男装令嬢の秘密の結婚
ルーテシアは女である。
たとえ、その姿が麗しい紳士にしか見えず、社交界でも男として振る舞っていようと、ルーテシアは心も体も正真正銘女なのである。
それなのに……。
(ああ、どうしてこんなことになってしまったのかしら?)
ルーテシアは目の前で「病める時も健やかなる時も……」と結婚式で定番の誓いの言葉を口にしている、頭のハゲが発光してなかなかに眩しい思いをさせる神父様を前にして思う。
ルーテシアは今タキシードを身に纏い、その隣には……
「誓います」
その声は隣から聞こえる。決して高くはないが可愛らしい声。ルーテシアがちらりと視線を向ければそこには愛らしい少女の姿がある。
太陽の光を集めた金の髪に、淡い翠の瞳。そんな少女は純白のドレスを身に纏っている。
どこからどう見ても花嫁さんである。
誰の花嫁さんか?それはもちろその横に並ぶ……ルーテシアの花嫁さんである。
ああ、どうしてこんなことになってしまったのか。ルーテシアは死んだ目で過去を思い出していた。
●○●○●
始まりは失恋からだった。
ルーテシアの両親は美男美女で、そこから生まれてきたルーテシアも彼等の美貌を引き継いでいた。
しかしながら、かなり父親の血が濃かったのか、その見た目は美女ではなく、美男。身長も男性の平均身長ほどはある。
しかし、見た目は男だろうと、ルーテシアは女である。だから、当然黒い髪を伸ばし、ドレスを着ていた。……あの事件までは。
それはルーテシアが社交界デビューする一年前……十一の時である。
ルーテシアには仲の良い男の子がいた。同い年で同じ男爵家で、お互いの領地も近い。幼馴染みの彼にルーテシアは恋をしていた。
そうしてルーテシアは彼に告白をした。すると、彼は目を丸くして、そうして少し馬鹿にしたように笑いながら言った。
「俺、男みたいな奴をそういう対象で見れないから」
そうしてルーテシアは振られた。ドレスを着て綺麗に着飾っていたと言うのに男みたいな奴と言われて。
ルーテシアは美しい。しかし、そのドレス姿にはどこか違和感がある。そう、似合っているのだが、どこか違う……違和感が拭えないのだ。
ならば、男みたいな自分は男の格好をすれば良いのか?と自棄になり、自室で鏡に向かい合えば……違和感はこれまた見事に消えていた。違和感が消えたどころではない。そこには完璧な誰もが振り向く殿方がいた。
その日からルーテシアは男として毎日を過ごすようになった。
女の子の姿をすると幼馴染みの彼の馬鹿にするような顔がチラついてしまうのだ。しかし、男の子の姿なら誰もルーテシアを笑わない。それどころか憧れの眼差しで見てくる。
幸いルーテシアは社交界デビュー前であり、男爵家と言ってもド田舎の領地を治めていたため、そこまでルーテシアを見たことがある人はいなかった。
占い師にデビュー前まで女の子として過ごさなければルーテシアは死ぬとかなんとか言われたと嘘をでっち上げて、ルーテシアは本当に女であるにも関わらず、男として過ごすようになった。
少しは疑う人が出ると思ったのだが、ルーテシアの男装はあまりにも完璧で、誰も疑わなかった。幼馴染みすら、「そうだと思っていたんだよ、お前が女の訳ないよな!」とのたまりやがった。
その後ルーテシアは社交界デビューを名前を偽り、ルートという男として果たした。その美貌から女の子達からは憧れの眼差しを向けられる存在となった。
しかし。しかしである。ルーテシアは男として過ごしているけれど、女なのである。
胸は本当に僅かな膨らみしかないが、それでも、ルーテシアの体は間違いなく女のものなのである。
結婚したって女の子とは子供なんて作れない。
それなのに父親は女の子とルーテシアを婚約させてきた。
