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クルイアイ  作者: くらうでぃーれん
1・愛と憎悪
3/37

1-2

 

 放り投げるような札を拾って、決して触れないように指先だけで釣りを返す。会計が終わると、男は無言で店を出て行った。マナは無言でそれを見送り、その背中にようやく怒りを込めた視線をぶつけた。


 あの男はいつも、誰に対してもこうだ。無駄に偉そうで、常に不機嫌で、自分が〝お客様〟だと勘違いしている。そんなに嫌なら来なければいいと思うが、しかし男は頻繁にこの店にやって来るのだった。


 マナとて嫌がらせでタバコの銘柄を聞き返しているわけではない。あんな男のことなど何ひとつ覚えたくもないので、本当に知らないのだ。男の顔すらも、実のところまともに覚えてはいない。横柄な態度を取られるまでは、顔を上げないこともあって全く気づいていなかった。


 むしろ、イライラしながらもしばらくそれが誰かなど考えもしなかった。もし同じような態度の全然違う客が来たとしても、マナにはその見分けはつかないだろう。恐らく顔も体格も、性別すら違ったとしてマナにとっては嫌悪の対象であり、全て覚える価値もないひとくくりの存在だ。


 それが――ユイではないという点において。


 マナが正しく覚えているのはユイのことだけ。ユイのことだったらどんな些細なことでも全て記憶している。誕生日は当然、今の身長や体重、食べ物や飲み物の好み、好きなコーヒーの種類や濃さ、服装の好み、服を着る時の癖、脱ぐときの癖、脱がせてくれる時の癖、お風呂の時はどこから洗うかも知っているし、どんなキスが好きなのかとかどこが一番感じてくれるかもよく知っている。マナの耳や指を甘噛みするのが好きなことも知っているし、首筋を甘噛みされるのが好きなことも知っている。

ユイのことだったら、聞かれた全てのことに答えられる自身がある。もっとも、ユイ以外には答えてやるつもりはないけれど。


 だけどユイ以外のことは全然知らない。マナが覚えるのはユイのことだけ。マナが奉仕してあげるのも、マナに話しかけていいのも、見ていいのも、全てがユイ一人だけの権利なのだ。それ以外の人間がその権利を主張しようとするなど、言語道断だ。


 マナはいい加減表情を取り繕う余裕も失って、足早に客の目に付かない店の裏に引っ込んだ。

 ギリ、と奥歯を噛みしめながら縦開きの冷凍庫のフタを振り下ろす拳で殴りつける。ゴン、と鈍い音が響き、バックルームで商品の発注をしていた店長が驚いた顔を向けてくるが、それを気にかける余裕もない。

 ユイのことを思い浮かべながら一度大きく深呼吸。そうしてようやく、一応の平静を取り戻すことに成功する。


 そこまでして怒りを抑えつけているのは、できるだけ荒事は控えるようにとユイに言われているからだ。

 正直かなり難しい要求だった。けれど1つだけ嬉しかったことは、ユイがそう言ったのは色んな人と仲良くしなさいとかワケの分からない不快感に満たされた理由などではなく、その方が面倒が少ないからという、ユイらしい理由に因るものだったことだ。


 だからマナは必死に耐える。どれだけ不愉快な思いをしようと、それはユイとの約束だから。自分の激情なんかよりも、ユイとの約束のほうがよほど大切だから。

 これは今に言われ始めたというわけでもない。高校で気安くマナに触れてきた男子をゴミ箱で殴りつけてやった時も、後からユイにたしなめられたものだ。下らないことにあまり関わらない方がいい、と。


 楽しくもないのに笑顔を浮かべているのも、ユイがそう言ったから。睨みつけたりするのは当然、あまりに無表情でいると無駄な諍いを引き起こしかねないから、できるだけ明るい表情でいたほうがいいと、ユイが言ってくれた。


 だから本当は笑顔もユイの為だけのものにしたかったけれど、仕方なく笑顔を浮かべる。だけどこれもいわばユイの為なのかもしれない。そう思うと少しだけ楽になる。ただし頻繁にそれを忘れて無表情になってしまっていることには、マナはあまり気づいていない。


 荒げた態度だけはどうにか収めると、マナは再びレジへと戻る。氷雨がそんなマナの横にふわりと立って、楽しげな困り顔という器用な表情を向けてきた。


「もう、マナちゃんったら、あまりお客さんに冷たくしちゃダメよ?」


 氷雨に諭されるが、こればかりは向こうが悪いのだから仕方がない。もっとも何があろうと、ユイ以外のことで自分が悪いと認めるつもりなどないけれど。


「私悪くないです」


 あらあらと、氷雨が反応に困った顔をしている。実際、あの客は態度の悪さのせいで店員からの評価は圧倒的に低いので、マナに限らずあれに対して淡々と接している店員も少なくない。

 もちろん、マナほどあからさまな態度を取っている店員はさすがにいないけれど。

 氷雨はすぐに気を取り直し、柔らかい笑顔で店内を見回した。


「じゃあお客さんも少なくなってきたから、店内のお掃除お願いしていいかしら」

「分かりました」


 淡々と答えて、マナはレジを出て掃除用具を取りだす。

 マナは掃除が嫌いではなかった。行為自体がどうこうではなく、これをしていれば比較的集中してユイのことだけを考えていられるからだ。掃除をしている間は客との関わりを最小限に抑えられる。声をかけられれば仕方なく応じるが、それ以外では一貫して客の姿など無いものとして扱っていた。


 帰ったらユイと何をしようかなと考えながら、時折横を通り抜けてゆく客を意識の外に置きながら掃除を続行。掃除が終わると商品棚の整理を始める。

 ある程度売れると商品の最前列が後退してゆくので、見やすく取りやすいように商品を前に移動させてゆく。もちろんマナがそれをしているのは客の為などではなく、そういう仕事だから、でしかない。


 掃除や整理に関して、マナの手際は決して悪くはない。むしろ、かなりいい。

 普段ユイの為に身の回りのことを積極的に行っているおかげで、それらの行動に体が慣れているのだ。当然身の入れ方がユイの為にしている時とは天と地ほどの差があるので、やる気になればさらに効率よく仕事をこなすこともできるが、言うまでもなくユイ以外の為に尽くす気など毛頭ない。

 手を動かしながらユイのことを考えていると、自然頬が緩みそうになり図らずも作業が早くなってしまう。


 黙々と仕事をこなしていると、不意に後ろに誰かが立ったのを気配で感じた。商品を見ようとしているのかと思い、緩みかけた頬を不愉快に歪め、主に鬱陶しいという理由でその場を去ろうと思ったマナに、声がかかった。


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