2:そのデータ、ナイラの引継ぎにつき
『ログアウト』ボタンがないーーー
それに気づいた時、一誠は『GMコール』を行おうとした、が
「--ない」
ナイアー・ラ・オンラインにおいて、GMコールはメニュー画面の『ヘルプ』から行う。
しかし、この『ヘルプ』ボタンがないのだ。
これは、ゲーム外との通信ができないことを意味する。
と言うのも、フレンド間で行う『コール』機能は生きていた。
だが、フレンドリストを開いても『フレンドがいません』と表示されてしまう。
ふと、一誠の脳内を、一昔前に流行った小説の内容がよぎる。
『ゲームの世界に入り込んでしまった』
VRMMOを題材としたそれらの小説は、VRMMOの開発を進ませるとともに、バーチャル空間への恐怖心を生む結果となった。
そのため、VRゲーム開発において、何よりも重要とされたのが『ログアウトできる』ことだった。
一度でも、バグによって『ログアウトできない』事件が発生してしまえば、VRシステムは世間から追放されてしまう。
だから、いままでそんな事件は聞いた事がないし、これからも見ることはないだろう。
ーーそう思っていた。
だから、一誠が今置かれている状況は『世界初のバグ』か、『夢』と言う可能性が一番高かった。
だが、この数分間でそれらは完全に否定されている。
本来、ナイラにおいては、『痛み』を感じることも『出血』することもない。
もちろん、HPゲージは存在するし、流血エフェクトも存在するが、それはあくまで『視覚』で認識するものであって、実際に痛みを感じたり血が流れていく感覚を感じることはできない。
ならば今、ナイフで傷がついた左の手のひらはどうなのか。
かなりの痛みを感じたし、血がにじみ出てきている。
ーー認めなければならないのか。
認めようと思えば、認められるのだ。
一誠に家族はいない。
孤児である一誠にとって、現実に未練はない。
いや、未練と言うほどではないが、高校卒業まで支えてくれたみんなには悪いと思う。
気がかりはある。後悔も未練も、そのうち思い知るだろう。
ただ、一誠は笑わずにはいられなかった。
この胸の高鳴りを、周りを意識せずにいられるこの開放感を、きっと抑え込むなんて無理な話なのだと。
もし、一度眠って目が覚めたら、元に戻っているとしても。
もし、小型のVRマシーンを頭から外されて元の世界に戻るとしても。
「今は、この世界をーーーこの『現実』を楽しむとするか」
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『せっかくの体験だ、楽しもう』と、いつかの偉人が言ったらしい。
『先の将来を心配するよりも、今を楽しめ』と、かつての英雄は言ったらしい。
その言葉を実行する。ただそれだけのことだ。
一誠は、ナイラにおいて『ラーズグリーズル』の称号を授かっていた。
本来ならば、『いっせー』と言う自身のつけた名前を使うべきなのだが、せっかくなのでそう名乗らせてもらうとしよう。
メニューに残っていた『ステータス』ボタンから、今の状態を確認する
いっせー改めラーズグリーズルのレベルは300。
その横にMAXの表記があるため、恐らくこれ以上あがることはないのだろう。
スキルはすべて取得している、と言うのも、ナイラの課金アイテムである『スキルポイント×100』を大人買いしたため、後半になると全く使えないスキルまで取っているのだ。
イベントリは課金によって最大まで拡張されており、イベント限定のアイテム以外はすべてカンストしている。
ナイラは課金することによって『便利』になるし、初心者は早く『強く』なれる。だが、誰よりも『強く』なるには、己の時間をつぎ込むしかないのだ。だから、廃課金プレイヤーはパーティーに誘われることはあっても、嫌われることはない。
その結果、ほかに趣味のない一誠は、金と労力をナイラにつぎ込み続け、トップランカーの地位を確立したのだった。
そして、恐ろしい事に、そのレベルやスキル、アイテムと言った『ナイラ要素』はやはり『ゲームを面白くする』ための要素で、現実にそんな要素を存在させる必要はない。
さらに、この世界の存在は、ナイラ基準ではなくレベルで換算すればゲームの数値の半分ほどだ。
ーーあのレイドですら、今の一誠の敵ではないのかもしれない。
つまり、今の一誠はこの世界で誰よりも、何よりも強い。
その気になれば世界征服などたやすいだろう。
だが、彼の目的は『楽しむこと』。
それがそれない限りは、この世界は安全だといえるだろう。
ただ、この世界を練り歩くこと。それだけを胸に、彼は最初の一歩を踏み出す。
ーーこうして、佐倉一誠改め、ラーズグリーズルはこの世界に生を受けた。
この世界において、その異名が持つ『本当の意味』を知るものはいない。
ナイラにおける課金アイテムに『武器』や『レベル上限開放』は存在しません。
スキルも、『攻撃系スキル』と言うよりも、攻撃の合間を埋める『補助系スキル』が多いため、いくら課金をしたところでトップランカーになることはできません。
一誠君の血のにじむような努力と絞りに絞った生活費がすべてなのです(笑)