彼女の名前はクロエ。伯爵家の三女。年はルーテシアよりも一つ下で十六。
クロエは社交界でも有名になるほど可愛らしい令嬢だ。
緩くカーブのかかった蜂蜜色の髪に、淡い翠の瞳。身長は低くはなく、わりと長身の方であるのにその愛らしい顔立ちと、ほんわかとした雰囲気から守ってあげたくなるような女の子だ。
ルーテシアと並べばそれはそれは絵になる。他人から見ればお似合いの二人だろう。
しかし、見た目はお似合いだろうと、無理なものは無理なのである。女と女では子供を作ることは不可能だ。
そう当たり前のことをルーテシアは何度も父親に訴えた。しかし、父親は大丈夫だ、と何を根拠にしたのかわからない言葉を吐き、この婚約を強行し、遂には結婚式まで迎えてしまったのである。
●○●○●
「ねえ、私はいったいどうすればいいのかしら?」
ルーテシアは浴室でメイドに問いかけた。問われたメイドはそうですねぇと呑気な声で答えた。
「とりあえず綺麗に体を洗っておきましょうか」
「そういう話ではなく」
少し天然の入ったメイドにルーテシアは、はあとため息をついた。
彼女はルーテシアにずっと仕えているメイドだ。代々彼女の家系はルーテシアの家に仕えているため、同年代の彼女とは幼い頃からの仲でもある。
そんな彼女はもちろんルーテシアが女であることは知っていた。
「ですが、お嬢様。汚れていると相手の方が、ガッカリしてしまうでしょう?」
「汚れよりも大きな問題があるのよ、アリシア」
そう。大きな問題が。
結婚式が終わり、クロエの家が用意してくれた新居にルーテシアとクロエはやって来た。
結婚式後の二人。初めての二人の夜。
「もう、どうすればいいのよぉ……」
ルーテシアは女だ。たとえ、見た目は男でも、服を脱げばさすがにバレる。女の子として無ければならないものは少しはあるが、男として無ければならないものは少しもないのである。
「どうすると言われましてもねえ。性別など今さら変えられませんし」
「あああ、お母様のお腹の中からやり直したい……」
無理。本当に無理。どうやったって無理。
バレる。バレない訳がない。
何が大丈夫だあのくそ親父。何をもって大丈夫なのか。説明してみてほしい。
「しかもクロエの家は伯爵家よ?私達みたいな田舎の貴族、男爵家の中でも下から数えた方が早い家とは違って、立派な伯爵家よ。もし、これでクロエが騙されたと実家に泣きつけば……我が家は終わりよ」
確実に潰される。プチっと簡単に。
その言葉にアリシアはまあ、と目を見開いた。ようやく事の重大さをわかってくれたか、とルーテシアは思ったが……
「そうしたら私再就職はどこにすればいいでしょうか?パティシエに憧れてるんですよねぇ」
と呑気なアリシアの言葉に、家が潰れることは案外重大なことじゃないのかも、と思い始めた。
●○●○●
「いや。やっぱり大問題よね」
ルーテシアはクロエのいる寝室の前に立ち、我に帰った。
家が潰れるのがあんな軽いノリのはずがない。アリシアの呑気さに感化され過ぎてしまった。
「どうすればいいのよ……」
どうする?もう後には引けない。もう結婚してしまったのだから。
初夜なのに寝室に行かなかった、なんてのも駄目だ。それこそクロエに実家に泣きつかれてしまう。
「よし……!」
ルーテシアは覚悟を決めた。
後には引けないのだ。行くしかない。
クロエはお嬢様だ。初夜のなんたるかはぼんやりとはわかっているだろうが、詳しくは聞いていないはず。きっと、殿方にお任せすれば良いのよ、とか言われているに決まっている。
ならば誤魔化しも効くはずだ。そういう経験がないのだから、詳細を知らないはず。ルーテシアが初めての相手なのだ。つまり、最初にルーテシアがした行為こそが、クロエの中の基準となる。
問題を先伸ばしにするだけだ?子供はどうする?
