第七十四話 よし、誘拐されよう その九
始祖トライアングル。
エルフの根幹ともいえる初代の長である。
偉大なる始祖を現世に『再現』する、そのために歴代の長は存在してきた。
個性なんて必要ない、自我なんて不要である、生存理由とはつまり始祖の道をなぞるためにある。
始祖はスケジュールを重視していた。毎日を秒単位で組んだスケジュールの通りに生活することを至高と考えていた。
だから歴代の長や長候補もまたそのスケジュールをなぞる。秒単位で、個々人の望みなんてカケラも混ざることがなく。
そんなものが気にならないくらい、長候補に課せられる慣習はえげつないものだったのだろう。スフィアは今も『その程度のことは』そこまで気にしていない。
秒単位でスケジュールが組まれているため、マリンと話す時間が三十分しか確保できないのは残念ではあったが。
そう、秒単位のスケジュールは他のエルフの目もありそう簡単には抜け出せなかったが、ただ一つ充分な時間が確保できる上に一人きりになれる時があった。
女神に捧げる祈り。
昼食後の一時間だけがスフィアにとっての救いであった。
禁域魔獣領域と集落の往復に(『極の書』第九章レベルの魔法を用いても)三十分は必要なので、マリンと話せるのは自ずと三十分に限られるのだ。
今思えば、と。
意味のない後悔は幾度となくしてきた。
もしも、そんな生活を捨てていれば。
集落なんて抜け出して、マリンと共に生きる道を選んでいたならば、もしかしたら『間に合った』かもしれなかったのに。
マリンは殺される。
エルフの誇り、そんなもののために。
あの時、マリンのそばにスフィアがいたならば、と。後悔なんていくらでもしてきた。
心のパラメータが増減していたかのように、過去のスフィアはマリンの手を取って集落から逃げ出すことはできなかった。
『来た来たっ、スフィア勝負……ん?』
『マリン……』
それはいつの記憶だったか。自由行動の一切を封じられた生活。意思を殺され、初代の再現のために外側も内側も徹底的に弄られる一生。
局部を隠せるだけの布地に薄い緑のマント。初代が好んだ格好が全てを物語っている。そのマントの色が深くなればなるだけ、初代再現のパーセンテージが上昇している証とされていた。
ばしゃん! とスフィアは池の中に飛び込んだ。
いつかの記憶。何かが我慢の限界を迎えたのか。いつもならば『いひひ』と笑い殺すことができていたのだが、その時はそれすらできなかった。
池の中の人魚を思いきり抱きしめる。
堅苦しくて、古き亡霊を崇めるだけのくせに自分たちは他の種族よりも優れているのだと信じて疑いない連中なんてどうでもいい。マリンさえいれば、それで満たされる。
大好き、なのだと。
これがスフィアの全てなのだと。
身も心も魂さえも欲しいくらいに愛おしいのだと。
『好き……カモ』
特別なことなんて何もなかった。
マリンとは顔を合わせれば勝負して、その後は他愛ない会話をしていただけ。劇的な出来事も、胸踊る物語も、何もない。
そんなものなくたって。
気がつけば好きになっていたのだ。
『アタシはマリンが好きカモ。愛しているカモ! だからアタシだけを見てカモ。世界最強になるために旅に出るっていうなら、アタシが世界最強になるカモっ。マリンの欲しいものは全部与えるカモっ!! だから、そばにいてカモ。一生ここにいて欲しいカモっっっ!!!!』
……振り返ってみて、ここまで最低な告白もないと『現在の』スフィアは後悔しっぱなしだった。『抑圧』された感情が爆発したにしても、他に言いようもあっただろうに。
『あわ、あわわっ!! 愛しているってあれだよね恋愛的なアレソレ!? アレソレなわけ!?』
『愛しているって言ったカモ!! 付き合いたいし、結婚したいカモ!! それくらい好きなワケだけど!!』
『付き合、結婚!? あわわっ、待って、ちょっと待って!!』
