第三話 よし、お風呂に入ろう
バインでボインだった。
小柄で幼児体型でぐーたらなミリファとは比べるまでもない破壊力が視界を埋め尽くす。
そう、視界を埋め尽くしていたのだ。
つまりは王妃様に抱き締められて、湯船に浸かっていたりする。
(メイド服脱がされたかと思ったら、これだよ。どうして王妃様の腕の中に、ああ、でも、あったかいなあ)
近所でよく魚を釣っていた池ほどの大きさがある浴槽のほのかな温かさとふんわり柔らかなお胸の暖かさに思考がぐにゃぐにゃになりそうだが、相手はこの国の実質的なナンバーワンとも名高い王妃様。粗相があってはならないということくらいはミリファにも分かる。
どうしてこんな状況になったかさっぱりだが、せめて王妃様の怒りを買わないよう注意しなくてはならない。いくらぐーたらで怠け者で仕事したくないミリファでも、彼女の怒りを買ってはクビになるどころか首と胴体がオサラバしかねないことは理解していた。
それはそれとして、おっぱい柔らかで気持ちいいな、と。どうにも魔性の誘惑に沈みかけそうだが。
「ねえ、ミリファちゃん」
「ふあい?」
美貌の第一王女が荘厳な雰囲気を纏う美女なら、王妃様は全てを包み込んでくれる母性の象徴であった。そんな女性が暖かく抱き締めてくれるのだ。理性なんてドロドロに溶けてしまったって仕方ない。
「我が第七の娘は民衆からは無能の王女と呼ばれていますわ。スキル『転移』のせいで魔法は使えませんし、武術も全然ですし、頭脳も美貌も平均的ですわ。普通に生きていくならまだしも、他の娘のように秀でた才がない王族の女に価値はありません。それが我が国が王族の権威を高めるために蓄積させてきた『慣習』ですわ」
「…………、」
「ミリファちゃんもその一端は知っているでしょう。でもね、あの娘の側仕えになるということは、知っている『つもり』でいる悪意の本質に晒されることとなります。それでも、ミリファちゃんは第七の……いいえ、セルフィーの味方でいてくれますか?」
無能の第七王女。
他の人間より秀でた才がないせいで存在価値がないとまで言われる不遇の王女。
知っている『つもり』なのだろう。
第七王女が晒されている悪意はミリファが考えているよりも醜悪で悲惨なものなのだろう。
だけど、今ならば、おそらく逃げられる。
こうして尋ねてきているのだ。無理だと、そんなことできないと、誰が無能の王女の味方になるものかと、そう告げてしまえば側仕えの話も飛ぶのだろう。
大体、先程顔を合わせ、少し言葉を交わしただけの女のために面倒ごとを背負うことはない。王族と関わるなんて重たい問題を投げ捨て、のんびりぐーたらな平凡な日常に帰るべきなのだ。
だけど。
だけどだ。
「私は平凡な女です。別に特別な才能なんてないですし、そうですね、無能なんでしょうね。まー別にいいんですけどねっ。特別な才能なんてなくても、のんびりぐーたら過ごせればそれで幸せなんですから」
ミリファは胸に灯る衝動に従って、真っ直ぐに突き進む。
「だから、それを教えてあげたいんです。周囲の意見なんてどうでもいいんだと、平凡で無能でも幸せになっていいんだと、あんな目をする必要なんて絶対にないってことを!!」
「そう」
「私に『第七王女』を支える側仕えとしてのお仕事をこなせる自信はありませんが、『セルフィー様』を支える友達にならなってあげられます!! だから、えっと、あの、ですね……」
「ミリファちゃん」
ぎゅっとふかふかベッドのように全身を柔らかく包み込む王妃様がミリファの耳元に顔を近づけ、まるで染み込ませるように言の葉を吹きつける。
「『セルフィー』のこと、よろしくね」
「ふふんっ! それならお任せくださいっ!!」
ーーー☆ーーー
なんだかノリに任せてとんでもないことを言ってしまったような? と今更ながらに顔を青くするミリファ。なぜか替えのメイド服を持っていた王妃様の手で着替えさせられて、王妃様と別れたミリファはというと、改めて最初の問題に対峙する。