そんなの後で考えればいい。今の自分と未来の自分とは関係がない。未来の自分頑張れ!
そうしてルーテシアは扉を開けた。
部屋には緊張した顔のクロエが立っている。その顔は青い。
ルーテシアは内心かなり焦りながらも余裕たっぷりの笑みをクロエに向けて、手を取る。
「大丈夫。心配ないよ」
その言葉にクロエは青い顔のまま、こくり、と頷いた。そうして、ルーテシアはクロエをベッドにつれて行った。
本当は緊張を解すため、待つべきなのかもしれない。しかし、そんな余裕は残念ながらルーテシアにはない。
リラックスされては困るのだ。混乱のうちに事を終えて、うやむやにしなければ。
ルーテシアはクロエを押し倒す。そっと、顔を近づけて……口付ける。
クロエはそれに一瞬目を見開いて、そうして瞼を落とした。
よし。いい感じである。そのまま目をずっと閉じていていただきたい。
キスなんてルーテシアは初めての行為だった。ファーストキスはもちろんルーテシアも女の子であるから憧れはする。しかし、相手が女の子であるため、とくにこれと言った感動はない。そもそも、ときめいている余裕もない。
よし、次の段階へ……と思ったがここで緊急事態が発生した。
(えっと……?ここからどうしたらいいの?)
ルーテシアは何度も言うが女の子である。外では男として扱われているが、家では女の子として扱われている。
つまり、そういった夜の勉強も女の子用な訳で……。ルーテシアもまた、後は殿方に任せなさいスタイルで教えられていた。
(ど、どうするべきっ!?えっ!?ふ、服を脱がせればいいのっ!?)
ルーテシアは焦った。焦りに焦った。しかし、それでもなんとかなけなしの知識を総動員させて……クロエの服を脱がせ始める。
「っ!やっ!」
「……えぇ?!」
クロエに手をはね除けられた。え。やっ?!って何?!なんか間違えた?!ルーテシアは動揺して、硬直した。
その間にクロエはモゾモゾとルーテシアの下から這い出して……そうして向かい合うように座った。
その目は涙目で顔も青い。
やっぱり何か間違えたのかもしれない。どうしよう……とルーテシアが動けず、そのままでいると……
「本当にごめんなさい!!!」
とベッドの上でクロエが土下座した。
「……は?」
ルーテシアは訳がわからず、そう間抜けな声を漏らした
なんだ?何がごめんなんだ?むしろ謝罪したいのはこちらである。こちらには後ろめたいことがあるが、まさか、クロエも何か後ろめたいことがあるのだろうか。
いや、しかしそんな悩みは可愛いものだろう。だって、ルーテシアなんて性別を偽り、まさかの結婚まで果たしたのである。
クロエの懺悔など広い心で許せる。というかむしろこちらが許してくださいである。
「いったいどうしたのかな?」
ルーテシアは先程までの動揺を隠して、優しくそうクロエに問いかけた。
それにクロエは涙を溜めながら、実は……と口にした。
「私……ルート様に嘘をついていたことがあるんです……」
「嘘?」
奇遇だね。実は私もなんだよ。とは言いたいが言えない。ルーテシアが女である事実はトップレベルの嘘である。そう簡単に打ち明けて良い話ではないのだ。
「嘘とは何かな?大丈夫。怒らないから、言ってみてごらん」
怒らないから言ってみなさい。それはルーテシアが何度も母に言われてきた言葉だ。しかし、それらは基本的に嘘で、いつだって正直に言えば怒られる。
だが、今回のルーテシアの言葉は嘘ではない。というか、怒る資格などルーテシアにはないし、ルーテシア以上の嘘もないと思う。
ルーテシアの優しげな言葉に、クロエは少し躊躇いながらも覚悟を決めたのだろう。ゆっくりと下に落としていた視線を上げて、そして……
「私……私……」
「うん。君がどうしたんだ?」
「私……実は」
「うん」
「男なんです……!」
「……は?」
聞き間違いだろうか?今、クロエはなんと言った。
自分が……男だとか言わなかったか?
