第七十一話 よし、誘拐されよう その六
過去の一幕。
スフィアの『羽目外し』は一日で終わってはいなかった。スフィア自身一夜限りのスリルを満喫したかっただけだと、規律の外にはみ出る禁断の蜜の味を堪能したかっただけだと、そう思っていたのだが……どうしてだか一度ではやめられなかった。
『はーっはっはぁ! スフィアーっ! 今日こそ私が勝つんだから!!』
『マリン、今日も負けるの間違いカモ』
『くう! そう言ってられるのも今のうちよ! 練りに練った必殺作戦の餌食になるがいい!!』
禁域魔獣領域の一角。
スフィアが腕の一振りで生み出した小さな池に住み着いた人魚のマリンとの歓談。一日一回、三十分だけ。まるでそう決めておかないと『のめり込む』とどこかで自制するかのように、スフィアは己にそう言い聞かせていた。
マリンと顔を合わせれば、まずはじめに勝負を挑まれるのが定番となっていた。あの手この手でスフィアに勝とうとしてはいるのだが……池の中で魚の下半身をぴちぴち動かし、人間の上半身が突きつける必殺作戦といえば、
『ああっ! ドラゴンだあ!!』
びしっ!! と。
スフィアの後ろを指差すのが今日のマリンの作戦であった。後ろには何もいない。馬鹿正直に後ろを向いた隙に攻撃を仕掛けるつもりなのか、ニマニマと堪え切れないと言いたげに唇が震えていた。
『あ、巨人種カモ』
『え、うそお!?』
スフィアの指差す方向に視線を向けるマリン。もちろんそちらには何もいない。黒いモヤが広がるのみだ。
……ワタワタと両手を振り回し、右往左往するマリンは気づいてすらいなかったが。
『あわ、わーわー! ばぶっ!?』
そのままバランスを崩し、池の中に顔面を叩きつけ、沈んでいく始末だった。
『ばぶ、べぶっ、ぶはぁ! す、スフィアーっ! きょっ、巨人、巨人種がーっ!!』
『いないカモ』
『……え?』
『だから、さっきのはマリンを騙したワケ。マリンがアタシを騙そうとしたみたいにカモ』
『ふへえ……ええ!? 騙したの!?』
『いひひ、本当面白いカモ。エルフは優れていて、他種族は劣っている、そんな根拠も何もない考えに染まった賢人気取りの馬鹿共よりも、よっぽどカモ』
『エルフのアレソレなんて今は関係ないって! スフィアっ、よくも騙したなーっ! 人を騙すのは悪いことなのよ!!』
『マリンが先にやったカモ。失敗したワケだけど』
『ぐっ!』
『ついでに言えばアタシもマリンも人間じゃないカモ』
『うるさーい! 勝負だこらーっ!!』
『「極の書」第九──』
『あわ、あわわあ!! やっぱなし、キャンセルで!! だから「極の書」はやめてえーっ!!』
満たされていた。
長い長い一生の中、マリンと関わっていた時だけ、スフィアは満たされていたのだ。
ーーー☆ーーー
現在。
鬼ごっこのようなもの。鬼役の一人の手に触れられないように逃げ回る遊びである。
では、鬼役は?
