第七十話 よし、誘拐されよう その五
過去を振り返ることに意味なんてないのかもしれない。だけど、意味なんてなくとも、彼女の魂は想起し続ける。
長い長い一生の中で唯一といっていいほど光り輝いていたあの頃のことを。
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『空白地帯』。
国家の支配を寄せつけない怪物蠢く領域。
エルフ蠢くパーハクの森、女王ヘルの支配圏たる死者の峡谷、獣人王バジルを王とした獣人の支配領域、そして──最上位魔獣が多数生息している禁域魔獣領域。
未来においてエリスがサポート役に徹するくらい強大な実力者たちの手によって封印されることとなる、禁忌なる魔の深淵。
アリシア国国境線よりさらに東部。
黒いモヤのようなものに覆われたかの土地。
ブレス一つで街を吹き飛ばす古龍や腕の一振りで砦を粉砕する巨人種のような規格外の怪物たちが生息する隔絶されたその場所にスフィアは足を踏み入れていた。
パーハクの森の中で敬意と畏怖を一身に集めるだけの、俗世と切り離された生活は『退屈』でしかない。代わり映えしない日常、妄信的に従うだけの同族に価値を見出せなかった。
外に飛び出して、大陸内を精査して、自分と拮抗あるいは上回るほどの怪物蠢く領域まで足を伸ばした理由はなんだったか。もしかしたら己と対等に接する『誰か』を欲していたのかもしれない。
『上級魔法の残滓が大気中に漂ってるカモ。ここまで蓄積するには膨大な力のぶつかり合いが日常茶飯事ってくらい突き抜けていないと駄目カモ。いひひ、これは面白くなりそうカモ』
視界を完全に遮断するほどではないが、薄い布を被せられたような黒くぼやけた中をスフィアは歩く。草の緑も空の青も失われた、色褪せた世界。大半の生物ならば忌避する環境を、しかしスフィアは胸を高鳴らせながら進んでいく。
敵のいない安穏とした隔絶領域。古臭い慣習に染まり、エルフこそが優れていると驕りきった連中に敬意と畏怖を注がれていた環境では決して味わえないスリル。
いわば夜遊びにも似たものだったのだろう。一夜限り、羽目外し。ギヂギヂに縛りつけられているからこそ、外側に出てみたくなる。
だから、これはあくまで一日だけの夢物語。
明日からは慣習に縛られた生活に戻ることだろう。
ーーー☆ーーー
『ぴっちぴち! はいぴっちぴち!!』
禁域魔獣領域。
最上位の魔獣が多数生息している魔の楽園。上級魔法さえも操る最上位魔獣たちの激突で大気中に黒のモヤが漂っているほどに闘争に満ちた土地である。
死と闘争の巣窟。
ジリジリと肌を震わせるのはどこかで魔獣同士がぶつかり合った余波だろうか。
『とお! たあ! ぴっちぴちい!!』
まさに全域で日常的に『戦争』が勃発していると考えていい。直接的に狙われずとも、余波に巻き込まれるだけでも半端な生命体は簡単に粉砕されるだろう。
『はあ、ぜえ。まだ、まだよっ。やれる、私はやれるのよお!!』
言うならばエリスクラスの怪物が常に激突している領域、のはずなのだが……、
『ぴっちぴちいーっ!!』
なんか転がっていた。
黒く染まった大地の上でぐねぐねしている(見た目は)グラマラスな女であった。
上半身は人間の女。自己主張の激しい局部を黒い葉っぱとツタで作った下着(?)で隠しただけの彼女は寝転がった状態で下半身と上半身を交互に上下させていた。
ぴちぴち、と。魚の下半身が動いていた。
つまりは人魚。
人魚が陸の上でのたくっているのだ。
『おかしいカモ。スリル満点の魔獣溢れる闘争日和のはずなのに、なんか変なのしかいないカモっ!!』
『ぴっちぴち!! ……ん? エルフ??? 珍しいわね、森以外にエルフがいるなんて』
『陸の上の人魚よりは珍しくないカモ』
『あっはは! そうだねっ』
透き通るような黒髪は長く伸びており、人間の背中や魚の下半身に張り付いていた。コロコロと朗らかに笑う人魚はうつ伏せでぴちぴちしながら、
『そうそう! エルフさんにお願いがあるんだけど』
『ん?』
『勝負、しようよっ』
ぴちぴちしながら陸の人魚が何か言っていた。
『勝負、カモ? 陸の人魚に何ができるワケ?』
『むむっ。舐めてるわねっ! いずれ世界最強を掴み取るアルティメットマーメイド、マリン様の力を見せてやるっ。だから、ほら勝負勝負っ!!』
『まあいいカモだけど、その前にあっちなんとかしたほうがいいカモ』
『あっち?』
直後。
ゴッア!! と凄まじい風圧が炸裂した。
上空にて巨大な翼を羽ばたかせる魔獣。
ブレス一発で街を消し飛ばす暴虐の化身。
つまりはドラゴンであった。
全長は三十メートルを超えているか。その翼の羽ばたきで巨躯を空に舞い上げ、その爪の一振りで大地を裂き、その顎が一度開けば漆黒のブレスが世界を粉砕する。
最上位魔獣、その堂々たる一角。
討伐には一国の軍隊を派遣する必要があるとまで言われた龍種の中でも最強と謳われる古龍。
