『長宗我部盛親』候補の訴え。とその後……
今回。
大坂籠城党より
衆議院高知選挙区に立候補しました
長宗我部盛親です。
わたくしは
土佐の出来人
と称されました
元親を父に持つ四男
と言う
本来でありましたら
後継者となることは無く、
仏門の道を歩むことになったであろう
立場でありましたが
父が与党豊臣党公認候補となり、
九州視察中。
長兄であり、
跡取りとして定められておりました
信親が急逝。
それでも
わたくしは四男でありますし、
親和兄。親忠兄共に健在でありましたので
普通でありましたら
このような場に立つことは無かった
と思われるのでありますが
その頃から
父元親の政治力に陰りが
見え始めてしまっていたのでありましょう……。
2人の兄は既に
他家の養子となっているため
と言い掛かりをつけることにより
四男であります
わたくし盛親を
反対者を粛正するなどしまして
後継者に指名。
その後、父と共に
高知の経営にあたって来たのでありましたが
総理大臣秀吉が亡くなられましたの翌年に
父・元親も逝去。
その次の年。
徳川党と豊臣党石田派との対立が表面化しまして
どちらの党に属するか?
の選択を迫られる事態に陥りました。
軍議の結果。
徳川党に属すことを決めたのでありましたが
途上。
石田派の説得を受け、
鞍替え。
選挙に赴くも
石田派に属した勢力の中に
足を引っ張るものあり、
一戦も交えること無く落選。
徳川党国会議員にとりなしを依頼。
快諾を得るも
兄・親忠と高知の選挙区を2分することになる。
と言いました
怪文書を真に受けてしまったことが運の尽き、
その後14年もの間。
京での隠棲生活を余儀なくされ
今日の日を迎えるのでありました。
わたくしが立候補しました理由は
大金に目を眩んだわけでは
必ずしもありません。
もしわたくしが
当選しました暁には
京での14年の生活で培ってまいりました
寺子屋師範としての経験をもとにしました
教育政策の充実を図っていく所存であります。
(盛親のその後……)
豊臣党は秀吉の死後。
内部対立が表面化。
それに乗じた徳川党の手により、
既に解党状態となっており、
追い込まれての
名称変更でありましたし、
選挙戦略も無く、
(……所詮。寄せ集めでありましたので)
2年で瓦解。
それでも盛親は再起を図るべく……
でありましたが
武運つたなく
あえない最期を迎えるのでありました……。
諸行無常の響きあり