

いい色に焼けてきたら、さっき作ったしょうが液を投入して、少しむらして完成。鶏むね肉の生姜焼きの完成だ。

(おとうさん、凝り性だからゴハンおいしいけど、一言多いんだよな)

父が鳥のムネ肉をよく使うのには理由があった。鶏の胸肉にはイミダペプチドというアミノ酸結合体に活性酸素を除去する成分が多く含まれている。そして、これは、からだとこころの疲労を軽減させる。

このイミダペプチドというアミノ酸結合体は、長時間飛び続ける渡り鳥やハイスピードで泳ぐマグロなど長い時間かけて連続で運動する生物の筋肉に含まれている。そしてこの種の研究は昨今、医学界でも注目されているのだ。

数年前、アメリカで開催された医療関係の研究会に出席した父は、鶏むね肉に関する口頭発表を聞いてきて、それ以来よく食べるようになった。そのため、結の家では鶏むね肉が食卓にあがる頻度がぐんと増えた。

「メインの肉料理が完成したら、次はサラダだ。豆乳ベースで手作りした自家製マヨネーズにゴルゴンゾーラチーズで塩気とコクを足して、と。ソースのできあがり。それから、このソースとトッピングにこれまた自家製のフライドガーリックをレタスの上にふりかけて、晃一風シーザーサラダのできあがりだな」

それぞれの料理を大皿に盛り付け、ごはんと吸い物を碗にもりつけると、和と洋が混合した夕ご飯となった。

「あ、お父さん、あのね」

「進路の話か?」

「かな。うん」

「とにかく、先に食べておいてくれ、お父さん、まだもう少し仕事があるから。あとでゆっくり聞くからな。勉強もしっかりしろよ」

といいながら、そそくさと診療室に戻っていった。今日も何かと忙しい結の父である。

結にはもともとなりたいものがあった。なれるかどうかは別として、エジプトにいって壁画の調査をし、アマルナ美術(紀元前14世紀、新王国時代の写実的な絵画)の研究をしたいと思っていたのだ。そして中2のとき、将来なりたいものとして、「考古学者」を第一希望だといったところ、担任の先生に、

「まじめに考えて。夢みたいなことばっかりいっていてはだめだよ」

と言われた。

「ふう、夢みたいか・・・」

そのため、それ以来、将来のことどうしたらいいか、どうしようかについては、だれにも言い出せないでいた。

その一方で最近は医者にも興味がある。なので、こうしたことも含めて結は父に相談したかった。やりたいことってどうやってきめるの。お父さんがなりたいものは何だったの、そしてどうして医者になったの、といったことを…などである。


海辺のムラで

小高い山から海を見下ろすと、水面がキラキラと光っていた。

ここ何日かで、海の色がすこしずつ変わってきた。風も柔らかく優しくなってきたようである。こうした海の色の変化は夏から秋へと季節が変わってきたことによるのだろう。

イエから1里(1.6キロ)ほど歩いて小高い丘に登ると、走水の海が見えて、はるか彼方にある不二の山まで一望することができる。

あちら側には何があるのだろう。いつか海の向こうにいってみたい…と少年は思いをはせた。

(随分前に、舟に乗ってあちら側から人かがやってきて、コメを少し分けてくれないかと言っていたな。彼らは今年も来るのだろうか・・・。のどかでよき所に思えるけれども、コメの収穫がままならないのでは苦労が多くて大変ではないか。) とはいえ、大きな山にいだかれた彼の地は、やはり少年にはとても良きところに思われた。

(いつかいってみたい。)

この少年、(やまと)日子人(ひこひと)は16歳。まっすぐ正面からみた細面の顔には、少年ならではの幼さがまだ残っていた。大人にはなりきっていないかわいらしい顔である。

背の高さは5尺2寸(158㎝)程。やせぎみでまだ体はできあがっていないが、日ごろの鍛錬のため、腕や足にはしっかりと輝くような筋肉がつきつつあった。一方で少年ではあるが、将来この地を治める為政者ならではの知性と風格がその顔のなかにすでに形成されつつあった。

「わたしはこの地を父のようにおさめていくのだ」

少年日子人は為政者としての心構えも持っている。

日子人の父の(やまと)道田(みちた)()は、東征で知られた、あの(やまと)(たける)の玄孫の玄孫、つまり子孫の一人。いうまでもないことだが、倭尊は数々の逸話を日本各地に残している英雄であり、景行天皇の息子だ。そしてこの倭の一族は、数百年前から、この房の国(または捄の国の一部)の一部を治めている。 