「結局セルフィー様どこにいるんだろ?」
そう、最上階は大浴場だった。権力者なんだしどうせ高い所に居を構えているんだという予想は外れていた。流石に王妃様に尋ねる勇気はなかったので、一から探し直しということになる。
「こんなことならガジルさんに聞いておけばよかったなあ」
無精髭の中年騎士ガジル。自己紹介の時に第七王女の護衛を任せられている唯一の騎士という話は聞いていた。無能の王女が対象とはいえ護衛が一人? と首を傾げたものだが、それだけ冷遇されているのか、あるいは彼一人でも護衛として成り立つほどに強いのか。
「うっ、これを下りるのかー……」
眼下には汗だくぐっしょりになって上ってきた階段。下りの方が楽ではあるのだろうが、せっかくお風呂に入ってさっぱりしたのになー、と眉をひそめる。
「どうせ行かなきゃなんだし、気合い入れないとねっ。よ、よおしっ! 行くぞおっ!!」
えいえいおーっ!! と高らかに叫び、第七王女捜索大作戦が開始された。
ーーー☆ーーー
「ひい、はあ、……し、死ぬう。内臓破裂するう!!」
恥も外聞もあったものではなかった。一階まで何とか辿り着いたミリファはメイド服が汚れるのも構わず床に潰えるように倒れこむ。
いくら下りとはいえ、上りと違い各階の捜索が追加されているのだ。疲労度は上りよりも格段に蓄積されていた。せっかくお風呂に入ったというのに、既にメイド服はぐしょ濡れのびちゃびちゃである。
「ひい、はう、ごはがはっ。もう無理歩けない死ぬってこんなのおーっ!!」
せめてガジルに第七王女の私室を聞いておけばこんなことにはならなかった、と今更ながらな後悔が積み重なっていく。
というか、
「……本当にお付きの人たちいないんだ」
そう、いくら他の塔よりも小規模とはいえ、五階以上の高さがある塔だ。それだけ部屋の数も広さもあったものだが、どこにも使用人の影はなかった。
護衛のガジル以外の人員は排除しても問題がないほどに『役割』がない、という話だが、だからといって王族に対する扱いだとは思えない。
本人が望んだ結果という雰囲気だったが、こんなことを望むようになってしまうほどに無能の王女という誹りは彼女の魂を蝕んでいるのだろう。
「ふ、ふざけやがってっ。ああもうムカつくし、キツイし、モヤモヤするし、喉乾いたしい!!」
ドッタンバッタン転がりながら床を叩き、蹴り、腹の底から叫ぶミリファ。ここに来てから調子がおかしい。第七王女のあの憂いを帯びた瞳を見てから、彼女のことばかり考えている。
ミリファには縁遠い世界だった。無能の王女という悪意に眉をひそめたことはあれど、どこか他人事として捉えていたのも無理はないだろう。
だけど、目にしたのだ。
噂の中ではない、現実として存在する第七王女を見て、話して、関わったのだ。
それだけで十分だった。もう完璧に惹きつけられた。
だから。
だから。
だから。
「ミリファさま?」
「がんぬばはあーっ!?」
そっと、あくまで静かに第七王女から声をかけられただけで跳ね起きるのも当然のことなのだ。その口から乙女らしからぬ叫びが漏れてしまったのも仕方ないことなのだ。
……今のなしにして、と泣きたくなったけど。
ーーー☆ーーー
何やら騒がしい、と第七王女は小首を傾げた。
使用人を遠ざけ、護衛のガジル以外はこの第七の塔に近づくことすらない。そして、あの不良騎士は護衛の任なんて放り捨て、専ら酒場か博打場に足を向けている。となれば、第七の塔には第七王女の生活音しか響かないはずなのだが……、
「そういえばミリファさまが来たんでしたっけ」
ミリファ。
セルフィーと『運命』を結びしメイド。
王妃様のスキル『千里眼』が見通した未来にて『…………』国の軍勢に立ち向かい、命を落とすことが定められている。