「いひひ。アタシ鬼役やりたいカモっ」
見たことあるようなないような、といったエルフの女が手を挙げた。ミリファとしてはダークスーツの女に追い回されるような展開にならないなら何でもいいので、そのまま受け入れて『しまった』。
……スフィアのことを少しでも知っていれば、と後悔してももう遅い。
「じゃあ鬼ごっこ始めるカモ」
ゴッパァンッッッ!!!! と。
凄まじい轟音と人間がひっくり返るほどの衝撃波が炸裂した。
それがスフィアが腕を横に一振りにした結果だと何人が気づけたか。少なくとも見事にひっくり返っているミリファは気づけていなかっただろう。
「破損はもう大丈夫カモ?」
「喪失、過多。しかし、私は、ここにいる。それが全て」
「いひひっ! 深そうで浅っさいカモ!!」
ゾンドンバンゴドン!! と轟音が連続する。エルフの腕が霞んだかと思えば、応じるように前に出たダークスーツの女の手元がブレる。
エルフの腕と細身の剣の激突。
認識できるのは轟音と衝撃波のみ。無数の攻防なんてものはただの村娘に視認できる範囲を超えていた。
「おおっ。ファーさんと互角だ、すっげーっ!」
「いや、あの、そんなノリ!? あれをそんなノリで片付ける普通!?」
男の子の反応にミリファが思わず素っ頓狂な声を上げるが、どうやら子供達の中ではこれが普通のようだ。ダークスーツの女、ファクティス。武力の第五王女を出し抜き、多くの騎士を雑草でも刈り取るように殺していった高速戦闘の達人が受け入れられているのは、ある種純粋な子供の感性によるものか。
「触れられなければ、負けじゃない」
「いひ、いひひっ! いいカモ。黄泉のナンチャラとかいう奴の人形だった頃よりもよっぽど面白いカモっ」
だけど、と。
ブラブラと余った袖を揺らす、黄色パーカーのエルフは言う。
「四席と六席、その差は歴然カモ」
ガギィン!! と致命的な異音が響いた。
黄色パーカーのエルフの腕がダークスーツの女の細身の剣を弾き飛ばした音だと気づけたのは、ザクッとミリファの真横に件の剣が落ちたからだった。
「あ、危なっ!?」
「いひひっ! さあどうするカモ?」
「ッ!!」
武器ありでさえも届かなかった相手に武器を失った状態で勝てるわけがない。四席と六席、歴然と広がる差が残酷なまでに示される。
その。
寸前のことだった。
「我が全能なる女神よ、その奇跡の一端をここに──拘束せよ!!」
弾けるように純白の光が炸裂した。その光は見る見るうちに『概念』を形作る。
鎖。
純白の光を放つ鎖がエルフの全身に絡みつき、ぐるぐるんっ! と簀巻き状態にしてしまったのだ。
「『天空の巫女』カモ……ッ!!」
「『赤』は否定します。今の『習合体』はエンジェルミラージュ、ただのミラージュですので」
何はともあれ鬼役の動きを止めることはできた。先の反応からダークスーツの女と遊ぶのは今日がはじめてではないのだろう、子供達は世界でも屈指の実力者たちによる激突にも慣れたものなのか、『今だ逃げるぞーっ!』と散り散りに逃走に移っていた。
「え、え、ちょっと待ってよ置いてかないでーっ!!」
なんだか心細くなったミリファはとりあえず例の男の子についていくことに。本格的に手下その一状態を堪能していた。
ーーー☆ーーー
神聖バリウス公国、聖都。
バリウス教の総本山ではあるが、その街並みは宗教一色に染まっているわけではない。石造りの街並みや行き交う人々に他の街と大きな違いがあるわけではないのだ。
バリウス教。
宗教、と聞くと堅苦しいや難しそう、中には神様なんているわけないと切り捨てる考えもあるだろう。詐欺や洗脳に使われるなどの一部の悪意が先行する場合もあるかもしれない。
では、そもそも。
バリウス教とはなんだ?
「なんだかアリシア国の首都を、こう、ぐいーんっと発展させた感じだね、ここ」
「ぐいーん、なのか?」
「うん、ぐいーんっと」
石造りの街並みをミリファと男の子とが並んで走っていた。露店では赤髪の青年が威勢良く高濃度の魔力が充填されているらしい魔石を宣伝しており、路地の片隅では若奥様たちが談笑しており、ミリファたちのすぐ近くを修道服姿のシスターが通り過ぎていった。
どこにでもある、普通の街並みだった。
『天空の巫女』の住まいたる神殿『シルフィード』のような宗教的重要拠点などもあるにはあるが、ほとんどは他の街と同じレイアウトなのだ。
バリウス教、その教え。
そこに何らかの制約や規則があるわけではない。神殿『シルフィード』には高位のシスターしか立ち入れないみたいな慣習が生まれてはいるが、教えそのものはたった一つしか存在しない。
祈りを貫きなさい。
明日の幸福を掴む糧とするために。
解釈は聞いた者によって多少異なるかもしれない。『本質』は一つしかないのかもしれない。
だけど、人々は思い思いの解釈を胸に祈りを捧げる。困った時に女神に祈る、常日頃から祈っていてこそ必要な時に女神は力を貸してくれる、そんな風に分岐していくこともあるだろう。
それでいい、と。
『天空の巫女』、いいやバリウス教の中核たる唯一神、つまりは女神はそれを許容したのだから。
「そういえば、はぁ、はぁ。聞いておきたいことがガブッ、がぶべぶっ。あっ、ある、んだけど」
「もう息切れしてるのかよ、新入り」
「うう、ぐーたらしたい……っ! いや、そうじゃなくてっ」
人混みを避けるように走りながら、年下の男の子よりも先にフラッフラなぐーたら娘は肺に走る鋭い痛みに顔をしかめながら、
「ぜえ、はあ。あの、ファーさんだって? あの人とはどうやって知り合ったの?」
「ファーさん? ファーさんはあれだ、一週間前くらいにさっきの空き地辺りで迷子になっててな。多くを失ったから、それを取り戻すために色んなことを知りたいなんて言ってたっけ。その辺はよく分かんないけど、まあ遊んでて楽しいから友達になった、それだけだ!!」
「……そっかぁ」
あの戦争、いいやその前にもダークスーツの女の恐ろしさを実感することはあった。どういう思考の流れを経ても最後には相手を殺すという結論に『飛んで』いく殺戮女、それがミリファの抱いている印象だ。少女は未だに戦争時に騎士たちが殺されていった光景を忘れてはいない。それに背を向けて、逃げ出した事実を忘れてはいない。
だから。
だけど。
(どっちがあの人の真の姿、なのかな?)
