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加藤清正『地方分権を語る』

熊本県知事。加藤清正にございます。

現在、日本では『地方創世』

と言う名で

東京一極集中の是正を図ろうと

様々な施策が進められておりますが

知事の視点から見ました場合

(……如何にして、あの財源を我が自治体に引き込んでやろうか?)

とあれやこれや理由をつけまして

出来上がったあとのことについては特に意識もせず。

資金の確保に奔走するべく

書類の作成と原野の選定作業にあたることになるのでありますが

今回は

そのような事では無く、

私。加藤清正が

実際に熊本の地を治めていた頃のお話をしていこうと考えております。


16世紀末当時の日本は

太閤殿下の威光が日本全国に轟くことによりまして

平和な時代を迎えていたのではありましたが

熊本・肥後の国は戦国時代。

小勢力が乱立していたこともありまして

殿下の九州平定後。

それまで顔役となって治安維持にあたっていました島津殿が

鹿児島に撤退した間隙を縫う形で

肥後各地の小勢力による反乱が発生しまして

最初。入りました佐々殿は

その責を負わされる形で……。

その後、鎮圧。

熊本県の北半分を統治する任にあたることになりましたのが

私。加藤清正でありました。


乱は治まったとは言え、

武装解除をすることが出来たわけでは無く

静かにしているだけの状況であったことに加えまして、

太閤殿下の悲願でもあります

中国大陸進出のための費用を自弁しなければならなかったため

領民に対し、

重い負荷を課さなければならなくなりまして


今でこそ

熊本県民から愛されています

私。清正でありますが

在任当初は

ヨソものでありました上に

肥後の領民が

島津影響下時代よりも

不便な暮らしを強いられている

となりますと

今のイラクではありませんが……。


それを力でねじ伏せるだけのモノが

私。清正にあれば

まだしもなのでありましたが

肥後入府4年前の石高が

わずか3千石でありましたので

清正自らの力

(小牧・長久手時の清正軍の兵力は170名程)

だけでは

とても統治することは出来なかったため、


肥後各地の勢力に対し、

ある一定の権限を与えなければならない

各勢力の独立色が強い

連合政権を採用せざるを得なくなりました。


加えて

3千石から20万石でありますので

単純に計算しましても

給料が60倍になるのでありますので

170名足らずの譜代の家臣の中には

勘違いをしてしまうモノも出て来ました。


幸いにしまして

朝鮮や関ヶ原の時には瓦解せずに済みましたけれども

その朝鮮や関ヶ原。

徳川統治下に課せられることになりました

お手伝い普請などに借り出されることにより、

肥後国内における

中央集権化を果たすことが出来ぬまま

私が寿命を迎えてしまったことが

息子・忠広に……。

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