ここ房総半島では、もともと良質の麻が自生しており、古くから麻布の生産地として知られていた。もともと捄国という名は、麻の稔りから来ており、上総や下総の国名を示す総は麻を示す古字である。

日子人が暮らしているのは、西暦でいうと、6世紀の後半。今から1400年ほど前ということになる。日子人の暮らす、房の国の南部、現在の木更津市あたりには、倭のほかに、馬来田と名乗る豪族がおり、友好的な関係にあった。この二つの豪族は畿内にある大和政権と関係の深いいわば名門一族なのだ。

馬来田という名は、継体天皇の娘にも使われている。日本書紀には、継体天皇が越の国(今の福井県)から大和へと天皇として即位するために故郷を後にした際に、自らの安寧を祈願して、この馬来田皇女を伊勢に下らせたと記されている。しかしこのふたり、継体天皇とこの皇女、親子の関係にありながら、実は相思相愛の関係にあり、泣く泣く引き裂かれたらしい。こうした二人の関係を文献に記すことができず、この事実は記録として残されていないが、過去にはこんなこともあった。

それはさておき、とにかく、この二つの有力豪族、すなわち豪族馬来田の娘麻()(おり)と倭の豪族の息子日子人は近く、婚姻関係を結ぶこととなっている。上総のこのあたりの地域には、須江や伊甚といった比較的力の強い豪族がいた。が、この倭と馬来田の一族をしのぐには至らず、みな彼らに一目置いており、馬来田との姻戚関係は日子人たちにとってもこの上ないものである。

日子人がイエに戻ると

「今年のコメは出来がよさそうだな」

農作物の出来具合をみにいった父の道田毛が戻ってきて言った。

日子人は、父の前に額づき、

「父上、おかえりなさいませ、それは大変よろしゅうございました。ムラの者もみな喜ぶでしょう」

うれしそうに言葉を述べた。道田毛は少しずつ大人になっていく息子を満足そうにみながら

「今のおまえの仕事は、私の手伝いにとどまる。だが、もうおまえもいい年だ。そして、近々妻もめとる。将来この地を治める豪族の長として、これからますます精進してもらわなければならない」

といった。

「はい、いろいろなことを学び、父上のように、皆のために働きたいと考えております」

こんな言葉を述べる利発な少年は、現代の私たちが考える以上に大人びているようだ。

名門豪族倭一族の一員であることにもよるが、日子人は自分の将来について何ら疑問を持たず、使命を心に刻み、民のため、日々精進している。だが、あまりの重責のためか、自分が何をすべきかなどという疑問を持つ余裕もないといったほうがよいのかもしれない。

この時代、人々は生きるのにせいいっぱいであった。多くの人間は、自分が何をしたいか、そんなことは考えない。明日のかてを得るために、皆、目の前の事実と向き合い、ひたすら生きていくのみなのである。

生まれ落ちたイエによってなるべき(なりわい)や役目はほぼ決まっており、それをどのように実施していくのかそういったもろもろのことが決まっているのがこの時代の常であった。

そして、日子人の唇からでてくる言葉は、優秀さからその将来を嘱望されたすこぶる出来のいいフレッシュな新入社員のようなものといえるかもしれない。

しかし、もし空回りをしようものなら周りの者から

「日子人さま、そうではございませぬ」

とたしなめられる。

なので、失敗も最小限で済む。というか最小限にしなければならない。跡継ぎに不安があるようでは、この上総の地は、平穏を保つことができないからだ。

現在の木更津市周辺が、近畿地方の大和政権と密な関係にあったことは、考古学や歴史学の研究者によって既に指摘されている。中でも、木更津市の金鈴塚古墳からは、大和地域や朝鮮半島とのつながりをも示すさまざまな資料が出土している。そして、この金鈴塚古墳がある長須賀古墳群に葬られてきたのが、倭の一族ということになる。

倭の一員である日子人は、地域の民を守るための武力と知力を、日々の精進によって、少しずつ培っている。

「今日は弓が的にすべてあたりました」

と日子人。一方、道田毛は

「うむ、だが止まっている的にあたるだけでは十分とは言えない。明日からが動いているものを射てみなさい」

「はい」

敬愛する父のもと、ひたすら前を向いて進んでいく。日子人の毎日は多忙であった。そんな彼の唯一の楽しみは、小高い山から海を見て、まだいったことのない土地に思いをはせることだった。


21世紀の海辺で

「じゃあ、出かけてくるね」

「待ちなさい。今日は私も出るから、鍵を忘れず持っていきなさい、あと帽子もかぶって」

晩夏のある日、結は、父からそう言われた。

「はいはい。了解」

「はいは一回でいいぞ」

(おとうさん!うるさすぎ!!)