ルーテシアは目を見開いて、クロエを見る。不安そうに体を震わせて、潤んだ瞳でこちらを見るその姿は女の子そのもの。
「はっ。ははは……、な、何を言ってるんだ、クロエ」
もしや彼女は冗談を言っているのでは。いや、そうに決まってる。いやあ、全く結婚するまで気づかなかったが、お茶目なところもあるんだなあ!
そう思って引きつりながらも笑えば、違うんです……!と手を取られた。
「本当に……僕は男なんです!」
クロエの一人称まで変わった。取られた手がよく見れば骨ばっていて、ルーテシアより身長が少し低いというのに、手がルーテシアよりも大きかった。
まさか……?と思い首を見れば……女の子にしては大きすぎる膨らみ。
「ほ、本当に……?」
「本当です!ごめんなさい!!本当の名前はロイって言って、クロエは母が女の子だったらつけたかった名前で!それでえっと!その本当にごめんなさい!!結婚までしちゃって!僕……男なのに……!」
「そ、そんな……」
信じられない。信じられないがそのクロエ……いや、ロイでいいのか?……の動揺ぶりは凄まじく、嘘をついているようには見えない。
ルーテシアは動揺した。しかし、どうしてかその時、頭の中で父の声がする。
『大丈夫。大丈夫。ルーテシアは心配性だなあ』
そう言って結婚なんて無理だと言ったルーテシアを軽くあしらった父。つまり、彼はこのことを知っていた訳だ。だから、大丈夫だよと軽く言えたのである。
ルーテシアはふるふると震えた。それにロイはビクリと体を震わせるが、ルーテシアに構っている暇はない。
「あんの、くそ親父いいいいいいいい!!!」
ルーテシアは全力で叫んだ。
●○●○●
ルーテシアの叫びに萎縮してしまったロイをルーテシアはなんとか宥め、ルーテシアとロイはお互いベッドの上で向き合った。
「あ、あの、僕、本当に……」
「落ち着いてください、クロエ……いえ、ロイ。大丈夫。私は大体事態が飲め込めました」
「え、あの……」
ロイは困惑したようにルーテシアを見た。それはルーテシアが口調を変えて、一人称を変えたからだろう。
「安心してください。私は別にあなたを責めるつもりはありません。むしろ、そんな資格は私にはありません」
「そんなっ!悪いのは全部僕なんですっ!」
「いいえ、違います。いえ、全くあなたが悪くないということではないのでしょう。しかし、それはお互い様というものでして……」
「お互い様……?それはいったいどういう……?」
「つまりはですね、ロイ。私もまた……性別を偽っていたのです」
「……は?」
「私、女なんです。実は。名前もルートではなくルーテシアと言います」
「……へ?」
その言葉にロイは目を真ん丸くさせる。そうして、視線は確かめるようにルーテシアの胸元へ行き……眉をしかめた。思案している様子だ。その話が本当か真偽を確かめようとしているのだろう。
が、しかしそこにはぱっと見でわかるような膨らみは残念ながら、ない。
悲しい話であるが、それくらいにルーテシアは貧乳だった。
流れる沈黙。ルーテシアは焦れったくなって、ロイの手を取った。そうしてぐいっ!と勢い良くその手を胸元に押し付けた。
「っ!?」
かっ!とロイの顔が赤く染まる。その表情からルーテシアの微かな膨らみを感じ取れたのだと察した。
「うわああ!?」
ロイは慌てて手を振り解き、後ろに後退った。
「な、な、な!何をしてるんですか!」
「に私が女の子だって信じてもらおうと思いまして……で、どうでしたか?」
「ど!どうって……!!」
その顔はもうトマトのように赤く。瞳は涙で潤んでいた。その姿はあまりにも扇情的で、純粋な女の子にしか見えない。
(女である私でさえ、こう、なんというか、むらっと来るわ……)
別に女の子を好きになったことはないが、そんなルーテシアでさえもくらっとさせるのだから、ロイの色香は相当のものである。
小さく震えるロイ。そんなロイを変な気分になりながらルーテシアが見ていると……ロイがぽつりと言った。
「……や、柔らかかった、です」
「……は?」
柔らかい?何が?