『待たないカモっ! マリンの答えを聞かせて欲しいワケだけど!!』
『答えって、えっと、そもそもスフィアが世界最強だと思ったから「地元」から旅立ってないわけだし、私だってスフィアのこと好きだし、でも一生って……ううむ』
マリンはスフィアを満たす。
堕落してしまうくらいに、依存してしまうくらいに、思考も意思も魂さえも蕩かしてきた。
だから、この日もまた。
マリンはスフィアを満たす。
『まあいいか。私もスフィアのこと好きだし、一生ここにいてやるわよ』
それ以上は一秒たりとも我慢できなかった。
スフィアはマリンの首に両手を回し、抱き寄せ、唇を奪う。
『ん……っ!?』
『ん、んん……ぷはっ。ふふ、はははっ。これは最高カモっ!!』
『最高って、え、ええ!?』
池の中に浸かっているというのに、体温は上昇を止めない。脳が茹だつほどの感情の奔流が止まらない。その熱はどちらのものだったか。抱き合った二人の熱が交わり、溶け合い、まるで一つの炎のように燃えていた。
『いまのって、あれ、あれよねっ』
『キスしてやったカモ』
『ふあ!? き、ききき、キスう!? スフィアーっ! なにいきなり、だってキスって、あわ、あわわっ!!』
『駄目カモ、もう我慢できないカモっ!!』
『ちょ、なんで顔を近づけ、いやまあ「そういった意味で」好きではあるけど、まだ早いというか、あわわーっ!!』
時間は三十分しかないのだ。
想いを伝えるには少なすぎる。
だからこそ、一分一秒も無駄にはできなかった。
ーーー☆ーーー
記憶は巡る。
結末は変わらない。
それは……ざ、ザザザッ! ……赤が広がる。ザザッ……に熱した油をそそぎ、ザザザッ!! ……がこぼれ落ちてザザザッ……は地面にこびりつくくらい踏み潰され、ジジッ、……刃が何本も突き刺さっており……ザザザッ!! は毟り取られて面影はどこにもなく、それでもザザザッだと確信できた。スフィアがザザザッを見間違うものか。
ザザザッだったものが飛び散っていた。
全てはスフィアの中に刻まれたザザザッを取り除くため。ただ殺すのではなく、尊厳を奪い精神を屈服させ魂を踏みにじった末に殺された。エルフの誇りを穢した、そんなつまらない理由でだ。
その時、ようやく。
遅すぎるくらいに。
スフィアの中で想いが一つに束ねられたのだろう。
それは純白の爆発であった。
マリンを殺した連中に対する復讐、なんかじゃない。大切な者を失った嘆きが漏れ出ただけのこと。それだけで、感情のままに吐き出しただけで、エルフの大半は死滅、絶滅しかかったのだ。
ーーー☆ーーー
現在。
鬼ごっこのようなもの。
ミリファをお姫様抱っこしたままミラージュは逃げる。その背中を『あたしがミリファをお姫様だっこするのよ!!』と叫びながらエリスが追う。そんな三人をスフィアが追いかける形である。
悲鳴と共に逃げ去った群衆なんて目に入っていない。反射的に三人を追いかけているスフィアだが、その心は鬼ごっこなんてものに向いてはいなかった。
ぱんっ! と手で額を押さえる。
発作のように思い出してしまった過去の一幕に脳が軋むほどの痛みを発する。
「いひひ」
だから、笑うのだ。
笑い殺すのだ。
これまでもそうしてきた、これからもそうする。世界最強、そんなものに固執したところでマリンがいない以上意味はないと分かっていても、そんなものに固執して『これは面白いことだ』と己に言い聞かせて……何がやりたいのか。
マリンは殺された。
ゆえにスフィアは永遠に満たされない。
その事実は決して変わらないというのに。
「いひ、いひひ、いひひひひひっ!!」
スフィアは知らないのだ。辛い時、悲しい時、笑い殺す以外の方法を。
だから。
だから。
だから。
「ミラージュさん、私をスフィアめがけてぶん投げてえ!!」
「それが貴女様の祈りならば」
ブォン!! と、豪快なフォームでぶん投げられた小柄な少女が女エルフ直撃コースで迫り来る!!
