1-1
まず、自分が殺すべきなのはどんな相手なのかを確認しなければならない。
自分とあまりに無関係ゆえ、マナは未だ相手の顔すら知らないのだ。
というわけでマナはその日、ユイのバイト先の居酒屋に来ていた。確認ついでにユイと一緒に帰ろうという心積りである。いや、一緒に帰るついでに確認しに来たと言ったほうが適切だ。マナの行動は何においてもユイが最優先なのだから。
2人用の個室に1人で入り、ユイの仕事が終わる時間まで待って、その間にソレがやってきたら顔を確認しておこうと思っていた。来なかったら、何度でも来ればいい。
ちなみにユイがバイトから解放されるまではあと3時間近くあるが、ユイを眺めていればその程度の時間は簡単に潰せるだろうと思っていた。
現在個室の前にはユイがいて、注文を受けてくれている。当然ながら、ユイ以外の誰かに注文を受けさせる気はない。
「お酒は?」
「飲まない」
「料理は?」
「帰って一緒に食べる」
「ダメだって。居座るだけだったら俺が文句言われるから」
ぺこ、と注文票で軽く頭を叩かれる。叩くならユイの手で叩いてほしかったけれど、すぐに撫でてくれたので不問とした。
「じゃあ、ユイくんのオススメは?」
尋ねるとユイはメニューを開いていくつかの料理を指し示す。
「これと、これと、これくらいが人気のあるやつかな。こっちはちょっと高いけど、けっこー美味いらしい」
「じゃあそれ全部」
「食いきれないだろ」
「ユイくんも一緒に食べよ?」
「生憎、俺は仕事熱心だから。ま、小分けにして持ってくるよ。とりあえずサラダと、串焼き持ってくるな」
「全部ユイくんが持って来てね」
「分かってるよ。あと、仕事上がりに俺が払えば半額になるから、先に払うなよ」
言ってユイは注文票に書き込み、キッチンへ向かって行った。注文票を出しながら中に向かって「これちょっと多めに盛れますか?」と声をかけると、「仕方ないなー。2人だけの、秘密だからねっ☆」と楽しげな女性の声が返され、マナは瞳を眇める。
続いて背中から「水波くんがそういうの言ってるの初めて見るかも」と親しげに話しかけている陸瀬秋奈(という名前などマナは覚えていないが)を見咎め、マナはさらに不機嫌に心を尖らせた。
しばらくするとユイが山盛りのサラダと串焼きをお盆に乗せてマナのもとへとやって来る。マナは唇を尖らせながらユイを見上げた。
「他の子と話してる」
「話くらいするってば」
ユイは嘆息して、料理と一緒にストローのささったコップをマナの前に差し出す。
「で、これはサービス。内緒だからな」
言ってユイはそのストローを咥えてひと口だけ飲んでから置き、再びキッチンの方へと消えてしまった。
そんなユイの行為に、マナは先程までの不機嫌を瞬時に霧散させていた。
はむ、とすぐにストローを咥えてひと口すすると、中身はオレンジジュースのようだった。しかしそれの味なんかより、ストローに残るユイの口内の温かさがマナにとっては最高のサービスだ。
さすが、ユイはマナが喜ぶポイントをよく押さえている。上手くあしらわれているという気もしないでもないが、ユイにされることだったらマナはどんな行為でも許容してしまうのだった。
そうしてちまちまと食事をしつつ、ユイを眺めて時間を潰す。こうしていると、もうひとつの目的を忘れそうになってしまいそうだった。というか、ほとんど忘れていた。
そんな時、不意にユイが料理を運んできたわけでもなく、ほんのわずか、マナにしか分からない程度に眉をしかめてマナの席へとやってきた。
「どうしたの? ユイくん」
「ちょっとだけ、ストレス発散させてもらっていい?」
マナが何か理解するよりも早く、ユイは外からは分かりづらいように唇を重ねてきた。
よく分からないけれど、マナは瞬時にそれを受け入れた。ユイの唇を割って舌を侵入させ、今食べているどんな料理よりも美味しいユイの唾液を心行くまで味わう。
長い長いキスを終えると、ぷあ、と息を吸い込み、蕩ける表情でユイを見上げた。
「鬱陶しい客が来た。士気が下がったから元気注入」
それを聞いた途端、目的を思い出すと同時に思わず体が動いた。
「どこ? 殺してきてあげる」
ついでに思わず、本音も漏れてしまった。
「あっちの、21番って席。でも、騒ぎを起こすのはやめてな。大人しくしてて」
「トイレ」
ぐいぐいと体を押しつけて、抱きつくついでに道を譲ってもらい、トイレに向かう道すがら、21番という席を見つけるとわずかに歩みを緩め、その中に視線を送った。
中にいるのは4人の男だった。以前のユイの話では、偉そうな口を利かれて鬱陶しかったいうことだったので、奥でふんぞり返っている男だとみて間違いないだろう。
