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『木曽義昌』候補の訴え。とその後……

今回。

武田勝頼党首の要請を受け、

参議院。

長野選挙区より立候補しました

地域政党。

木曽谷保存会会頭の

木曽義昌です。

わたくし木曽氏は

平安時代末期。

以仁王の命を受け、

京から平氏を追い払いました

木曽義仲の末裔

と言い張ることにより、

長野県木曽谷選挙区選出の

県会議員として

代々活動して参りました。

これまで

妻籠から新洗馬までの宿駅を整備するなど

交通網を整えることにより、

木曽谷地域の発展に尽力して参りました。

わたくしも

父祖の倣いに従い

内政重視の政策を貫いて行く所存でありましたが

先の長篠の戦い総選挙の結果。

多くの同士を失い、

その大敗ぶりから

立候補予定者を確保することが出来なかった

勝頼党首より

半ば強引に

国政選挙に引っ張り出されることに相成りました。

今後は、

対織田政争の最前線の盾となるべく

勝頼党首を盛り立てていく所存であります。


(……その後の木曽義昌)


選挙に当選すると同時に

織田政党に寝返りました義昌は

首尾よく

これまでの地盤でありました木曽谷に加え、

安曇・筑摩にも票田を拡張するなど

長野西部に確固たる地位を獲得したのでありましたが

織田政党党首であります

信長が光秀のクーデーターに遭い失脚。


長野県全体が織田政党の空白地帯となったことによりまして

北条党と徳川党による議席の奪い合いが勃発。

当初。義昌は北条側に与するも

選挙の際には

徳川側の推薦を受け当選。

その後、

織田政党の後継者となりました

秀吉と徳川との政争に巻き込まれました義昌は

次の選挙で再び

秀吉側に鞍替えし当選するも

その後、秀吉と徳川が連立を組む事態となり、

北条党解党と同時に

総理大臣秀吉から

徳川党に属することを命じられました義昌は

それまでの地盤でありました木曽谷から

千葉県の旭への国替えを余儀なくされ、

先年。徳川党から離れたことが災いしましてか。

肩身の狭い思いを余儀なくされました義昌は

失意の内に引退を余儀なくされ、

木曽氏は義昌の次の代で消滅の憂き目に遭うのでありました。


ひとへに風の前の塵に同じ……。

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