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その帰り道、途中に一度だけ海岸へ寄って包丁を海へ向かって投げ捨てた。くるくると回転しながら大きな弧を描いたそれは、遠く夜闇の向こうで雨の音に紛れて静かに海の底へと沈んでいった。
アパートへ帰ると、ユイはまだ帰ってきていなかった。処理が残っているのでその方が都合がいいのだが、やはりユイのいない空間というのは寂しい。
明かりの下で、ぐっしょりと雨に濡れた自分の体を確認してみる。右袖を失った服には、意外と血痕が付着していた。雨を浴びた程度でそう簡単には落ちないようだ。
初めからそのつもりではあったが、やはり捨ててしまったほうがいい。ユイ以外の血が付いた服なんて、それだけで不快でゾッとする。とりあえず今着ている服を脱ぎ捨てた。
浴室にそれらを放り投げて、なによりもまずシャワーを浴びた。
気持ちわるい。キモチワルイ。
バイト中でさえ誰にも触れることが無いよう細心の注意を払っているのに、手袋越しとはいえ、今日は自ら触りにいったのだ。本当にもう、気持ち悪い。
しかしそこまでしてユイの為に尽くせる自分は、やはり献身的だと思った。そんなことで恩を着せる気などは毛頭なくとも、ちょっとした自己満足だ。
念入りに体を洗って、ひとまず浴室を出る。体の臭いを嗅いでみるが、洗い立てなのでさすがにボディソープの甘い匂いしかしてこない。一応綺麗にはしたつもりだけど、後でもう一度ユイと一緒に入ろうと思う。
次にすることは服の処理だ。着ていた服は細かく切り刻んで、ゴミ袋に押し込んだ。ズボンや手袋も同様にする。ついでに、靴もバラして刻む。
処理を終えると、ゴミ袋を縛ってゴミ捨て場へ持ってゆく。やや早すぎる時間ではあるが、日付的にはすでに回収日になっているので問題ないだろう。
血のついたビニールは適当に他のゴミを詰めて、ゴミ袋の奥に沈める。不燃ごみの回収は明日なので処理はまた後日。
それらを終えると、この場にはすでにマナの行為の証拠となるものは何も残っていなかった。
あとは、ユイが帰ってくるのを待つだけ。
マナはその時間ですら、幸せに感じていた。ユイのことを思い浮かべ、ユイの笑顔を思い浮かべ、うっとりとほほ笑む。
「‥‥ユイくん、笑ってくれるかなあ」
ユイがそれを知るのは、少し後のことになるだろうけれど。もしかすると、気づくこともないかもしれないけれど。それでもユイが日々を安穏と過ごせるということだけは間違いない。マナにとっては、それだけでも十分だった。
それからしばらくもしないうちに、玄関のドアがガチャリと開いた。
それと同時にマナは瞳を輝かせて、玄関までユイを迎えに行く。
帰るなり抱きつかれたユイはさすがに驚いて、戸惑いながらもマナを抱きしめ返してくれた。ユイも雨を浴びてわずかに濡れていたけれど、気にすることなく頬をすり寄せた。
言葉を交わすよりも前に、お帰りのキスを交わす。
「お帰りなさい、ユイくん」
「うん、ただいま。どうしたの、今日はえらくご機嫌みたいだけど」
ユイの言葉に、マナはにっこりと笑顔を返す。
「ユイくんがいれば、私はいつでも幸せだよ」
マナの中には罪悪感も、罪を犯した恐怖も無い。そして、あの男の記憶はもはや完全にマナの記憶から消え去ってしまっていた。
残っているのはたった1つ。ユイの為に何かを成したのだという、ユイだけに捧げる愛情、ただそれだけ。
それだけで十分だった。
「‥‥そっか。まあ、それならいいけど」
ユイはそれ以上は何も尋ねず、静かにマナの頭を撫でてくれた。そうしてくれることが嬉しくて、マナはすりすりとユイに体を擦りつける。
マナのことをなんでも分かってくれているユイのことだ。もしかすると、マナのしたことを、すでに全部分かっているのかもしれない。どちらでも構わない。ユイが、少しでも安らいでくれるなら――
「マナ」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
ユイの顔を見て、マナは頬を赤く染めて満面の笑顔を咲かせ、幸福に身を震わせた。
びくびくと本当に体を小さく痙攣させ、腰が砕けそうになる。あまりの多幸感に、体が性の悦びすらも覚えてしまったようだ。
それほどまでの、至上の喜び。幸せで、幸せすぎて、心が溶けてしまいそうだった。
ユイが――笑っていた。
それは、滅多に見ることのできない表情だった。いつも無表情だし、ほんのりと笑顔を浮かべることはあっても、こんなにも真っすぐに向けてくれたのは、久し振りだったから。
「ユイくん、ユイくんっ。私、ユイくんのこと大好きだよ。愛してる」
「うん、俺もだよ。マナ、愛してる」
珍しくはっきりとした口調で、ユイが言ってくれた。嬉しくて、嬉しくて、どうしようもなくなってしまう。
ユイが何を思ってその笑顔を向けてくれたのかは、悔しながら分からないけれど、でも、たとえ理由がなんであろうと、ユイの笑顔を見られたのならそれだけで十分すぎた。
やっぱり、殺して良かった。
何度も何度も、マナはユイにキスをぶつける。どろどろと溶けて混ざり合ってしまいそうなくらい熱く、濃厚に。
早く、ユイと一つになりたい。お風呂にも入りたいから、お風呂でしてもらおうと思った。
ここから遠い暗く沈んだ狭い路地で、男の体は冷たくなっているのだろう。だけどそんなことはマナの思考の片隅にすら無く、マナはユイの温かさだけを求めていた。
「ユイくん‥‥」
世界でたった1人、マナが愛するその人の名前を呼びながら、マナの視界はその人で埋め尽くされていく。マナの全ては、その人のためだけのものだった。
「マナ。愛してるよ」
心も体も、何もかも全て。
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