結の鍵には小さな古びた鈴がついている。この鈴、実は、数か月前、小櫃川沿いにある神社の境内で拾ったものだった。結は、中学生以来、神社の境内で週1回、弓の稽古をしているのだが、その帰り道、ふと目についてこの鈴を拾ってしまった。

落し物は警察に届けないといけないのだが、小さい鈴が一個だけ、ぽつんとおちていただけ。それほど貴重なものでもなさそうなので、届けるまでもないと思った。そのためつい拾ってから、ポケットに入れてしまったのだ。その後も妙に気に入ったので、この鈴を結はキーホルダーにして鍵と一緒に持ち歩くようになっていた。

「鈴がついていると落とした時にわかって便利だし。やっぱこの鈴がないとね。それになんだか心惹かれるんだよ。小さい、なんてことない鈴なんだけどねえ」

と、お気に入りの鈴のついたキーホルダーを持って、結は出かけた。

鈴の大きさは約1.2cm、重さ1.3gほど。キーホルダーとしてたったひとつつけられたこの鈴は、何かの拍子にチリリとかすかな音を立てる。

この日、結は親友の麗華と午後から遊ぶ約束をしていた。そのため駅前のおにぎり「TKG-NIGIRI-CAFÉ」でまず待ち合わせ。

このおにぎりやさんは、結のお気に入りのカフェの一つで、おいしいおにぎりを百円ちょっとで食べられる。といってもコンビニに比べるとやや割高なのだが、注文を受けてから握るこのおにぎりのおいしさは格別だ。ふわふわのごはんにサケや昆布などの具がバランスよく入っているし、食べると

「うーん、おいしい、最高だ。」

といつも思わずつぶやいてしまう。

このほか、単品でコーヒーやウーロン茶、デザートとしてコーヒーゼリーやケーキもあり、いずれもなかなか良心的なお値段なのである。中に入ると麗華はすでに来ていて、ウーロン茶を飲んでいた。

「ごめん、まった?」

「ううん。大丈夫。私も今来たとこ。とりあえずなんかのみなよ。そうだなぁ」

と麗華は、結の顔を覗き込みながら

「結は最近少しフックら気味だから、私と同じウーロン茶にしなね。脂肪が多すぎる女子高生は認められないんだからさ。あと結はさ、もう少し飾らないとだめだよ。せっかくちょっとやばめのかわいい顔してるんだから、そこを生かしてもっとフリフリとか着てみたらいい」

とおしゃれに関する鋭い指摘が入った。

「麗華はきれいだもんね。私、男だったら麗華とつきあいたい」

「何言ってるの?女は美しいだけではだめなんだよ。知性とかいろいろ必要なモノがあるじゃん。それに結はかわいくなる努力しなさすぎなんだよ」

麗華は、クラスで一番おしゃれな女の子だ。肩まで伸びた髪は緩くカールされていて、ヘアカラーはやや明るいブラウン。ピアスの孔は左右に3つずつあいている。つけまつげばっちりの大きな目に濡れたような唇はピンクのグロスで品よく光っている。最も彼女はもともとルックスがいいし、クラスの中でも目をひくかなり目立つ存在でもあった。将来はモデルか女優になるといっているし、実際、彼女の容姿にはそれだけのものがあった。

そして歴女でもある麗華は、地歴研の副部長をしている。結が地歴部に入ったのは、彼女の影響でもあった。

待ち合わせ場所のおにぎりやさんを出て、木更津駅西口から、海の近くにあるアウトレット行のバスに乗った。

「アウトレットができてさ、ちょっと都会っぽくなったね」

と麗華がいったが、(アウトレットなんて田舎にあるものじゃないか…。)と結は思った。

この木更津の町は、客観的にみて、誰がどう逆立ちしたって、やっぱり田舎なのである。待ちゆく人のかっこうも東京なんかと違っている。そのため、この町になじんだ格好のまま、たまに渋谷なんかに出ると、いたたまれなくなる。

