大阪城強靭化計画
(大坂籠城党党大会にて)
真田信繁。通称幸村にございます。
わたくしは
徳川家康との
大阪市議会議員選挙が近づく今年。
1614年。
かつて父・昌幸が
長野県。
上田市長選挙におきまして
徳川家康の落下傘候補を
2度に渡り退けた経験を買われまして
今回。
豊臣秀頼党首からの要請を受け、
高野山より馳せ参じた次第にございますが
党本部のありますここ大坂城は
かつて
政治結社
一向本願会が
10年に渡り、
豊臣党の前身であります
織田党との一騎打ちの選挙戦に勝ち続けるなど
難攻不落の地として知られているのでありまして
今回の徳川家康との選挙戦置きましても
重要な活動拠点になるのでありますが
その大坂城を
今回。歩かせて頂きまして感じたことが1つございます。
それはどのようなことであるのか?
と申しますと
大坂の城には
周り。
四方全てに
荘厳な堀が廻らされております。
その更に外側。
東、西、北の三方向につきましては
湿地など
乾いていない土地となっておりますので
攻め手。
今回で言いますと
徳川家康がたの侵攻を留めるのに長けている場所であるのに対しまして
南方。
天王寺から大坂城へ通じる道筋につきましては
乾いた大地が延々と続いているため、
堀の手前まで敵の侵攻を許す危険性が孕んでおります。
故に
最初。わたくしは
後藤又兵衛同様。
防備の手薄な
南口方面にも候補者を擁立することにより、
本部のあります
大坂城をより安全なモノとする
積極的平和外交策を建言したのでありましたが
残念ながら
退けられてしまいました。
そこでわたくしからの提案なのでありますが
天王寺から通じる乾いた大地からの侵攻を防ぐべく
大坂城南にあります
平野口に
真田幸村独自の選挙事務所を設けることによりまして
この大坂城内の地盤をより強固なモノに出来るものと考えているのでありますが
秀頼党首。
お許し願えますでしょうか。
(その後……)
通称幸村が平野口に築きました選挙事務所は
大坂冬の選挙戦に置きまして
大きな効力を発揮し、
『真田丸』
の名で
後世まで語り継がれることになったのでありましたが
時代は飛び道具。
それも
より遠いところまで
候補者を擁立することの出来る世の中になっていたこともありまして
真田丸は盤石でありましたけれども
肝心要の大坂城が浮足立つ事態に陥り、
一応、地盤であります大坂城を守ることは出来たのでありましたが
荘厳な堀を埋め立てられるなど
議会運営を円滑に運ぶことが出来ず。
次の年の夏に再選挙を余儀なくされ、
最期。全ての議席を失ってしまうのでありました。
盛者必衰の理をあらわす……。