ルーテシアは戸惑った。いったいロイは何を言っているのか。
「だ、だから!柔らかかったです!どうって聞いたでしょう?!」
「……」
確かに聞いた。しかし、それは別に感想を求めた訳ではなく。
「私は、これでわかったでしょうという意味で聞いたのですが……」
「……へ」
ぼん!とロイから幻の湯気が出た気がした。
ロイは恥ずかしいのか、枕で顔を隠してしまう。乙女か。
「そ、それなら……!そうとちゃんと言ってください!!!」
「ご、ごめんなさい」
突然怒られて、ルーテシアは反射的に謝った。が、勝手に勘違いしたのはロイである。
もう!もう!とぷんぷん怒るその姿はまさしく女の子。……だが、ロイは男なのだ。
そう実はロイは男で、ルーテシアは女だった。つまりはこの日において問題は解決されたということだ。
「あの、それで、これからどうしましょうか……?」
ルーテシアはそっと聞く。するとロイが枕から目だけを出して、言った。
「これから?」
ルーテシアはこくりと頷く。
ルーテシアとロイは今日夫婦となった。普通ならここで初夜を迎える訳で、そんな初夜には普通するべきことがあるのである。
だが、それを口に出すのは恥ずかしい。だから、ルーテシアは遠回しに言った。
「あの、ですから、私達は今日夫婦になった訳ですよね……?その、性別をお互い偽ってはいましたけれど、お互いだった訳ですから今日においては問題は無くなった訳で……」
しどろもどろに、それとなく言うルーテシア。しかし、ロイは感付けなかったようだ。
「つまりどういうことですか?」
「ええと、だから……」
(ええい!ルーテシア!女は度胸よ!)
例えここ最近女として過ごしてなかったとしても、ここは根性を見せるべき場所だ。
「その、初夜どうします?ってことです……」
「しょっ!?」
今日何度目かの煙がロイから上がった。
(恥ずかしいのはこちらだわ!)
ルーテシアは顔を赤く染める。恥ずかしくて、視線を下に下げた。
男を演じている時ならもっとスマートに言えたのかもしれない。しかし、今は女としてここにいる。ルーテシアとして、それを口に出すのは、とても恥ずかしかった。
二人の間に気まずい沈黙が満ちる。口を開くこともできず、かと言ってこのままと言う訳にもいかない。
「その……」
口を開いたのはロイだった。
「あなたさえ、良ければ……」
ルーテシアはそっと視線を上げた。すると、潤んだ、しかし真っ直ぐな翠の瞳が絡む。
「僕の、妻になってくれますか……?」
たぶん今ルーテシアはプロポーズ紛いのことをされている。結婚してからプロポーズなんて可笑しな話だ。しかし、その真剣な瞳のせいで笑うことはできない。
「……夫ではなく、妻ですか?」
ルーテシアは軽くパニックを起こしていた。色々あってこの告白だ。誰かにこんなことを言われたことはなかったから。だから、素っ頓狂な言葉が口からこぼれた。
すると少しロイがむすっとした顔をした。
そうして急に腕を引かれた。
その力は強く、ルーテシアは簡単にロイに引き寄せられ、前屈みの状態にされてしまう。
驚いて顔を上げる。すると、翠の瞳が視界いっぱいに広がり……唇を塞がれた。
さっきルーテシアがしたキスよりもずっと深くて上手い。後は殿方に任せればいいのと言われている令嬢とは異なり、方法を弁えている。
