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今日も今日とて、ユイは淡々とバイトに励んでいた。
今のところ、バイトの日数はユイのほうがマナよりも多く入るようにしている。なぜ、というほどのことでもない。その方が揉め事が起こる可能性が絶対的に低いと思ったからだ。マナの性格を考えれば、当然の対応だろう。
ユイとて、マナの極端な性格はよく理解している。ユイ1人で2人分の生活費を稼ぐのは厳しいが、それでもできるだけユイが中心になってお金を稼ごうとは思っている。
というワケで、ユイは今も忙しく店内を歩き回っていた。
ユイは思考の切り替えが上手いと、自分でもある程度認めている。現在のように仕事をする時は考え事を止めて仕事に集中するし、暇ができれば思考に耽ることもできる。
ピークの時間が過ぎて、ほとんど動く必要が無くなってくるとユイは一旦動くのを止め、即座に思考に没頭していた。
「おーい、水波くん、何ぼけっとしてんのー?」
べし、と軽く後頭部にチョップを入れられ、ユイは振り返る。そこには明るい笑顔を浮かべた陸瀬が立っていた。
「ちょっと、考え事してた」
「ふーん、なんか最近それ多いよね。悩み事っすか?」
「いや、別に何でもないよ」
誤魔化しの常套句ではあるが、まあ嘘ではない。深く様々な思考を巡らせているという点では悩み事と言えなくもないが、とりあえず陸瀬の言う悩み事とは、大きくニュアンスが違うだろう。
「‥‥香澄さんのこと?」
しかし否定を否定と受け取らなかったらしい陸瀬は、やや控え目にそう尋ねてきた。
「いやだから、悩み事とかじゃないから。気にしないでよ」
マナのことを考えていたと言うのは、あながち間違いではないのだが。
あまり深く突っ込まれるのは面倒なので重ねて否定するが、今日の陸瀬はどうやらあっさりとは見逃してくれそうにないようだ。そしてユイも、無下に彼女を突っぱねるようなことはしなかった。
「あの、さ。わたし、普段から見ててなんとなーく、思ってたんだけど‥‥」
陸瀬はひどく言いづらそうに、やたらと長い間を空けてから、そう聞いた。
「香澄さんて‥‥重くない?」
問い直すまでもなく、体重が、などという物理的なことを尋ねているわけではないだろう。そして陸瀬のその口調は尋ねているというより、明らかに同意を求めているそれだった。
「そうかな」
「‥‥うん、そうだと思う」
陸瀬はユイから視線を外したまま控え目に首肯し、ふと意を決したようにユイの目を見つめた。
「ていうか、重いよ。絶対。水波くんだって、全然思ってないわけじゃないでしょ。だって、さすがにアレはありえないって。自分以外の女どころか、自分以外の人間全部から水波くんを遠ざけようとしてるじゃん」
「‥‥‥‥」
全くもってその通り。大正解だと思ったが、ユイは無言で応えることにした。
もちろんユイとて、あれだけ極端かつ大胆な独占欲に気づかないわけがない。気づくまいとすれば、ユイもマナと同様周囲の人間全てを意識から排除しなければならない。ユイの場合、興味を持っていないだけで周囲の存在もそれなりに認識はしているのだ。マナのように全てを無視してしまえば、面倒事は避けられないだろうから。
実際、先日の買い物然り、マナの周りではよく揉め事が起こりそうになっている。
無言をどう受け取ったのかは知らないが、陸瀬はさらに言葉を続けた。
「やっぱさ、あれはさすがにやり過ぎだと思うの。見ててちょっと‥‥怖いっていうか、水波くんもものすごい縛られてる感じがして、気の毒っていうか、いくらなんでも、しんどいんじゃないかなーって、思うんだよね‥‥」
どこまではっきり言っていいのか分からない様子で、陸瀬は言葉を選びながら話しているようだった。出来る限り否定的な言葉を使わないようにしているようだが、陸瀬がマナを嫌っているということはありありと伝わってきていた。