「ちょっ、待っ、予想以上に速いいい!!」
なんだか涙目な砲弾を咄嗟に受け止めるスフィア。ほとんど飛びつくような形で首に腕を回し、足を胴体に絡みつかせるミリファはといえば、『ぐへぇっ』と呻き声を上げていた。
「覚悟しろって言っておきながら、これはなんのつもりカモ?」
「一人は寂しいよね」
「……ッ!?」
じぃっと。
エルフの目を見つめ、少女は言う。
「三人を一人で追いかけていたら、仲間はずれにされているみたいで寂しかったんだよねっ!!」
「……、カモ?」
「うんうん分かるよその気持ち。だから寂しそうな顔してたんだよねっ。駄目だよ笑って誤魔化したら。そういう時はちゃんと言ってよ。せっかくの鬼ごっこ、せっかくの遊びなんだし、みんなで楽しまないと!!」
屈託のない笑顔で、完全に的外れなことを言っていた。スフィアが笑顔で殺していたのはそんなものではない。
だけど。
それでも。
「あの男の子には悪いけど、予定変更っ。私たちでミラージュさんたちを捕まえてやろうっ!!」
「ふふ、はははっ」
どうしてだか、笑みがこぼれていた。
笑い殺すためのものじゃない、本当に心の底からのものが。
マリンと想いを通じ合わせた時、はじめて漏らしたものと同じものをだ。
「アタシの一番は永久に殿堂入りなワケだけど……こういうのも悪くないカモっ!!」
「よっしゃあ!! いくぞスフィアーっ!!」
「おうっ、カモ!!」
そのまま持ちやすいようにミリファの首と膝の裏に腕を回すスフィア。つまりはお姫様だっこの状態で大きく前に踏み出す。
我慢の限界だった。
「あたしを除け者にして! なんでぽっと出のクソ野郎どもがミリファをお姫様だっこしてるのよおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
それはもう心の底からの姉の叫びであった。
ーーー☆ーーー
犯罪組織『ガンデゾルト』に属する誰かの手記。そこにはこのような記載があった。
ゾジアックが帝国担当に任命された。あと少し早かったならと思うと自分の運の良さに酔ってしまいそうだ。
スキル『心情増減』。ゾジアックが持つスキルを使ってエルフの集落に取り入り、長育成の手伝いなんかをしてやった甲斐がようやく出てきた。本来であればエルフに取り入り、信頼を『増幅』し、適当な理由をでっち上げて集落からエルフが自主的に出てくるよう誘導。そうして出てきた奴らを確保、実験台にする予定だったが、予想外の成果を確保できたものだ。
人魚マリン。
長候補の一人であるスフィアがその手で埋葬した死体が数日後に地面から這い出ていたのを発見した時は自分の運の良さに酔ってもいいんじゃないかと思ったほどだ。
死にはするが、数日で生き返る『体質』。エルフの長寿『体質』と同じく先天的なものではあるが、『体質』ならばスキルと違って人工的に再現することも不可能ではないはずだ。少なくとも原理も何もかも不明なスキルよりは、解析できる分『体質』のほうが取っ掛かりがある。
エルフほど強大じゃなく、エルフよりも優れた『体質』。それが確保できたならば、エルフの集落になど関わる必要はない。このままゾジアックに付き従う形で帝国に移動するのが一番だろう。
本当運がいい。ゾジアックといいエルフといい人魚といい、俺の都合のいいようによくもまあ動いてくれるものだ。もちろんそうなるように工夫してはいるんだがな。
これからもゾジアックの影に隠れて好きにさせてもらおう。『技術』の深奥を手にする、その時まではな。




