第九十二話 よし、やっちゃおう その二
アーノルド=キングソルジャー。
今でこそ長年の夢であった料理の世界に飛び込み、料理長の座に君臨している男であるが、その鍛え上げられた肉体からも分かる通り『技術』特化の四大貴族の血を色濃く受け継いでいる。
そう、彼もまたキングソルジャー公爵家の堂々たる一角。鳳凰騎士団団長たる姉やキングソルジャー公爵家当主たる兄と同等の力を持っているのだ。
そんな大男が震えていた。
巨大な鉄塊を高速で振り回し、魔導兵器を枯れ葉を掃除するように吹き散らす鳳凰騎士団団長とも肩を並べる男がだ。
(な、なん、何が起こった……っ!?)
まさしく捕食であり、蹂躙であった。
哀れな子羊がケダモノに貪り尽くされるのをただただ見ていることしかできなかった。
気圧された。
鍛え上げられた肉体に裏付けされた暴力は、しかし無様に震えているだけだった。
(あれ、いや待て、あいつどこいった!?)
だから、だろう。
捕食が終わり、『なんか違ったなぁ』と首を傾げながら出ていったケダモノを見送ってしまったのだ。
残るはあまりの衝撃に意識を失い、倒れた女が一人。つまりはファルナである。
「まずい……」
哀れな子羊を欲望のままに貪り、それでも満足できなかったのか。ケダモノは次の獲物を探しに出ていったのだろう。
そう、ヘグリア国との戦争が終わった後のパーティーにおいて七人の王女を引き寄せていたミリファが、だ。
「あの腹ペコ小娘まさかとは思うが、王女様たちに手を出すことないだろうな!?」
キス一つで骨抜きにされたファルナの成れの果てを見つめ、料理長は恐怖に身体を震わせる。ここまでできる奴が王女たちを引き寄せている。その延長、単なるスキンシップの一環としてキスを持ち出したケダモノがだ!
かのケダモノのスキンシップが王女たちを毒牙にかけないとなぜ言い切れる? 今まさに同僚をノックアウトしたばかりだというのにだ。
ミリファならば、やっても不思議ではない。
王女たちを仕える主としてではなく、友達として見ている節がある彼女ならば、ファルナとスキンシップするのと同じように王女たちにキスをぶちかますに決まっているのだ!!
「くそっ、おい手ぇ空いている奴はついてこいっ。腹ペコ小娘がやらかす前に止めるぞ!!」
ーーー☆ーーー
豪勢な縦ロールが靡いていた。
銀を散りばめキラキラ輝く派手なドレス姿の第四王女エカテリーナは主城内のだだっ広い通路を歩いていた。
そんな時だ。
ふらふらと頼りない足取りでこちらに迫ってくる青のネグリジェ姿の女が一人。
「ん? んんん!? あれ、貴女ミリファですの!? 行方不明って聞いていましたが……いいえ、無事ならそれで良いのです。おほほ! さあ約束通り妾が貴女の軟弱な作法を叩き直し、王族の側仕えに相応しい技能を与えて差し上げますわあ!!」
「んあ……エカテリーナ様だぁ」
分岐点はここにあったのだろう。
ほんのり頬を赤く染め、うなされるように熱い息を漏らし、ふらつくほどに内側からの『刺激』に翻弄されていることに気づけたならば、不用意に近づくこともなかっただろう。
全ては後の祭り。
ミリファの無事に安心したのか、自分から駆け寄り、怪我などしていないか確認するほどには第四王女は良い人であった。
だから、
「ふふ、エカテリーナ様ぁ」
「ミリファ……?」
メイド風情が第四王女の頬に両手を伸ばしたとしても、怪訝そうに眉をひそめるだけで済ませた。いいや、その後にメイドとしてそういうことは不用意にしてはいけないといった小言がその可憐な唇から出ていたのだろうが──
「えへへっ。やっちゃおっと」
「何を……んぐっ!?」
それが音として世界に放たれる前に、出力口を甘美な感触が塞いでしまった。つまりは両手で顔を固定し、逃げられないようにして、強引に唇を重ねてきたのだ。
(か、は……ぁ!? まっ、は、はぐっ、ふぐう!?)