(要するに、この街にはいわゆるだささが充満してるんだ。はぁ~東京帰りたいわ・・・いまだにヤンキーファッションがはやってるし、最先端のおしゃれな街とはほど遠いのも仕方ないんだけど・・)

木更津には、数年前、父が都内のマンションを売却して移り住んできた。母の病が深刻なものであることを知って、こちらに越してきた…と、父は言っていた。そして、今はもうなくなってしまった母の最期が

「自然豊かなこの地であったことはよかった」

と父はよく話している。しかし、母のためばかりでなく、都会の喧騒に疲れた父自身がそうしたかったからではないかな…と今、結は思っている。

父の晃一は、診療ばかりではなく、国内外の研究会で発表もしている。だが、人つきあいがあまりうまくない父にとって、学会などに出かけるのは疲れることらしく、研究会のあとは、いつも機嫌がわるい。

「おとうさん、なにを怒っているの?」

と結がきくと

「怒ってないよ」

と答えるが、その顔は明らかに渋い。

たぶん、さまざまなストレスを発散させる場として、父はこちらにすむことにしたのだろう。実際、休日には釣りをしたり、山に登ったりアウトドアレジャーが気軽に楽しめるのがここのいいところなのだ。

そしてアウトレットについた。

「ついたね」

麗華がいうのと同時に二人はバスを降りる。

しかし、この日、アウトレットは素通り。

「ここって私らお客と思ってないよね」

「だな」

実際、高校生が買うような安価なものはほとんど売っていないし、結たちは、今日はここには用がない。

実は、アウトレットにくる人の9割は木更津市民ではない。お客さんとなる人たち皆、東京や横浜など対岸からやってくる。そのため、休日のアクアラインは大渋滞する。こうした渋滞に木更津市民はうんざりしている。結の父は週末はここをとおるたびにイライラして

「あーもう、んでこんなこんでんだよ」

と怒り出す始末。が、町の活性化のためにも仕方がないと思っている節はある。そして今日は日曜なのでやはり混雑していた。

少し歩いて、二人は海縁にある観覧車キサラピアに向かった。この観覧車の高さは60mあるらしい。

できて間もないが、知る人ぞ知る木更津の名所の一つとなりつつあるという。また、クラスメイトの間でも話題になっていて、ひそかなデートスポットの一つ…といわれているらしい。

もっとも相手がいない結たちにはどうでもいいことだが、できたばかりだし、話のたねに、とりあえず行ってみようということになり、今日ここに立っている。観覧車の料金は一人700円。

「少し高いけど、天気がいいと、対岸のレインボーブリッジやスカイツリーまで見えると思うし、たまにはこういうのもいいよね」

と麗華は言った。

とはいえ、週末だけあって、今日はやはり人が多く、乗るまでに少しだけ並ばなければならなかった。こうした列の中には、アウトレットから流れてきたお客さんもいるようだった。

「ここに来た人は、木更津からの東京湾の景色をどうしても見たいんだってさ」

と、麗華がつぶやく。

「麗華、そんなものなの?」

「そうだってよ。まあなんとなくわからないでもないかな」

と話をしていると、結たちの番になった。ようやく観覧車にのりこんで6分。てっぺんまできて、景色は一変した。初秋のきらきらした日差しに輝く海、小さく見える人間たち、なんだか世界の一部を一瞬支配したような心地よさを感じた。

「わぁ、すごいね、結、気持ちいい」

「ほんとだ、気持ちいい」

遠くにはおもちゃの様に小さいスカイツリーが見えた。しかし、12分で観覧車は1周し、終わってしまう。

「気持ちよかったけど、早すぎる」

麗華が愚痴る気持ちもわかる。

「ほんとだよ」

ほんとうにあっという間だった。

とはいえ、財布の中身のことも考えると、もう一回お金を払って乗ろうという気にはなれなかった。そこで結たちは、自販機で飲み物を買って、海辺のほうに行ってみた。暑くも寒くもない本当に気持ちの良い秋晴れの午後だ。

