決断の夜
苦悩する主人公
よくあるやつ
楓が帰った後、気づいたら消灯の時間のようで看護士に部屋の電気を消されてしまった
晩御飯を食べた記憶すらない程考え込んでしまっていたようだ
首を動かして窓に目を向けると、真っ暗な室内をカーテンの隙間から射す月明かりがぼんやりと照らしている
カーテンに隠れた月を見ることさえできないもどかしさに天井を見上げ目を瞑る
こうして身体が動かせず思考する時間が増えると数多くの〝もし"を考えてしまう
もし、この暗闇で何かに襲われたら
もし、僕に疲れた楓に見捨てられたら
もし、あの時に轢かれそうな女の子を見殺しにしていたら
そんな嫌悪感を抱く考えをしている自分を嫌になる、その繰り返しを毎日してしまう
今も、このまま楓にしがみつきながら生きていいのだろうかと、自問自答を繰り返している
答えを出しては否定して、また出しては否定する
終わりのない答えを出そうとしていると、ふとドアの向こうに人の気配を感じた
室内にかすかに聞こえるくらいのノック音の後、誰かが一人入ってきた
「こんばんわ白附さん、まだ起きていらっしゃいますか?」
声を潜めて話しかけてきたのは中肉中背の男性
普通ならば怪しくて警戒するところだが、声を聞いた僕はいたって落ち着いた状態で返事を返した
「はい、こんな時間にどうしたんですか先生?」
近づいてきた男性が月明かりに照らされその容姿が露になる
きれいにセットされた天然パーマの短い髪の毛に黒縁の眼鏡、新品の様な真っ白な白衣の下にはくたびれたワイシャツとネクタイが顔を覗かせている
そして首からさげたホルダーには『院長 師堂 誠一』の文字が書かれたカードが入っている
三十代前半という年齢で院長を勤めあげ、数多くの革命的な論文で功績を称えらた天才医師、と雑誌や新聞に書いてあった
マスコミに取り上げられ騒ぎ立てられているので盛りすぎている感は拭えないが、技術は本物だ
瀕死で運ばれてきた僕を他の医師は匙を投げ諦める中、師堂先生だけが引き受け、彼がいなかったら助からなかったと口の軽い看護師から教えて貰った
その命の恩人がこんな時間に何をしにきたのだろうかと疑問が浮かぶ
「お話をさせて頂ければと思いまして、夜中に突然の訪問でご迷惑でしたよね」
「目が冴えていたので気にしないで下さい。
それで何のお話でしょうか」
失礼します、といって昼間に楓が座っていた椅子に腰掛けると神妙な面持ちで話を切り出した
「白附さん、歩ける身体になりたくはありませんか?」
院長は何を言っているのだろうか?
しばらく時間が止まっていたようにさえ思える間をおいた後、それでも理解できない問いに対して疑問を口にする
「……あまりに突然すぎて、どういう事ですか」
「驚かせてしまって申し訳ありません。
手術後にもう治る事はないとお話したのは覚えていますよね」
「あれは嘘だったんですか」
混乱してる頭で考えても嫌な考えばかりが浮かんでしまい、思わず院長を睨みつけて唯一動く左手に力が入る
そんな僕を見ても院長は冷静に首を横に振って答える
「嘘ではありません。
従来の医療では不可能な事に変わりはありません」
「じゃあ一体どういう―」
「従来の医療では不可能なんです」
僕の言葉を遮るように強く放たれた院長の勿体ぶる言い回しに怒りを覚えつつも、どこか自信を含んでいる声に耳を傾けずにはいられなかった
そこに先程の僕達の声を聞きつけたのであろう看護師が扉を開けて入ってきた
「白附さんどうしましたか?……あ、師堂院長お疲れ様です」
急いで駆けつけて来てくれた看護師は院長を目にすると不思議そうな顔をしていた
「お疲れ様山本さん、大きな声を出してしまって悪いね。
ついでになってすまないが車椅子と膝掛けを持ってくれるかな?」
ハテナマークが頭の上に浮かんで何か言いたそうな表情をしていたが、わかりましたと言って出て行く山本さんと呼ばれた看護婦を横目に院長は話を続ける
「少し熱いですね。外でお話しましょうか」
その時の僕は、貼り付けただけに見える不気味な笑顔の院長を見つめながら迷っていた
そこで気づいて引き返せば僕にも別の道があったのかもしれない