まさしく捕食であった。
獰猛に、猛烈に、鮮烈に、迫るミリファに魔法を司りし第四王女の耐久なんて微塵も意味をなさなかった。
ボッン!! と思考に空白が生じる。脳で処理できる限界値を軽々と突破する。魔法を司り、戦争において軍勢を相手取って暴れまくった第四王女であるが、これまで培ってきた『力』の外から思いっきりぶん殴られたに等しかった。
意識がブラックアウトする。
微かに覚えているのは柔らかな感触と、重ねた唇から伝わる焦がれるような熱量であった。
ーーー☆ーーー
「料理長っ! やばいことになってきましたぜっ」
「なんだどうしたおいおいまだ十分も経ってないぞ!?」
「第四王女様が通路でぶっ倒れていましたっ。これってまさかとは思いますが、さっきのメイドみたいに喰われたってことじゃないッスかね!?」
「……い、いやあ、はははっ。それは、あれだ、貧血とかそんなところだって何なら敵襲でもいいぞ第四王女様は無事みたいだしああもうあの腹ペコ小娘何やってんだこらあ!!」
頭を抱える料理長だが、こうしている間にも被害は拡大する一方である。嘆く暇はない。せめて被害を最小に収めなければ、ただでさえ拗れつつあるミリファを中心とした関係図がとんでもない突然変異を起こしかねない。
「くそっ。なんだか王女様たち関連だけでもいくつか危ない予感がするし、ファルナなんて完全に『そういうこと』なんだぞ! こんなのが原因で拗れやがったら目も当てられねえぞっ。おい、この際厨房以外からも手ぇ空いてる奴に協力してもらう! とにかく何が何でも腹ペコ小娘を確保するぞ!!」
ーーー☆ーーー
(幸せだなぁ)
地面に足をつけているはずなのに、ふわふわと宙に浮かんでいるようであった。とにかく幸せなのだ。次から次に幸せ成分とでも呼ぶべき何かがミリファの中に溢れてきて、思考がグズグズにかき回されていく。
(あの人とキスしただけ、それだけでこんなに幸せになれちゃった。キスはキモチイイことなんだね)
褐色の女性が教えてくれた。
キスとはキモチイイことなのだと。
キモチイイことを我慢する必要なんてどこにもない。キスという行為に何らかの付加価値があった気もするが、それ以上に行為そのものに価値が出てきたのだ。だったら我慢する必要なんてない。友達同士でするのが都会での流行りだとマキュアが言っていた。流行るのも当然だ。だってこんなにキモチイイのだから。
いや、もしも流行っていなかったとしても、果たして我慢なんて出来たか。キスという行為に対する付加価値、もう思い出すこともできないキスをする相手の定義。そう、忘れてしまうほどにキスに付随する定義よりも、キスという行為そのものの虜となっているのだ。
ゆえに我慢なんてできない。
ファルナとエカテリーナ、二人とのキスには褐色の女性とのキスとは違って幸福感が増幅することはなかったが、それはミリファのやり方が下手なだけだろう。
ならば繰り返そう。
上手くなるまで、何度でも。
だから、ミリファは膝から崩れ落ちてしまった二人を置いて、更なる相手を探しに行く。
今なお溢れる幸福感をもっともっと得るために。褐色の女性とのキスと同じように、幸せになれるキスを求めて。
……意識を失ったファルナやエカテリーナを無視する、なんてことをしてしまっていることに気づけないほど、溢れる幸福感はミリファの人格を犯していた。
ーーー☆ーーー
第七王女はミリファの心情を転移しないようにしていた。あのキスに対して嬉しそうにしていたミリファがどう感じているのか知ることを恐れたからである。
第五王女ウルティアは風魔法を使ってミリファの様子を観測していた。どこにいるか、何を話しているかを空気の振動の伝達でもって把握しているのである。
命運はそこで分かれた。
臆して足踏みするか、勇気を持って踏み出すかの違いである。
「アハッ☆ そういうことねー。いやーやられたなー。こんなの絶対あのクソ女の干渉だよねー。あは、あはははは。──そう簡単に武闘派メイドを奪えると思うんじゃないって話だよねー」
ゴッ! と魔法陣が輝き、風が吹き荒れる。
そのまま動きやすいようにドレスの袖などを引き千切ったウルティアが飛び去っていったのだ。
「あ、こらウルティアーっ! 逃げるんじゃないのですう!!」
「ウルティアお姉様? それどういう意味ですか!?」
「まっ、セルフィーお前も逃げるつもりなのです!? こらーっ待つのです!!」
ーーー☆ーーー