そうやって疑問を挟むくらいには、『今の』ファクティスと『前の』ファクティスと分けて考えるくらいには、何かが変わったと感じていた。
と、
「いひひっ! みーつけたカモーっ!!」
ゴッアアア!! と。
暴風を纏い空を飛んでいたのか、凄まじい衝撃波を撒き散らしながらエルフの女が正面に降り立った。
「げえっ!? エルフの人!?」
「スフィアって呼んでもらったほうが嬉しいカモ」
余った袖が左右に揺れる。
ダークスーツの女と激突して、細身の剣を弾き飛ばしたほどの怪物が目の前に立ち塞がっていた。
こんなのもう捕まるじゃん、というのはミリファの考え。過ぎる諦めの思考を、しかし次の瞬間彼は否定する。
だんっ!! と。
男の子はスフィア目掛けて前に飛び出したのだ。
「新入り、逃げろっ! ここはおれが食い止めるっ!!」
「……どうして? どうして私を逃がすために犠牲に!?」
「決まってるだろ」
そのままスフィアを抱きしめ、拘束し、男の子はありったけの力を込めて叫ぶ。
「男ってのは女を守るもんだ!!」
「っ!?」
「いけよ、新入り。いけえ!!」
巻き込まれただけだとどこかに冷めた考えがああった。真剣味が足りていなかった。ファクティスのような殺戮女が混ざっているからなんだ、スフィアのような怪物が鬼役だからそんなのどうしたというのだ。
遊びとはなんだ?
決まっている、全力で楽しむものだ!!
「格好いいじゃん、流石男の子」
「へへっ。当然よっ」
決死の思いに応える方法は一つ。
その犠牲を無駄にしないこと。必ずや勝ち残り、全力で楽しんでやることである!
そうした全力の後にこそ、至福のぐーたらが待っている。ぐーたらのためなら全力で、それがミリファの信念である。
「よし、スフィアっ。私が、いいや私たちが! 絶対に勝つんだからなあ!! 覚悟しろっ!!」
ビシィ!! と指を突きつけ、そのまま踵を返すミリファ。全力疾走……なのだろうが、男の子一人張り付いた状態のスフィアでも難なく捕まえることはできたかもしれない。
だが、
「いひひ。無粋な真似はしないカモ。覚悟しておくから、面白いものを見せてほしいカモっ」
ぽん、と男の子の頭に手を置き、一人を捕まえた上で、もう一人を見逃したほうが面白いに決まっていた。
ーーー☆ーーー
『あ、ドラゴンカモ』
『馬鹿め! 二度も騙され──』
『ガァアアアアアアッ!!』
『え、ええ、えええええ!? 本当にいるう!?』
『だからそう言ったカモ。アタシが片付けるから、避難しておい──』
『あわ、あわわわわーっ!!』
ぴっちーっ!! と下半身を折り畳み、バネのように収縮、解放する。その反動で池の中から人魚が飛び出してきた。
その後どうなったか?
スフィアの頭を(見た目だけは)グラマラスな肢体で抱え込むような形で落ち着いた。
『ぶぶっ!?』
『スフィアーっ! はやく、ほら、うわーんドラゴンだよーっ!! 早くやっつけてよおー!!』
『ほが、ほががっ!!』
……この記憶は魂の奥深くに仕舞われている。いつかどこかで『交わった』としても、それはそれなのである。