夜の冷たさが火照った身体と頭を静めてくれる
外に出たのは事故以来初めてだったのだが、こんなにも気持ちがいいとは思わなかった
以前ならなんとも思わなかった頬を撫でる夜風、揺れてざわめく木々、遠くに聞こえる街の歓声が心地いい
もしかしたら一生感じる事のなかった気持ちなのかもしれないと思ってしまう程だ
だが、今はそんな感傷に浸っている場面ではない
頭の中を切り替えて意識を車椅子を押している院長へと向ける
先程まで話していたのに病院を出てから一切会話がなくなった
いや、なくなったというよりも院長からなんだか話しかけにくい雰囲気を感じる
先に話を切り出しては主導権を握られてしまいそうで喋らず黙っていると、ついに院長が口を開いた
「風が少し冷たいけど寒くないですか?」
違う! そうじゃない! 若干の苛立ちを覚えつつも平静を装って返答する
「大丈夫です。
それよりここには散歩をしにきたんですか?」
嫌味を込めつつ我慢できなかったので先程の病室での会話の続きを遠まわしに要求する
しばらく返事はなかったが、病院の隣にある公園のベンチの横に車椅子をつけるとその隣に院長は腰を下ろし口を開いた
「白附さんは当たり前だったものがなくなってどんな気持ちになりましたか?」
あまりにも先程の話の続きをしないので、先程の病室での会話は僕が変な気を起こさないようにする為のありもしない嘘だったのでは、と疑念を持ち
希望を感じてしまった自分が馬鹿みたいに思えてきて気を張る力が抜けていった
「そうですね、失ってはじめて大事なものだったんだなって気づきました」
気の抜けたやる気のない答えにも関わらずなぜか院長は悲しそうな表情で足元に目を落とし聞いている
だが、すぐにこちらに向き直ると先程の悲しい表情を感じさせない笑顔で再び口を開いた
「すみません、少し昔を思い出してしまって、関係の無い話をしてすみませんでした。
ここからは大切なお話をしましょう」
悲しそうな顔の面影は微塵もなく、また偽者の笑顔を貼り付けた院長は周りに人がいないことを確認するとこう言い放つ
「私には白附さんのお身体を治す手段があります。
それは私がこの病院内で作成された治験薬を使用して頂くことです
治療費は不要、むしろこちらからそれなりの気持ちもご用意させて貰います」
病院内で作成された治験薬、つまり―
「聞こえの良い言葉使ってますけど、それって…」
院長は目を逸らすことなく言葉を続ける
「…私はこの方法で過去十七人の患者を救いました。
助けた患者は皆、不運にも人生に躓いてしまった方達、悔いを残して終えるよりも、罪を背負ってでもまたやり直したい。
生きたいと心から願った方達でした」
そっと僕の手を握る院長の手は暖かく、冷えてきた身体に説得力が熱となって伝わってくる
「白附さんからも強い意志を感じて今回お話をさせて頂きました。
誰にでも安易に提案している訳ではありません。
どうか悔いのない決断をして下さい」
このままの状態だと必ず楓の負担になってしまう
だが、この提案を呑んでしまえば、成功したとしても一生付いて回る罪となる
どうするのが正解なのだろうか、分からない―
長く沈黙して迷う僕に、いつの間にか後ろに回っていた院長が耳元で呟く
「妹さんを喜ばせてあげませんか?」
もし、失敗して僕が死んでも楓は悲しむが負担はなくなる
成功してまた抱きしめてあげられるようになれば、きっと喜んでくれる
院長の一言で、受けない、という選択肢はなくなった
「…よろしくお願いします」
後ろにいる院長の顔は見えないが、また偽者の笑顔で笑っていることだろう
悪意の笑顔か善意の笑顔かは分からないが、今の僕にはすがりつく事しかできない
「それでは明日の夜から別病棟に移動することになります。
一ヶ月程度は表に出て来れませんので周りの方達へ挨拶を済ませておいて下さい。
くれぐれも内容については御内密に」
夜風の冷たさか、見えない恐怖からなのか、僕の身体は震えていた
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