「別れた方がいいってこと?」
なので、ユイがはっきりと言葉にしてみた。敢えて避けていたのであろうその言葉に陸瀬はやや慌てた様子だったが、やがて気まずそうにこくりと頷いた。
「‥‥まあ、そういうこと、なんだけど」
陸瀬の言葉にユイは怒ることも、熟考する素振りも、まともな感情を見せることなく、限りなく生返事に近い様子で返答した。
「まあ、忠告は受け取っておくよ」
陸瀬はその言葉に、眉根を寄せてユイを見上げる。
「‥‥水波くん、全然別れる気ないでしょ」
「まあね」
ユイはやはりあっさりと返した。陸瀬は一歩詰め寄って勢い込む。
「自分のことなんだから、少しはちゃんと考えてなってば! だってあんなのありえないって! はっきり言って香澄さんの評判、最悪だよ? 当り前だよね、あの子気持ち悪いもん! いつも水波くんに言葉通りべったりでさ、他の子とは絶対話そうとしないし、水波くんが誰かと話してる時なんか、その子のことすっごい目で睨んでるもん! さすがに水波くんがヤバいってみんな言ってるよ。だから‥‥!」
そこまで口にして、陸瀬ははっとしたように言葉を止めた。ユイの目を見て、思わずといった様子で1歩距離を置く。
しかし言ってしまったことを取り消すつもりはないらしく、戸惑った様子のままで「でも、ホントのことだし」と小さく呟いた。
「忠告、ってほどでもないけど、俺に限らず、人の彼女の悪口言うのは控えた方がいいと思うよ。特に本人の前では」
ユイが怒りを込めるでもなく相変わらず抑揚の少ない口調でそう言うと、陸瀬は一度視線を逸らし、ようやく「ごめん」と呟いた。
「‥‥でも、これは悪口とかじゃなくて、香澄さんが普通じゃないっていうのは、客観的な事実だと思うよ」
「‥‥‥‥」
知ってるよ、という言葉は、やはりユイは言わなかった。
「おーい、修羅場のところ悪いけど、追加注文来ちゃってるよ。とりあえず仕事終わってから、あたしにも分かるように説明してから続けちゃおうか、ふへへ」
と、いつもの調子の千尋はその会話が聞こえていたのかどうか。空気が悪いことに気づいているかどうかすら怪しいものだ。
ユイもすでにいつもの調子で淡々と答え、呼び出しを受けた席へと向かった。
もちろん少々何か言われたくらいで、マナと別れるつもりなどあるはずがない。
マナは重いし、普通ではない。そんなこと、ずっと一緒に過ごしてきたユイが一番よく知っている。
しかしだからこそ、マナはユイのどんな言葉にでも、必ず応えてくれる。たとえそれが、どんなに無茶や無謀であったとしても。
ユイの為なら、どんなことでもしてくれる。たとえそれが――常軌を逸したことであったとしても。本人はそれを異常だと思うことすらなく、喜んで。
そんなマナを、どうして手放すことなどできようか。
ユイは陸瀬に背を向けて、うっすらと感情の薄い笑みを浮かべるのだった。
その日のバイトからの帰り道、アパートの近くの路上に、1匹のネコがうずくまっていた。しかしよく見るとネコの首筋は赤黒く染まっていて、どうやら息絶えているらしいことが見て取れる。
「‥‥‥‥」
いつもならそんなもの気にも留めないのだが、今日は少しだけ、意識に引っ掛かるものがあった。
自転車を止めて、ネコに触れてみる。首の肉がごっそりと抉れ、今日死んだばかりなのか、傷口の血は乾ききっていないようだ。
自然に受けた傷、とはさすがに考えづらい。人為的なものと見るほうが自然だろう。
ネコ自体はどうでもいいのだが、その原因に少しだけ思い当たるような、思い当たらないような。
予想が当たっているとするなら、それは良いことなのか、悪いことなのか。
「‥‥‥‥」
まあ、なんでもいいや。
ユイはすぐに興味を失って、アパートへの帰りを急いだ。
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