その名の通り数千年もの古き時代より生きてきた、ドラゴンの王である。
『わ、わわっ、嘘!? あれ古龍じゃんっ。わーわー!!』
ぴちぴちしながら人魚が転がる。古龍が上空で翼を羽ばたかせて生み出す暴風に乗って。
『世界最強さーん、あれどうするカモー?』
『あわ、あわあわあわっ』
『駄目だこりゃあ、カモ』
肩をすくめ、放っておけばどこまでもコロコロ転がっていきそうな人魚の魚部分を踏みつけ、固定するスフィア。
あふっ!? となぜだか背筋を震わせる世界最強さんを無視して、上空でこちらを睥睨する怪物を見据える。
『ふうん、カモ』
返答は耳をつんざくほどの咆哮、そして大きく開かれた顎から漏れる漆黒の──
『わひゃあ!? ドラゴンブレスだーっ! 死ぬ死ぬ死ぬ、山を消し去るほどの一撃だよあれーっ!!』
『地形を変えるほどの『漆黒』ってワケなら上級魔法と似たような魔力の変異状態カモ。第八、いいや第九章クラスにまで到達してるカモ』
『なんで悠長に構えているのよーっ!』
『あれじゃまだまだ面白くはならないからカモ』
ゴッバァ!! と。
漆黒のブレスが地上に向けて放たれた。
あらゆる存在を均等に吹き飛ばす破壊の奔流は、しかし、
『「極の書」第九章第二節──白雫』
カッ!! と。
迸った純白の閃光にかき消された。
『うん、こんなものカモ』
『わーわー! 死んだ死んだもう死ん……あれ? 死んでない? というか古龍どこいったの???』
『消滅したカモ』
『なるほど、消滅ね、うんうん。……なんですとお!?』
ぴょっこーん、と跳ねる人魚。見た目だけは美人でグラマラスな大人の女性といった風貌なのだが、なんというか全体的に残念な女であった。
『で、誰と勝負したいカモ?』
『く、くう! そう、そうよ、水っ。私っては人魚だし? 水辺じゃないと本領発揮できない的な? あー悔しいなー水辺だったらいずれ世界最強を掴み取るアルティメットビューティフルマーメイドの力を見せられたんだけどなーいやー残念残ね──』
ゴッドォン!! と。
スフィアの腕の一振りで地面に数十メートルもの深さのクレーターが出来上がった。
『あわわっ! な、なによおっ!!』
ついで魔法陣が展開され、大量の水がクレーターへと流れ込む。見る見るうちに小ぶりの池のようなものが出来上がる。
つまりは水辺。
人魚の本領を発揮する場が生まれたのだ。
『いひひ。これでちょっとは面白くなってくるカモ? 水辺の人魚の力、見せてカモっ』
『うわーんごめんなさーい!!』
ズザザァ! とそれはもう華麗な土下座だった。
もう、なんというか、グラマラスな大人の女性なんて外見がもったいないにもほどがあった。
『いひひ。これはこれで面白いカモ』
『く、くそう。世界最強の旅一日目でこんな、くっそー! でも負けない、私はいずれ世界最強になるのよーっ!!』
『なんだって世界最強なんて目指しているカモ? 私は確かに強いっちゃ強いけど、私程度に戦う前から降伏するようじゃ世界最強なんて夢のまた夢なワケよ』
『そんなの決まっているわよ! この世に生まれたからにはテッペン目指すべきじゃん!!』
『テッペン?』
『テッペン!!』
人魚に対するエルフの第一印象?
なんだこの残念美人は、に決まっていた。
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現代。
神聖バリウス公国、聖都の一角。
建物と建物の間にぽっかり空いた空き地に集まったのは数人の子供とミリファ、ダークスーツの女に加えて、
「『黄』としてはこうして人を集めて何をするのかと疑問に思います」
『お前ら、来い』とダークスーツの女が言ったがためにサラッとついてきたエンジェルミラージュ。『天空の巫女』がこんな場所に降臨しているなどと知られれば、それこそ狂乱の大騒ぎとなることは目に見えているが、幸か不幸か彼女の姿はほとんどの人間が見たことはない。気づかれないうちは騒ぎとなることはないだろう。
「いひひ。面白いことなら何でもいいカモ」
スフィア。
エルフを絶滅寸前まで追い詰め、あのガジルやエリスを相手にして、なお、生還してみせる怪物。次代のエルフの長に最も近いと言われていたほどの実力者にして『魔の極致』第四席の座に君臨する者である。
ありふれた空き地にとんでもない怪物どもが揃っていた。知らないほうが幸せなこともあるのだ。
「これくらいはいないとなっ。遊ぶぞーっ!」
「おーっ!!」
……ちなみにミリファはヤケクソ気味に男の子に合わせていた。年下の男の子の手下その一的な立ち位置を早くも確立していたのだ!
「ようし、お前ら鬼ごっこするぞー!!」
「よっしゃーっ!!」
『魔の極致』第六席と第四席、それに『天空の巫女』を加えての鬼ごっこ。そんなのやる前からぶっ飛んだものになるのは目に見えていた。