だけど、そんなものは無駄死にだ。結末を変えるに至らず、ただただ一矢報いるためだけにミリファを呼び出し、闘争の渦に突き落とし、殺すなど正気の沙汰ではない。
他の王女たちはそれを知っているのか、知らないのかは分からないが、少なくとも第七王女に『運命』のルートを伝える必要はあった。
「わたくしのスキルがミリファさまに力を与え、結果として闘争に巻き込むこととなる、とするなら」
椅子から腰を浮かせる。
音源、『運命』を繋げしメイドの元へ足を向ける。
「せめてミリファさまだけでも逃がしますから。お母様が目を光らせている以上首都から逃がすことはできないでしょうが、来るべき日にミリファさまが闘争に巻き込まれないよう立ち回ることはできるはずです」
だから、他の使用人同様ミリファとの関わりも極力絶つべきだ。無能の王女の側仕え『なんて』やりたくもないだろうと思っていたがゆえに初対面の時は言葉選びを間違えたが、今度こそきちんとした形で拒絶を示す必要がある。
ーーー☆ーーー
「セルフィー、様?」
「はい、セルフィーです」
見上げた先には王女が立っていた。
素っ頓狂な叫びと共に跳ね起きたミリファの目の前にだ。
「え、っと、ですね、さっきのは違うっていうかですね、いやあんなのはどうでもよくてですね、あのですね、あれなんですよ、あれ、あれですって、セルフィー様あ!!」
パニックだった。
いきなりすぎて心の準備が整っていないのもあるが、やはり先のヘンテコな叫びを聞かれたことが大きい。小柄な幼児体形、セルフィーの平均よりもずっと大きな二つの軟体兵器に比べてなんともぺったーんな胸部持ちではあるが、それでも女の子なのだ。
普段からぐーたらなミリファにも守りたい一線はあるということだ。
「とにかく、とにかくですね、セルフィー様っ。そう、そうです、私はセルフィー様とお友達になりたいんですよおっ!!」
ヤケクソだった。
言ってやったぜ! と謎のテンションだった。
謎の達成感に気分が高揚していた。
だから、そう、だからだ。
とっくにお友達感覚に突入しているミリファには、次の返事を予想すらしていなかった。
「お断りします」
「よしきたっ。それじゃあ、まずは愛称をつけ合うことから……ん、んんん? あれ、いま、なんと???」
「お断りしますと申し上げました」
「なんっ、なんで、ああいや、そうだよね村娘と王女様とがお友達だなんて恐れ多いよね、じゃなくて、ですよね。それではメイドとして! 仲良くなりましょう!!」
「いいえ、わたくしにメイドは必要ありません」
「な、ん」
「身の回りのことは自分でできますので、他の使用人と同様、今後一切この塔には近づかないでください」
「まっ、待ってくださいっ! えっと、確かに私は王族に仕えるメイドとして相応しくないかもですけど、でも、頑張りますから!! 王妃様とも約束したんですっ。セルフィー様の友達にな──」
「お母様と、ですって?」
あ、とミリファは思考が握り潰されるのを感じた。
何かが一線を超えた。犯してはならない領域に足を踏み入れてしまったのだと。
「どこまで、どこまで馬鹿にすれば気が済むんですか!!」
「あ、あの……」
「っ!!」
恐る恐るといった風に声をかけようとした。ミリファには何が第七王女を怒らせたのか分からなかったが、とにかく言葉を交わすことで原因をはっきりさせて、きちんと向かい合いたかった。
だけど、ミリファは見てしまう。
辛そうに、苦しそうに、先の言葉を後悔しているのか、表情を歪ませ、初対面の時から浮かぶ、あの憂いを帯びた瞳を酷く濁らせていくのを。
「とにかくっ。わたくしにメイドも友達も求める資格はありません。金輪際、ここには立ち入らないようにしてください」
どうしようもなかった。
友達になると、支えになると、無能という悪意に晒される王女の側に立つと、口先だけの女にできることなんて何もなかったのだ。