「向こうのほうにバンズ干潟っていうのがあってさ、そこには自然のままの地形が昔から変わらずあるんだよ。それに、そこに生息している生物もバリエーションに富んでて、学者が注目してるらしい」

バンスというと、結には魚介類をその場で焼いて食べさせる海鮮焼き物やさんしか思い浮かばない。

「すごい、詳しいね!!」

そんなこと知っているなんて麗華はやはりすごい。

「結ちゃんは、高校から木更津だからだよ。小学校のときとか遠足でいくし、社会科見学で行く郷土博物館なんかでもそういう展示しているからみんなしってる」

と麗華はつづけ

「それにデビューした時に、地元大好きっていって、この町のアピールもしないといけないからさ」

将来の夢も語った。

ふうん、ここはただの田舎ではないんだ。自然豊かで歴史もあって・・・と結は感じていた。

「ところで、木更津って、どのくらい前から人が住んでるの?」

「数万年前から人は住んでるみたいだよ。でも一番すごいのは古墳時代かな。この辺にはすごく大きな古墳がたくさんあって、そこからすごいお宝がザクザク出てきたんだよ」

と麗華は得意げに話した。

「古墳時代って奈良時代の前だよね? 今から千年以上前なんて気が遠くなりそう。でも私の好きな馬具とか装身具とかがあった時代だね」

「そうだよ。結ちゃん、おじさんが学芸員やってるんっしょ、だったらさあ、もっといろいろ聞いときなよ。もったいないよ。それに地歴研の部員としてはちょっと残念な感じだよ。だめー」

と麗華にダメだしされた。

「要するに今は田舎だけど、昔は違ったということなの?」

「結、そんな田舎、田舎言わないでよ、昔はすごかったんだから」

しかし、そんな気の遠くなるほど昔のことなんて考えられないし、想像もつかない。だが、「まあ少しうれしいかも」

かつては「都会」だったのかと思うとなんだか結はうれしくなった。

ちなみに結は麗華の前では、歴史にあまり興味のないふりをしているが、実は考古学に関しては、思うところがあって、ひそかに勉強していた。

(古代の工芸品の作りはほんとすごいし、いまどうしてこんなのがつくれないのかなあって思うんだよね。)

なにしろ、愛読書は『日本馬具大艦』や『東京国立博物館名品図録』だったりする。要するに結は、遺跡より遺物に興味がある少女なのだ。

「それはそうと結、クレイジーペットどのくらい集めた? この辺にもいるらしいよ」

クレイジーペットとは、大手おもちゃメーカーの一つである有楽堂が開発したアプリに登場する仮想のペット。そしてこれは仮想ペットであるにも関わらず、リアルの現実社会にも突然現れるというキャラクターなのだ。スマホでアプリをダウンロードして、キャラクターが生息している場所に行くと捕獲。そのあとはゲームで使えるようになっている。

「まだ10個くらいかな。あんままじめにやってないし」

「10個か、確かにお互い、少ないな・・・」

こうしたゲームはそこそこまでは無料でできるが、少し進むと課金しなければできないようになっている。そのため高校生には魅力的である半面、お金の都合がつかないため、皆なかなか進まず、つらいものとなってはいる。

結の場合は、親友の麗華同様、無料の部分に限ってゲームをするようにしている。そのため、合計100個あるキャラクターのうち、まだほんの10個程度しか二人は捕獲できていない。



倭尊の子孫―玄孫の玄孫

「なんかさあ、海辺にもクレイジーペットいるみたいだよ。行ってみよう」

麗華が歩き出した。

結もスマホをかざして探してみた。すると、画面でなにやら動いているが、なかなかつかまらない。

「やっぱり課金しないとだめなのかな」

とつぶやきながら、結は影をおうように踏み出した。

「結ちゃん、そっち海!!落ちるよ!!あぶない!!」

突然足が大地から離れた。同時に、キーホルダーに付けられた鈴がチリチリと大きな音を立てた。

「足が踏ん張れない!!おとうさぁーん!!」

直立二足歩行のまま、結は垂直に海に落ちてしまった。

「女子高生、海に転落して死亡。」そんなニュースが頭をかけ廻った。

(私泳げない、死んじゃうよ。)なにかにつかまろうと思って、もがいた。しかしもがけばもがくほどどうにもならない。

(息が苦しい、何かにつかまらないと・)