唇が離れる。濡れた唇が弧を描く。
「僕は男ですから。あなたは妻で良いんです」
そうしてロイはそっとルーテシアを後ろに押し倒し、ルーテシアは言葉の代わりにそっと力を抜いた。
●○●○●
朝、自然と目が覚める。
体には倦怠感。微かな痛み。寝起きのぼんやりした頭でルーテシアはこの体の異常の正体を考え……はっ!と目を見開いた。
目の前には可愛い少女にしか見えない寝顔。すぅすぅと穏やかな寝息。ルーテシアはその顔を見て……赤く頬を染めた。
その姿は青年が顔を染めているという傍目には若干気持ち悪い光景なのだが、ルーテシアの心は立派な乙女。……いや、もう乙女ではないのか。
ルーテシアは恥ずかしくて恥ずかしくて両手で顔を覆った。
恥ずかしい。恥ずかしい。昨日はいろいろあったが総合して恥ずかしい。
ロイは見た目は女の子だったが、立派に男の子だった。そうしてルーテシアもまた然り。
(ああ、まさかクロエが男だったなんて……!)
結果オーライの事実。しかし、驚きは消せない。今でも隣に眠るこの人が男だったなんて信じられないくらいに驚きだ。
(もう!それだったら最初から言ってほしかったわ!)
ロイが男だと知っていたらここまで気苦労も胃の痛みも感じなかったのに。……そう言ってくれていたのなら。
ふと頭の中に父親の姿が浮かぶ。全然少しも大丈夫ではないのに大丈夫だよと気軽に言った父。
そう。知っていたのだ。父は、この事実を。
それを黙っていたのはきっとこっちがあたふたするのを見て楽しむため。
そう考えるとルーテシアの中で怒りが沸いて……爆発した。
「あの!くそ親父いいいいいい!!!」
「ふわぁ?!」
ルーテシアが叫んだ瞬間隣で寝ていたロイが飛び起き、きょとんとした顔でこちらを見た。
●○●○●
「お父様っ!!」
ルーテシアはあの後すぐに仕度を済ませ、父の元へと向かった。ロイも慌ててルーテシアの後をついて来た。
ルーテシアもロイも普段通り、偽った性別の姿の服を纏っている。
お互いが本当の性別を知っていても、他人に知られるのは不味い。ただでさえとんでもないスキャンダルなのに、ルーテシアもロイも社交界では憧れの的であるから、バレればただのスキャンダルどころではないだろう。
屋敷へと来るのを父は想像していたようで、どうしたんだ?と驚くこともなく、それどころか、にやにやした顔でルーテシアを出迎える。
「な?言っただろう?ルーテシア」
「お父様っ!」
その顔があまりにもにやにやしていて、ルーテシアは吠えるように父を呼んだ。後ろではロイがおろおろしつつもルーテシアを宥めようとしていたが、ルーテシアの怒りは止まらない。
「まあまあ怒るな。結局上手くいったんだろう?」
その笑みはあまりにも下卑た笑みで。確かにその通りだが、釈然としない。
「上手くいったとか、いかなかったとかは、今はどうでも良いのです!」
「なんだ、上手くいかなかったのか?」
その問いはルーテシアではなく、ロイに向けられていた。ロイは突然会話を振ことにきょとんとした後……頬を染めてぽつりと言った。
「上手く……いきました……」
「ロイ!」
父を喜ばせるような反応を見せてどうするのか!
