第七十二話 よし、誘拐されよう その七
過去の一幕。
局部を隠せるだけの布地に薄い緑のマントを羽織った格好のスフィアはその日も禁域魔獣領域の一角に足を運んでいた。
『ねえスフィアっ。たまには温ったかいほうがいいから、お願いっ』
『?』
『池の水、温っためて!』
そんなわけで火炎系統魔法でお風呂のように温められた池の完成であった。
『ふへえー……ぽっかぽかー』
魚の部分から芳醇なにおいを漂わせる人魚はどこか惚けたような顔でぷかぷかしていた。
そこで終わらない。
まるで酔っ払いがふらふらと自宅まで歩くような反射的な動きで腕が伸びる。どこに? エルフの足にだ。
『気持ちいいよースフィアもはいろー……』
『な、ん……っ!?』
そのまま引きずり込まれた。ばしゃん! と水しぶきを上げて池の中に落ちるエルフ。『ぷはっ!』と水の中から顔を出す。全身ずぶ濡れの彼女を見て、下手人といえば『ふへえ』と惚けていた。
『マリン、よくもやってくれたカモっ』
『あっはは! でも、ほら、気持ちいいよね?』
『はぁ……本当マリンは、カモ』
最低限しか隠せていない布地やマントを肌に張り付かせて、スフィアは小さく息を吐く。呆れたようでいて、口元は笑みの形を作っていた。
二人きりで湯に浸かる。
たったそれだけのことで胸が歓喜に高鳴っていた。
ーーー☆ーーー
「ぜえ、はあ。し、死ぬう……!!」
活気溢れる大通りをふらっふらな少女が荒い息を漏らしていた。あのスフィアに覚悟しろと突きつけたミリファはといえば、未だスフィアと対峙していないというのに瀕死状態であった。
と、その時だ。
どこか暖かで優しい気持ちにさせる純白の光が溢れたかと思えば、目の前に巫女服姿の女が現れた。
『天空の巫女』。
あるいはエンジェルミラージュ。
女神の意思を現世に伝え広める中継地点、女神の代弁者。一生を神殿『シルフィード』内で過ごすはずのバリウス教における象徴。
その姿を目にできるのは五億以上ものバリウス教信者の中でも十人未満というウルトラレアな存在なのだが、無知を極めているミリファは知り合い発見と嬉しそうに口元を綻ばせていた。
「み、ミラージュさーん!」
ふらっふらで疲れまくっていたミリファは反射的にミラージュの胸に顔を埋めるように抱きついていた。そのまま体重を預けて、ぐーたらすることに。
「つっかれたー……」
「ジ、ザザザッ! 貴女様は、本当、ザザザッ!!」
「ミラージュさーん、だっこー」
「ザザッ、検索開始。『ワンポイント女神メモ☆』に記載あり。状況指定を当てはめ提示。だっことはお姫様だっこのことである」
ブァ、と風が流れたかと思えば、ミリファの身体が宙を舞っていた。合わせて身体の下にミラージュの両腕が差し込まれ、受け止めていた。ミリファの首と膝の裏を支える形で、つまりはお姫様抱っこである。
「おー。ミラージュさんやるう!」
「ザザ、ザザザッ! データベース通りのはずですが、『黄』としては溢れ出る衝動の詳細に疑問を抱きます。これは……?」
「でも、本当にしてくれるとは。自分から言っててあれだけど、迷惑じゃない?」
「『青』としては充実していると感じます。少なくとも嫌々やっているわけではなく、ゆえに迷惑ではありません」
「そっかぁ。じゃあ任せた!」
「『習合体』の全霊を尽くしてみせます」
以上、大通りのど真ん中での出来事だった。
大胆なお姫様だっこを群衆が見守っていたのである!!
「見、られ……ザ、ザザザッ、微かな数値の変化を観測。これ、は?」
恥ずかしい、と。
その感情はまだ理解できたが、なぜ今その感情が観測されたのか。理解不能、観測不可。ミラージュの機能は高度化していようとも、それを万全に作動できるとは限らない。
「ふひー楽チンだなぁ」
だから。
ぎゅっと腕を回し、肉体同士をより強く密着させるミリファの行動がもたらす数値の急速な変化までは観測できても、その理由では理解できなかった。
ぽんっ!! と。
顔どころか首まで真っ赤に染まるほどの衝撃だけが猛烈に観測されたのだ。
「『黄』としてはなんだか受肉成分に熱がこもっているのを感じ、ザザッ!! 疑問、理解不能、オーバーヒートががが……っ!!」
「ん? ミラージュさん、やっぱり重かった? それだったら降りるけど」
「ザザザッ、『赤』としてはその提案は断固として拒否させて頂きます! 理解不能で強烈な衝撃ですが、これは『習合体』にとって利益あるものだと感じましたので」
「よく分からないけど、まあミラージュさんがいいなら甘えよっかな。楽チンだし」
これが神聖バリウス公国の聖都の『ある層』の間で駆け巡った奇跡の光景、その一部始終であった。巫女服お姉さんにお姫様抱っこされる小柄な女の子なんてものは聖域に等しい重要文化財なのだと『ある層』は声高らかに主張したのだとか。
ーーー☆ーーー
大通りをお姫様抱っこで移動。
ある種の羞恥プレイ、それこそ見せつけまくっているとしか考えられない奇跡の光景。これを無自覚にやらせてしまうのがミリファのミリファたるゆえんなのであった。
大陸中原に蠢く軍事国家の中でも三強と名高い神聖バリウス公国の聖都。その大通りということもあって、多くの人が行き交っていた。
だから、だろうか。
ミリファたちを拝むように修道服姿のシスターの集団が跪いていたりもしていた。本当、多く人が行き交っていた。世の中には色んな人がいるのである。
「なんか拝まれているけど、なにあれ?」