しきりにもがいていたら、はるか上方の水面に、小さな鈴が浮かんでいるのがかすかにみえた。そして、その光る方向に何かが見えた。光る方向にあるこの何かに手を伸ばし、結はようやくそれにつかまることができた。

(助かった・・・。)絶対に離さないと心に決めて、そのなにかに夢中でしがみつき続ける。

顔をあげると、それは驚くべきことに、いちぼく造りの丸木舟の一部だった。一本の丸太をくりぬいて造られているこの舟は全長20寸(6m)、そして舟の漕ぎ手はみたこともないようないでたちをしていた。

「ロケ?」とっさにそう思って、

「ごめんなさい~。岸までつれていってください。撮影の邪魔はしませんから。」

木更津といえば、いまだにクドカンの「木更津キャッツアイ」を思い浮かべる人が多い。が、東京から1時間かからない片田舎であるこのあたりでは、人払いなどもあまり必要ないため、実はテレビや映画のロケが頻繁に行われているのである。そして、ついこの間も、時代劇の撮影を見たばかりであった。そのため、ロケだと思ったのだ。

(でも、知らない俳優さんだなぁ。)結は思ったが、まだあまり売れていない若手なんだろうと納得し、舟の漕ぎ手に懇願した。こぎ手は2人の若い男性だった。

2人の男は、結が舟にしがみついてきたことにとても驚いた。が、舟がふらぐのを心配してかそれほど動じず、慣れた手つきで舟をゆっくりと力強く漕ぐようにしていた。

「なんだ、おまえは?あっちいけ!」

突然の結の登場に二人のうちの一人は怒ったような口調でいいながら結をおいやろうとした。すると溺れそうになった結を

「乗せてやれ。別にかまわぬだろうよ。どうせ、すぐ岸につく。貝でもとってて流されたのではないか、よくあることだ。」

もう一人の男は案外落ち着いていた。そうこうしているうちに、舟は海水浴ができそうな浜辺についた。

(舟の材はスギ科に近いコウヤマキみたいだな。)

岸につくと、二人の男は、舟を数本の紐を結われて作った縄で絡めて、引きずりながら陸へと歩いた。どうしたらいいかよくわからないので、結はかれらについていくことにした。男2人は、ずぶぬれになった結をみて驚いた。

「なんだぁ、おまえ、ずいぶん妙な着物きているのだな、どこから来たのだ?変な奴だな」

「私はたださっき海におちただけで。この辺に住んでいるの」

そうとは思えないと二人の男は互いに顔を見合わせた。

「この辺にすんでいるのか?館のものか?これから道田毛さまの屋敷にいくのだ」

「道田毛さま・・・」

「そうだ。お前はそこの館のものだろう?」

「道田毛さまってもしかして倭尊の?」

「またずいぶん古い話をするのだなぁ。それは倭道田毛さまのご先祖さまのことだ。あたりまえのことをきくな。どうしたんだ。変な奴だし、なんだか怪しいぞ。それに、こっちは忙しいんだからな。まったく・・・」

(倭尊って神話の中の人物かと思ってたけどほんとにいたんだ。)頭の中が真っ白になり

(私はどうやら古代にいるのか? だとしたら、何年前だろう? もしかしてタイムスリップしてしまった?)

と、とドキドキしながら、状況を急いで把握しようと努める。

「あ、えっと・・・。家に帰ろうかと・・・」

「帰ればいいだろ!おれたちはいそがしいんだからな。まったく」

「はぁ、あ、はい」

動揺した結は、まず(ここはどこか。)と頭を巡らせた。

(場所が動いていないのなら、ここはたぶん、さっき麗華がさっきいってたバンズ干潟に近いところのようだ。見た感じだと、地形はいまとあまりかわっていないみたい。それなら、道田毛様の屋敷は、平地にある。前に博物館に行ったとき近畿地方の大きな住居址って確かそういったところにあったっていってたしな。)

頭の中はさらにぐるぐるしたが

(このあたりでそういったところといえば、海にちかい八剱八幡神社のところ辺か、あるいは市役所の朝日庁舎とかがあるあのあたりか・・・。とにかくついていこう。)