きっかけはレッドフィールド男爵家の次女であり、第一王女の側仕えたるイヌミミ少女がある会話を聞いたことであった。
獣人は純粋な人間よりも優れた身体能力や『体質』を持つことが多い。イヌを軸とした獣人であれば聴力や嗅覚が高いといったところか。
だから、その会話も意図せずして聞こえたのだ。
第七王女と王妃が『運命』に関して話しているそれを優れた聴覚が捉えたのだ。
通常ではあり得ないことだ。なぜなら王妃には未来を視ることができるスキルがある。誰かに会話を聞かれるという未来に繋がる因子のことごとくを回避できるはずなのだ。
実際にはそうはならなかった。
だから、一人で抱え込むには重いその内容をイヌミミ少女は主である第一王女クリスタルに伝えた。
回避不能の滅亡に対して王妃は尊厳を守るためにミリファを軸とするつもりであった。そんな『運命』で満足して、大陸全土を強者の理屈で埋め尽くす暗黒の時代の到来を受け入れるつもりだった。
だから、第一王女クリスタルは抗うことに決めた。ハナから勝てると思っていない王妃の諦めを砕き、王妃を含む何もかもを利用してでも、滅亡の定めを打ち砕こうとしたのだ。
そのためにイヌミミ少女が最重要機密たる会話を意図せずして盗み聞きできた理由を探り、実験を繰り返し、王妃の未来視のスキルが獣人には作用しないことを解明した。
それは獣人には王妃が見通した『運命』を覆す可能性があるとも言える。ハナから獣人は『運命』に含まれていないのだから、その行動が予定調和を崩す可能性は必ずあるはずなのだ。
その一つ。
予定調和の先に飛び出た、イヌミミ少女の力こそスキル『呪法心中』であった。そのスキルは己を犠牲に対象一人を呪い殺すものである。
スキル『憑依』への対応策として、『奴』と『奴』を殺した者を同時に殺すことで憑依先を潰せばいいと第一王女は考えた。ただし、このスキルには五分間対象と肌を重ね合わせないといけないという制約がある。そのため『奴』を直接標的とするのは難しい。
そのためのミリファであった。
ミリファを使い『奴』を殺し、ミリファへと憑依したところをスキル『呪法心中』で殺せばいい。
だが、第一王女クリスタルは未だに踏ん切りがついていなかった、のだろう。本人は決して認めないだろうが、イヌミミ少女が制約を満たしていないことからもそれは伺える。
計画は第一王女が立てた。
それなのに制約を満たすよう命令ができていない。まだ時間はあると、他にもっといい手があるはずだと、そんな言葉で逃げていた。
第一王女自身、自分が逃げていることに気づいてすらいないだろう。側仕えとしてずっと彼女を見守ってきたイヌミミ少女であるからこそ気づけたことであった。
外見どころか内面さえも自在に操り、滲み出る魅力さえも掌握し、理想的な美貌を出力する。それこそスキルの類いではないかと思うほどの技能を会得する過程で『本心』が第一王女自身でも分からなくなっても──イヌミミ少女は決して『クリスタル』を見失わない。
メイドであり、所有物であり、ペットであり、友人であり、愛玩用品であり……いいやなんでもいい。第一王女クリスタルの一部であるならば、それ以外に何も望むことはない。
ゆえにイヌミミ少女は選択する。
クリスタルが『本心』から避けている道だとしても、それがクリスタルを救う一番の道であるならば躊躇する理由はどこにもない。
『ミリファめ帰ってきて早々にやらかしやがって! ああもうこじらせそうだなあ!!』
四大貴族の一角、レッドフィールド男爵家が次女ココレンズ=レッドフィールドはイヌミミをぴくぴくと動かし、類い稀なる聴覚でもって主城内に響く料理長の声をキャッチする。
行方不明だったミリファが帰ってきた。
であるならば、早々に制約を満たすべきだろう。
……これまでは波風立てないように大人していたが、それで切り札を失いかけた。行方不明となった理由は知らないが、もう二度とそんなことが起きないようにこちらで所有して、時が来れば『奴』を殺すために消費するのが最善だろう。
もちろん妨害はあるだろうが、最終的にクリスタルが生き残り、幸せとなってくれるならば、それでいい。そのためにイヌミミ少女は命を捨てるし、それ以外に必要なものがあるならなんだって捨ててやればいい。
「わふう。まずはさっさと身体を重ねよっと」
クリスタルの一部として、クリスタルのために尽くす。それがココレンズ=レッドフィールドの存在理由であるのだから。