「『天空の巫女』であることがバレたならば、拝むという大人しい反応で収まるとも思えません。理由は不明ですが、一般的な信者のものと違う、『習合体』が身につけている『古き時代の』服装に敬意を示してくれているのでしょう」
真相は闇の中。
だが、そう、これだけ人がいれば『ある層』なんかも混ざっていて不思議ではない。
「祈り、かぁ。そういえばここって神聖バリウス公国だったっけ。バリウス教の総本山? よくわからないけど、バリウス教の信者さんにとっては凄いところって聞いたことあるような」
「そうですね」
「その割には、こう、よくわかんない儀式とかよくわかんない規律なんかでガチガチって感じじゃないなって。もっと、こう、宗教ーっ! って感じかと思ってた」
「バリウス教、いいえ祈りの『本質』はまた別にありますが、我が全能なる女神が真に与えたかったのは教えではありません。ゆえに儀式なんてものは必要ないのです。もちろん世界には色んな考えがあり、色んな形の救いがありますので、それを否定するわけではありません。ただ女神は無数の救いの中から最もシンプルなものを選び取った、それだけですので」
「シンプル?」
「祈りを貫きなさい。明日の幸福を掴む糧とするために。バリウス教唯一の教えですが、これ自体に何か特別な意味があるわけではありません。与えたかったのは教えではなく、『支え』ですので」
「ええと?」
「分からないなら分からないでもいいのです。……必要な時に自ずと胸に抱くものに形を与えているだけ、とも言えますのですから」
教えそのものに深い意味はない。読んだままでいい。感じたままがその人にとっての価値あるものとなる。
いつかどこかで幸福を妨げる障害が立ち塞がった時、ほんの少しでいい。神様という全知全能の象徴に祈りを捧げることが、幸福を掴むために前に進む『支え』となるならば。
だから。
どこかのメイドがミリファの無事を祈っていたように、悪感情に押し潰されないよう『支え』としてもいい。教えに深い意味はなく、単なる捉え方の問題。最後にその人の糧となるならば、形なんてものに固執しない。
だから、バリウス教に決まった『形』はない。各々が信じるままに信じればそれでいい。何なら明確な信者でなくともいいくらいだ。
誰かの無事を漠然とした『何か』に祈る。
それだって立派に『女神』にすがる祈りの形であるのだから。
……そういった風に定義してしまう点にこそ『本質』が隠されていた。
「まあいいや。それよりミラージュさんっ。私たち、スフィアに勝たないとなんだよっ。じゃないと散っていったあいつに顔向けできないっ。というわけで頑張ろう、ミラージュさんっ」
「『習合体』に拒否する理由はありません。こうして貴女様と過ごすことに価値を見出しているのですから」
その時だ。
まるでミリファたちの心の準備が終わるのを待っていたかのように、ゴッォン! と目の前にスフィアが降り立ったのだ。
「いひひ。覚悟して襲撃しに来たワケだけど、少しは面白いものを見せてくれるカモ?」
「ふっふっふう! 私は知ってる。さっきスフィアはミラージュさんのなんか凄いのに動きを封じられたことをっ。つまり! ミラージュさんのほうがスフィアよりも強──」
「それ以上は冗談でも笑えないカモ」
何かが起きたわけではない。
だが、ミリファはその先を口にすることはできなかった。まるで身の丈ほどの鉄球をくくりつけられてから、海に投げ捨てられたかのように。『圧』がミリファの生存動作さえも押さえつける。空気が消失したかのように、口をパクパク開閉しても、一向に空気が吸えない。
そこで。
ぎゅう!! と全身で覆うように力が込められた。
ミラージュの腕がミリファを抱き寄せたのだ。巫女服からは分かりにくかったが、意外と豊満な胸で埋めるように。
『圧』が消える。
エンジェルミラージュの存在を全身で感じることで、スフィアの存在を打ち消したのだ。
「やりすぎです、スフィア。無知に対して本気になることもないでしょう」
「世の中にはそんなつもりじゃなくても言ってはいけないこともあるカモ」
その答えにミラージュは小さく息を吐く。
抱き寄せた小柄な少女の耳に顔を寄せて、
「貴女様、『習合体』とスフィアを並べて実力を比べることは困難でしょう。互角だとかといった話ではなく、『習合体』の力に関しては変動があります。先の一回だけを切り取ってスフィアのほうが弱いと判断するべきではないでしょう」
「あ、そうなんだっ。ごめんね、スフィア。私戦闘分野に関してはよく分かってなくて。怒らせちゃった、よね? 本当ごめん!!」
「……ふう。まあいいカモ。今回は許してやるワケだけど、一つだけ覚えておくカモ」
黄色パーカーの女は言う。
まるで己に言い聞かせるように。
「アタシは世界最強なワケだから、アタシより強い奴なんて存在しないカモ」
ーーー☆ーーー
・ワンポイント女神メモ☆
だっこ(ただし女の子同士の場合はお姫様だっことする)←ここチョー重要じゃから!!
☆解説☆
意味とかはひとまず置いておくとして、あのミラージュがこの項目を調べるということは、むおおお!! ミラージュ! 後で詳細報告するように!! というか映像、きちんと映像で残すように!!
うむ、うむうむっ。お姫様だっこじゃと、ミラージュが女の子の憧れを掴むじゃと!? そんなの最高の展開ではないか!! 見守るからの、じっくり堪能させてもらうからのお!!