地形を頭に描き、結は一生懸命考えた。

「おい、あいつついてくるぞ」

「ほっとけよ」

「まったく、今年はなあ、大変だよ、まったく・・・」

「まあそういうなって」

「けどよぁ」

海であった二人のこの男、岩磯と海根のはなしを聞いていると、対岸からやってきたということがわかった。そして聞くと

「あちらからきた」

と向こう岸を指さした。向こう、すなわち

(今の横須賀あたりか。)と結は思った。岩磯と海根は、特にコメの収穫がよくないときにマツリなどに使う分だけ、都合をつけてもらえるよう、年に一度海を越えてやってくるらしい。

「いつもこの時期にこっちにきてるんだ、おれは」

(つい先日、横須賀市での発掘調査で出土した釣り具が話題になっていたな。あの釣り針の細工はなかなか凝っていたっけ。)古代から、海の要衝である横須賀周辺では漁撈活動が当時盛んだったことがわかっている。

そして、今この二人の男が言ったように、対岸では、魚介類は豊富にとれるのだが、コメ作りには適さないようで、一定量の収穫が難しい。そのため、かれらは当時のコメどころである上総の地に十分な収穫が得られなかったときに上総にやってくる。

とにかく結は、岩磯と海根について館にいくことした。しかし、目の前には、いわゆる道路らしきものはみあたらない。当然のことながら6世紀にアスファルトで舗装された道はない。

日本書紀によれば、倭のクニでは5世紀に道路建設が始まったとあるが、ここには大きな道路はなかった。けもの道のように誰かが通ればいつしかそれは道になる・・・といった草がなぎ倒された場所がいくつか目につくのみだった。

(この小道をいけばいくのかなぁ。)と考えていると

「へんなやつだな」

岩磯にあきれられてしまった。

大きな道路がクニによって整備されるのは7世紀をまたなければならない。当時の大都会大和(現在の奈良)であっても、政などがなされる朝堂院を中心に東西南北に通る大道が整えられ、都人の運行に便宜をはかられるのは、もう少しあとのことだ。

しかし、古い地割にそって斜めに走る小道などは、かなり早い段階から少しずつ整備されていたようで、こうした道の沿線上には集落跡など古墳時代の遺跡が発掘調査によって発見されている。

このことを思い出した結は、(暮らしに必要な物資を居住地にいかに運ぶかによって、道ができていったはずだよね。)と考えた。

実際、道は、人が暮らしやすい場所と食べ物を確保するための経路をたどって、できていった。このため、よくみると、大きな道はなかったが、この地にもやはり、自転車2台がやっと通れるほどの小道があった。これこそ、そこに暮らす人が行き来を繰り返し、踏みしめてできた道なのである。そして、岩磯と海根は、こうした道へと足をむけていた。


岩磯と海根について進んでいくと、少し低くなった平らな土地が見えてきた。そこには水田が広がっており、刈り入れを待つ稲穂がたわわに茂っている。だが、あちこちに点在する水田の1枚あたりの規模や総面積は21世紀のものよりずっと小さかった。

(小さいほうが作業しやすいんだっけか?)

が、そのことを除き、目の前に広がるたんぼの風景は21世紀と、ほとんど変わらないように思われた。

水田は大半が平らな土地にあったが、河川の中流域にある山寄りの扇状地を利用しているものや、海岸寄りの小さく平らな低地を利用して作られているものもあった。ただし、造るのが難しいのか、「棚田」のようなものはないようだ。何を栽培しているのか、畑らしきものが点在するのも見えた。

(ここは昔からコメどころで、暮らす人たちの生活はずっと前からこうなんだ…。)と、結は思った。

「田づくりが珍しいか? 田の仕事は皆で力を合わせて行うが、今の時期は田に出ている者はそれほど多くはない」

ずっと黙っていた海根がぼそっと口を開いた。

(米作りって大変だよね。博物館の体験学習で田植えをやったことはあるけど、ほんの数時間の作業で腰が痛くなったもん。だから背中が痛くなって変形性脊椎症につながるんだってお父さんがいってたな。それに比べたら、弓を使って鹿や猪をかる狩猟のほうがよっぽど体にもいいのかもしれない。)と結は思った。

そう、稲の管理は大変なのである。米を作るには、種まきに先んじて、まず土を掘り起こして田おこしをする。




父は本棚にある「日本人の成り立ち」という本をそっと結に渡した。


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― 新着の感想 ―
[一言] 古代や古墳時代に興味がありますので拝読させていただきました。 わたしも古代を舞台にした物語を掲載していますので、よろしければお読みください。
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