父は先程よりもにやにやにやにやし始めた。
「いやいや。それは何より。お父様はキューピッドになっちゃったなあ」
「調子に乗らないでください!私は!お父様が最初に事情を説明してくれなかったことを怒っているのです!!」
「えーだって絶対そっちの方が面白いだろう?」
その言葉にルーテシアの怒りは爆発した。
●○●○●
ルーテシアは帰りの馬車でぷんすかぷんすか怒っていた。
向かいの席では苦笑しているロイの姿がある。
「面白いお義父様ですね……」
「面白い?!あれのどこが!!?本当に傍迷惑な方なんですから!!」
「はは……。少し解る気がします。僕の父も冗談が好きで……。お義父様のように表情豊かではないので、真顔でいろいろやって来て……。今回のことも僕もルーテシアと同じで何も知らなかったですし」
「……お互い苦労しますね」
そうルーテシアが心の底から労えば、あははと疲れたようにロイは笑った後、でも、と口を開いた。
「あなたと出会わせてくれたのには感謝しなくてはいけませんね」
その顔があまりにも優しくて、真剣で。完璧な女の子の姿をしていて女の子にしか見えないというのに心臓がどきりと跳ねた。
「僕は弱虫だったんです」
ぽつり、と。唐突に彼はそう口にした。
「いえ、それは今も変わりませんね。僕は弱虫で、泣き虫で。顔だって女の子みたいで。ずっと皆に馬鹿にされていたんです。いつも、男のくせに情けない。女の子みたいって言われて。……だから、それなら女の子になればそんなことは言われないと思ったんです」
彼は照れたように、少し嘲るよう笑った。
「馬鹿ですよね。そんなのなんの解決になりもしないのに。でも、幼い僕は弱虫のくせに何故かそういうところだけは行動的で。女の子の格好をするようになったんです。そうしたら、僕を本物の女の子と周りが勘違いするようになって。弱虫なところも、泣き虫なところも、この女顔も。……女の子の姿をした時は笑われなくて、それどころか可愛らしいと言われるようになりました。毎日止めようと思ったんです。でも、止めれば女の子の格好をしていたことがバレて前よりも、もっともっと馬鹿にされる。そう思うと止められませんでした」
その気持ちがルーテシアには痛いほどにわかった。
大好きだった幼馴染み。嗤われる声。今でも頭からこびりついて離れない。
好きでこうな訳ではないのに。
「ずるずると男に戻るのを引き延ばすうちに、いつの間にかあなたと結婚することになってしまった。焦りました。でも今さら言い出せなかった。どうせバレてしまうとわかっているのに、最後の最後になるまで悩んで言えなかった。でも、今思えばもっと早く話しておくべきでした」
そう言うとクロエは優しく微笑む。その笑みは可愛らしくて、そしてどこか男らしかった。
「あなたは僕が男だと言っても笑わないでいてくれた。しかも、こんな弱い僕を受け入れてくれた。……とても嬉しかったんです」
(笑える訳がないわ。だって、私も同じなんだもの)
「私も……嬉しかったです。私もあなたと同じです。この男の子みたいな姿が大嫌いで、嗤われたくなくて、男の子のふりをして。そんな自分が嫌で、でも今さら戻れなくなっていて。でも、あなたはそんな私でも、妻にしたいと言ってくれたから」
一生ルーテシアを女として見てくれる人なんていないと思っていた。
偽りの自分しかもう表には出せず、本当の自分を出せば嗤われるだけだと。
でも、クロエはありのままの、女としてのルーテシアを欲しいと言ってくれた。
それが、嬉しくて。だから、ルーテシアはロイを受け入れたのだ。
「お父様は許せないけれど、あなたと出会わせてくれたのだけは感謝するしかないようです」
本当に認めたくはないが、父は恋のキューピッドで間違いはなかった。
ロイが優しく微笑む。ルーテシアもそれに応えるように微笑む。
今さら世間にロイが男であることも、ルーテシアが女であることも言えない。しかし、その事で悩むことはもうないのだろう。
本当の自分を見て、その自分を好きだと言ってくれる人はもう居るのだから。