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しかし今回の脱衣が普通の着替えの一環だったとしたらどうしよう。儀身はふいに思った。いや別にどうするということのものでもないのだけれども、だが一つだけいえることは、もしかするとあのおっさんはとても準備のいい人なのかもしれないということである。確かに今日は暑い。今日は日差しの強い、本当に真夏と間違えるような、すぐに涼しいところに行きたくなる、延々と外で作業するのは嫌な日なのである。しかしまだ五月だ。五月の晴れた日に外に出かけるということは、確かにある側面から考えてみると、ある程度の暑さを想定して、それに対する覚悟みたいなものは必要かもしれないけれども、だからといってそのためにあらかじめ着替えを用意してくる人など果たしてどれほどいるものなのだろうか――と儀身は真面目におじさんの突然の脱衣からの車内捜索? に対して考えてみてすぐに思った。いやまあそれくらいの着替え、つまり長袖のシャツから半そでのポロシャツくらいの着替えを持ってくる人だったら大勢いるでしょう! むしろ桜満開の春の季節とか、梅雨が始まっている六月の終わりごろという時期の方が、長袖から半そで、もしくは半そでから長袖というところの着替えを持ってきている人は少ないかもしれない。五月といえば――といって別に自分は五月に対して何の思い入れもないし、特に五月が十二ヶ月の中で一番好き、したがって五月に関する知識もそこらへんの一般人に比べると豊富――というわけではないけれども、五月こそいってみれば半そでを着ればいいのか、それとも続けて長袖を着ればいいのかでもっとも迷う時期といっても過言ではないのではないだろうか。確かに五月といえば、その次の月は六月で衣替えの時期である。六月に入ってしまえば衣替えの時期なのだから、多少肌寒いときがあったとしても、その日を半そでで過ごすことに特に違和感は覚えない。だが五月はどうだろうか。まだ六月になっていない五月、そして肌寒い日がその大半を占めていた四月からまだ一ヶ月と経っていない五月。この五月という月こそ、人はその日を半そでで過ごそうか、もしくはまだやはり衣替えの時期になっていないので多少暑くても暦どおりに長袖で過ごそうかをめちゃめちゃ迷う唯一の時期といっていいのではないだろうか。だから隣の駐車場のおっさんが別にすごく準備のいい人というわけでもないのだ! 繰り返していうが、彼はもしかすると五月を生きる世間の人としてごく普通の、きわめてまともな感覚を持っている人といえるのかもしれない。「今日は日差しが強そうだから、五月といえども公園で遊んでいると汗をかく機会に見舞われるかもしれない、そのとき自分は無理をして長袖を着たまま遊び続けるのか、それとも半そでを車の中に忍ばせておいて、それで暑くなりそうだと感じたときには、すぐに着替えられるように準備していくのか、さて今日はどうしたもんかな、どうするのが一番スムーズに休日を楽しめる方法になるというのかな」こういう思案があったかもしれないのである。そしてそれは立派な思案だといえるのではないだろうか。まだ春の五月だからといって長袖しかきていはいけないという概念に縛られるでもなく、かといって一か八かで最初から半そでをきて「うわあの人もう夏気取ってる」みたいな批判を受けることもない、非常にバランスの取れたいい選択を彼はして、かつその選択に今柔軟にその身をゆだねようとしているのである。ほら彼が本当に紺のシャツを脱いで車内に上半身を突っ込んでから、手に半そでの白いポロシャツを手にして上半身をまた外に出してきた! 彼はとてもいい選択をしたのだ。すばらしい判断の元で今日のこれからの時間を過ごそうとしているのだ。いいな。とってもいいな。ああ俺も今日という謎の五月の日には半そでをちょっと持ってくればよかった。長袖を着てきて今後悔をしているというわけではないのだけれども、しかし今日をもっとよりよき日とするためのエッセンスとして、一枚の白いポロシャツ、別に色は白じゃなくても何でもいいけれども、とにかく半そでの服を一枚持ってくるだけで自分の今後の行動の幅というものもぐんと広がって、もっともっと今日という日をこれからの人生の思い出に残るすばらしい日に仕立て上げることができたかもしれない。