プロローグ1
ーーーーピキッ
それがなんの音であったかアイレインはよく知っていた。
「これ…何の音?」
しかし一緒にいるアリスには、この音の正体がなんなのかわからなかったようだ。
それはそうだろう。今まで多くの戦場で戦い抜いてきたアイレインだからこそわかるものであり、比較的平和な日常生活を送ってきたアリスが耳にする機会はないはずだ。
「これは、次元に走る亀裂の生まれる音…。裂け目が生まれる音だよ」
アイレインは、驚きを押し殺し、冷静な声を意識した。
アイレインが驚くのも無理はない。
ここは、戦場ではないのだ。
田舎の都市ではあるが一応城壁に囲まれた内縁部。城壁内部に今まで、次元の裂け目が生まれたことはない。
「え?そんなはずないわ。ここは城壁の中よ?」
「確かに考えられないことだけど間違いないよ。僕はこれと同じ音を何度も聞いているんだ」
アイレインの確信をもった言葉にアリスのいつもは清廉で涼やかな声は困惑を含んだものになった。
アリスも知識では次元の裂け目を知っている。だからこそ、ありえないと断じた。
しかし、アイレインはこの世界においてありえないということはありえないことをよく知っている。
この世界に生を受けて十二年。常識を説く奴から死んでいった。
それだけ常識はこの世界で意味を持たない。
いま必要なのは、次元の裂け目がなぜ発生するのか。ただそれだけの知識でだけでいい。
「じゃあ…今ここに機械獣が現れるってこと?」
アリスのその声色は困惑から、即座に恐怖に変わった。
アリスは、アイレインと共に旅をしている。こういった知識は人より持っている。
「大丈夫…。僕が必ず護るよ」
アイレインはその年齢に似合わない冷静な声で誓いを口にする。
傍らに立つアリスを左手で抱き寄せるとその華奢な肩を強く握った。
それに答えるようにアリスもアイレインにしっかりと抱きつくとすがるように顔をアイレインに向ける。
同い年の少年は、本当に自分と同じ年齢なのかと思うほど冷たい目をしていた。
それは、アイレインが戦場に赴く際にしている表情であり、これからここが戦場となることをアリスに現実味を帯びて認識させるには事足りることだった。
「来い」
『我、汝と共にあり』
アイレインの小さなつぶやき。それに答えたのはアリスではなかった。
アイレインとアリスの背後に人間より一回り大きな騎士が出現し、いつの間にかアイレインの右手には片刃の刀が握られていた。
背後の騎士の出現と同時に、次元の裂け目が二人の目の前に生じ、そこから背後の騎士に似た何かが現れる。
「ばかなっ…」
アイレインの表情が冷たいものから一瞬驚愕に歪む。
アイレインはその騎士の姿かたちをした何かを知っていた。
だからこそ対応は迅速だった。
「走れ!バッカス達は丘の向こうだ!」
アリスを突き飛ばすように背後に押し出すと、そのまま振り返ることなく背後に佇む騎士に命令する。
「アリスを守れ!」
『よいのか?汝だけでは奴には勝てんぞ?』
「黙れ!いいからお前はアリスをッ…!?」
その時だった。
アイレインは確かに敵から目を離さなかった。
しかし、コンマ何秒か迷いが生じていた。
それが、隙となったのだろう。
ーーーーピキッ
背後でもう一度次元の裂け目が開く音。
気づいて振り返った時にはすでに手遅れだった。
「キャアアアァァァァ!!」
響く甲高い悲鳴。
アリスを抱える異形の騎士。
そして、次元の裂け目の中に消える最愛の少女。
「させるかぁぁぁ!!」
アイレインは叫んだ。
アリスが奴らに狙われているのはわかっていた。
だから逃がして仲間の下に行くようにいったのだ。
しかし、今は後悔している時間はない。
人間に視認不可能な速度で駆け、次元の裂け目に飛び込む。
「!?」
飛び込んだ先は異次元空間。深淵の闇に染まる混沌の世界。
その中にいて、目の前の騎士とアリス、そしてアイレインのみが色彩を保っていた。
「アリス!」
アイレインは叫ぶ。しかしアリスはぐったりとしており返事がない。
すぐさまに機力を足の裏に集中させ、虚空を蹴る。
「アリスを離せぇぇぇっ!!」
アイレインが刀を振るう。何もない空間を薙いだその一閃は騎士の胴体に斬線を刻み、騎士のみの胴が上下に分裂する。
そのままの勢いでアリスを掴むとしっかりと抱き寄せる。
微かに呼吸があるが今にも止まってしまいそうなほどか細い。
すぐに脱出し元の世界に戻らなければアリスの命に関わる。
「どうすれば戻れる!」
相変わらず背後にいる自分の騎士に向かって怒鳴りつける。
『ここから戻るすべはない』
「!?」
『いや正しくは、二人では戻れないといったところか…』
「…どういう意味だ?」
珍しく言葉を濁すような発言にアイレインは眉をひそめる。
『鎧を使え。鎧があれば次元の流れとその侵食に耐えることが出来る』
「じゃあ鎧を装着して、アリスを抱えていけば…」
『それは不可能だ。すでに汝らはかなり流されている。その上、あと一分もすればその娘は全身が次元因子に蝕まれ、死を迎えるだろう。それほど短い時間ではオリンポスへの帰還はかなわない
』
アイレインは、顔を歪め歯噛みする。
一体どうすれば…
悩むアイレインの鼓膜に小さな声が響く。
「ア…レ………。いっ……て………わ……たしを………おいて逃……げ………」
それは、アリスの声だった。
弱りきり、声は今にも消えてしまいそうだ。
そんな状況で、アリスはアイレインを気遣い、自分を置いていく行くように一人で逃げるように喉をふりぼっている。
アリスの言葉に逆にアイレインの焦りが消えた。
「大丈夫。僕は君を死なせない。何があっても…護るよ」
そうだ。何も悩むことはなかったのだ。
かつて誓ったではないか。
今よりも幼き日。死にかけていた自分を救ってくれたこの少女を護ると。
「だから頼むぞ。僕からの最後の頼みだ。無事に送り届けてくれよ」
『それが汝の……宿主の望みであるならば』
騎士はそれだけいうとアイレインの中に溶けて消える。
それを見届け、別れを惜しむようにアリスを見つめる。
方法は最初からこれしかなかったのだろう。
自分はもしかしたら死ぬのかもしれない。
しかし、これでアリスを救うことができるかもしれない。ならばやるしかない。それが自分自身の死に繋がるとしても…
アイレインは一度目を閉じ、小さな声で呟いた。
ーーーオーバーリミット・リバース
アイレインの体が鮮やかな白銀に輝き優しい色に彩られる。
しかし、その後急激に光が明滅しだす。
「アリス………。僕の助けが必要ならいつでも呼んでくれ。どこにいようと君のもとへ駆けつけよう。だから………」
そういうとアイレインはそっとアリスを押し出した。
もう会えないかもしれない。自分は死ぬかもしれない。
それでも………。
「…………バイバイ」
アイレインが右手をアリスに向けると体を覆っていた光がアリスの体を包み込む。
その純白の光は徐々に鎧の形になり、アリスを覆い隠した。