事故の後
妹紹介パート
“奇跡”
軽々しく使っては特別が失われてしまう言葉だが、今だけは道端の石ころのようにぞんざいに扱おう
もし奇跡に可否できるのであれば、奇跡を拒みたい
もし奇跡を神様が起こしているのならば、神様をぶっ飛ばしたい
奇跡に“いいもの”と“そうでないもの”があるなんて考えた事もなかったのだから
一命を取り留めることができたが払った代償はとても大きかった
数十箇所の骨折と裂傷、内臓の破裂、さらに頚椎損傷により下半身は完全麻痺で動かず、右半身も麻痺していて物を持つことはおろか字を書くことすらままならない状態
医者はこれを“奇跡”と言った
教師の道は断たれ日常生活すら満足にできない
これから先のことを考えると、頭の中で嫌な考えが泉のように湧き出てくる
生徒達、仕事、生活、金、そしてなにより妹の楓をどうするか
ろくに動けず、考え込むだけの一日を何度も過ごし精神的をすり減らす毎日を送っていた
事故から目を覚ましてから三週間程たった日の夕方、個室のドアからコンコンと控え目なノック音がした
扉が開いて学校帰りであろう制服姿の少女が入ってくる
暗髪カラーのショートボブが心なしか乱れていて前髪も汗で額にくっ付いている
呼吸も少し乱れていてここまで急いできたのだろうと予想できた
良く見知った顔の少女は上気した頬を緩ませ微笑みながら喋り掛けてくる
「部活でちょっと遅くなっちゃった」
「無理しなくていいのに、ありがとう楓」
白附 楓、たった一人の家族
思春期だったのか学校でも家でもつれない事が多かった楓も事故が起きてからは優しくなり、以来毎日お見舞いに来てくれる
心配、哀れみ、同情、どの様な感情で接してくれているかは分からないが、何であろうと今の僕には楓が唯一の救いだ
楓は室内に慣れた動きで入ってくるとベットの横の椅子に腰掛けて今日の出来事を楽しそうに話し始める
通学路にいる犬が可愛いとか昨日の晩御飯にシチューを作って食べたとか、他愛ない話を続けている時間は本当に楽しくて時間を忘れそうになる
「橘先生が兄さんは鋼のメンタルだから大丈夫だって笑ってたよ、メンタルとかの問題じゃないっての!」
「あいつめ、…今度あったらご飯でも奢らせるか、回らない寿司とか」
どうやら僕の高校からの同級生で同僚の橘 誠人も楓を心配させないようにしてくれているみたいだ
あはは、と笑っている楓をみると胸の奥がズキズキと痛む
言いたくないがそれでも口に出さないといけない、覚悟を決めて胸の痛みを言葉に変える
「そういえば楓、この前の話ちゃんと考えてるか?」
「…うん……考えてるよ」
目を逸らし俯く楓は先程までの楽しげな笑顔を消して悲しい表情をしている
先日、楓をこのまま一人にしておくわけにはいかないので、親戚に連絡して引き取ってもらえる所がないか探し、遠く離れた親戚からいい返事を貰うことができたのだ
楓には急で悪いがここを離れて僕に縛られず自由に生きて欲しいと思っている
だが、当の本人はいい顔をせず、いつも返事をうやむやにして流してしまう
それでも今日はなんとか納得させようと少し強めの口調で会話を続けた
「分かってくれよ、楓の大事な人生を棒に振らない為なんだよ」
「……兄さんはどうするの」
「この体のおかげでお金もあるし一人で生きていくだけなら問題ない。
むしろ楓がいると色々と面倒なんだ」
精一杯の強がりで楓を突き放そうと自分で自分を嫌悪する醜い言葉をぶつける
黙る楓に胸がどんどん締め付けられ吐き気もするが構わず続けた
「父さんと母さんが死んで残ったお前と暮らすことになった時、どれだけ迷惑だったか、
とんでもないもん残してくれたなって」
―本当は楓が無事で嬉しかった
「………ぶ」
「毎日やってきては学校での出来事とかクラスの皆が心配してるとか、一人でも生活できてるとかくだらない話ばかり」
―楓との会話が僕の唯一の救いだ
「だ……ぶ」
「いい加減気づいてくれよ! 楓がいると邪魔なんだよ!」
― 一人にしないでくれ
嘘で固めた本音が決して聞こえないように、心ない最低の言葉で最悪の傷をつけた
でも、これできっと僕を捨てて前に進んでくれる
そうなると思ったのは、楓の事をまだ子供だと思っていたからだろう
僕の考えは甘かったのだ
無理矢理聞かせるのではなく、真正面から向き合って話していたら結果は変わっていたかもしれない
嫌われてもいいからと必死で吐き出した言葉の暴力を、楓はたやすく包み込んでみせた
「大丈夫」
大丈夫の一言で
微笑みながら真っ直ぐに見つめてくる瞳で
頬を伝い零れ落ちる涙で
僕は心の中を見透かされたことに安心してしまった
「家でも学校でもずっと一緒に過ごしてきたから分かるよ。
兄さんは絶対そんなこと言わないし、いつも大事にしてくれてる」
否定しなければいけないのに言葉が出せない
口を開けば自分の弱さがきっと漏れ出してしまう
楓はそんな僕をここぞとばかりに攻め立てる
「熱を出して倒れた時はずっとそばに居て看病してくれた、毎日朝早くからお弁当も作ってくれた。
いくら嫌がっても必ず遠くで見守ってて、お願いしたらなんでも聞いちゃう甘々の兄さんなら、
私の為に嫌われてもいいからってどんな酷いことだって言える」
もう楓の顔には涙も迷いもなく、自分の中で答えを出していた
「私、決めたよ。
何処にも行かないし今まで通りなにも変わらない。
だから、もう無理しなくていいんだよ」
絶対に受け入れてはいけない、振り払わないといけない楓の言葉に対して無言の肯定を返してしまう
僕は思っていたより限界だったのかと思いながら、抱きしめてくれる楓の胸の中で静かに泣いた
楓はしばらく抱きしめてくれた後、自身の行動を思い返たのか、はいっ!終わりっ!と言って席を立つと出入り口に向かって早足で歩いていく
「き、今日はもう帰るから。
私は言いたかったこと全部伝えたんだから、明日は兄さんの気持ちを聞かせてね」
まだ少し恥ずかしそうな笑顔で出て行く楓を見送った後、このまま楓の負担となって生きていくか、一人で寂しく生きていくか、自分がどうしたいのか考えながら答えのない自問自答にひたすら悩み続けた
しかしその日の夜、僕は答え出すよりも先に大きな決断を強いられることになる
僕が僕でなくなった
後悔しかない決断だ
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