目星をつけるとそのまま通り過ぎてトイレに入り、用は足さずにキスで乱れた髪だけ整え、すぐに引き返す。
もう一度その席の前を通り、マナはその男に向けて冷たく、鋭い視線を突き刺す。もし視線に質量をもたせることができるのなら、その男の顔面を今この場で消し飛ばすつもりで睨み抜く。そしてそのまま、それ以上の行動を起こすことなく通り過ぎた。
ユイにストレスを溜めさせるなんて、本当だったら今すぐ乗り込んでビールジョッキで頭を叩き割ってやりたい。しかしユイに騒ぎを起こすなと言われたばかりなので、騒ぐわけにはいかない。
自分の席に戻ると、目を閉じて黙考。忘れないように、今の男の顔を記憶の片隅にわずかに留めさせようとする。
ユイ以外の人間の顔を覚えるのは苦手だ。正直、バイト先の人間ですら不意に街角で出会ったとしたら思い出すのに数分を要するだろう。頻繁に会っている相手でさえそんななのだから、今初めて見た人間の顔を覚えるなど、一度見たきりの絵画を正確に複写しろと言われるほどに困難だ。
あまりに不快極まりない行為にウッ、と思わず嘔吐いて胸を押さえた。
そして何より、気分が悪い。ユイ以外の顔など、本当なら見たくもないというのに。
それでも覚えなければ、目的を果たせない。嫌悪に肌をざらつかせながら、もう一度男の顔を思い浮かべてどうにか記憶に留まらせようと努力する。殺した後は、早々にこんな記憶跡形もなく抹消しようと思いながら。
「‥‥マナ?」
目を開けると、ユイが心配そうにマナを見つめていた。どうやら、よほど気分の悪い表情をしていたらしい。
「大丈夫か?」
「うん、ユイくんの顔見たからもう大丈夫。キスしてくれたらもっと大丈夫」
「帰ってからな。もう一皿くらい食う?」
「ユイくんの手作りなら」
「残念、俺はキッチンには入れませんので」
「ユイくんの口移しなら」
「残念、そのようなサービスは当店では行っておりません」
「ユイくんなら」
「残念、メニューにありません。じゃ、適当に軽いもん持ってくるよ」
そう言って注文票に書き込んで――ユイはすぐには立ち去らずマナを見つめた。
「ユイくん?」
首を傾げるマナの頬にユイはそっと手を添えて、いつもの感情の読めない無表情で言った。
「マナ、面倒事は、起こさないようにしろよ」
それだけを言うと答えを待たず、ユイはそのまま立ち去ってしまった。
マナはそんなユイの背中を見つめ、今の言葉を反芻した。
今のは、マナが男に手を出さないように釘を刺しているよう――ではなかった。
面倒事は起こすな。それはつまり、面倒にならないように――ヤれ。ということではないのだろうか。
もちろんそれはマナの思い違いかもしれない。すぐに手を出してしまって何度も諭されてきたマナだから、今回も下手なことをしないように注意されているだけ、なのかもしれない。
ユイの気持ちが分からないなんて、ものすごくもどかしい。ユイは以前から淡白すぎて、あまりに感情が読み取りづらい。今日だってずっと、ユイは表情と言えるほど口端も歪ませも目尻も緩ませもしていない。ユイのことを知らなければ、無感情に淡々とマナと会話をしているようにも見えただろう。
しかし最近はユイの考えていることは分かるようになってきたという自信がある。ユイは表情を変えていないようで、わずかながら醸し出す雰囲気が柔らかかったり硬かったりするので、それを見ればユイの心情を察することが出来る。
マナを愛してくれているということに関しては、絶対、間違いなく、疑いようもない事実ではあるが、細かい部分は不本意ながら分からなかったりもする。
本当なら今すぐ問い詰めたかった。あいつ、殺しちゃってもいいよね、と。
いつもならそうしている。分からないことは全部言葉にすれば、2人の間に嘘なんて存在しないからそれは絶対に真実。
だけど今回ばかりは、そうするわけにはいかない。あの男を殺してやろうと思っていることを、証拠になり得るものは残すわけにはいかない。言葉にしてしまえばどこで誰が聞いているか分からない。
なにより、ユイにわずかでも関係をもたせるわけにはいかない。あくまでマナの独断だからこそ、動機不明にすることができるのだから。
少しだけ悩んで、すぐに落ち着く。
――殺す。
その考えは揺るがない。ならそれでいい。
この身も心も人生も、ユイの為のもの。だからユイの為に動く。それでいい。
そうして残りの1時間もユイを眺めることで消費して、結果としてもうひとつ目的も果たせたマナは、一番の目的であったユイと一緒に帰宅も果たし、いちゃいちゃと家路に着いたのであった。




