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儀身は一人で公園の駐車場に取り残されて、さてこれから自分は何をなすべきなのかなと考えた。なすべきなのかなといって、別に彼に何かしなければならないことがあったというわけではなかったし、最悪このままここにずっと突っ立って何もしなくてもいいといえばそれでいい。しかし本当にこのままここにずっと突っ立って、たとえばみんなの帰りを待つなどという行為を儀身はする気はなかった。どうしてする気がなかったのか。それはつまらないからである。せっかく今までみんなの運転手を勤めてきてみんなのために努力してきた。そしてやっと公園に着いたというのに、今度はみんなのそれぞれの自分勝手な、わがままな行動のせいで自分の行動が制限されてしまう。別に突っ立っているのならば突っ立っているで本当にそれでもいいといえばいいのだけれども、しかしそれがみんなの行動のせいで、つまり自分でそう決めたのではなくて、みんなの行動から導かれてみるにそうするしかない、あんたはあくまでのほかの四人の子守、見張り役みたいなものなんだ、というようなところでずっと突っ立っているしかないというのは嫌だな、と思ったのである。まあそりゃ嫌だろう。別に儀身はみんなの子守役でもなければ見張り役でもないしお母さんでもないのである。父親でも先生でもない。みんなと同じ立場のグループの一人なのであり、友達の誰かから儀身のことを見てみれば、その友達にとっては儀身もまた大切な友達の内の一人なのである。
だがここで考えてみよう。このままこうしてみんなの走り去ってしまったあとの見ず知らずのでっかい公園の駐車場で一人ずっと暑い日差しの中ぼうっとみんなの帰りを待ちぼうけていることが本当につまらないことなのかどうか。つまらないことだといってしまえばそれまでだ。それに儀身の感覚としては、確かに先ほど一発目で「いやそれはつまらないからだ、どうして俺がみんなの帰りをぼうっと一人でたちっぱで待っていなきゃならないんだ」みたいなことを思ったわけだけれども、違う。それは何ていうか違うのだ。彼が本当に嫌だったのは、みんなからその役目を強要されることなのであり、かつまた自分で俺もそうすべきじゃないのかなと思ってしまうことなのであった。だから嫌といえば嫌だが、それは自分の意思でないところでそうすべきだと断定されるのが嫌、ということにほかならないのである。じゃあ自分で、自ずから、完全に自らの意思で「ちょっとみんなのことをこのままずっと待ってみようかな」と思うのはどうなのだろう。自分の意思決定の元でずっとこのまま公園に着いたにも関わらずほとんど車のそばから動かないでかたくなにみんなの帰りを待っている絵――みたいなものはありなのかなしなのか。なしだろう。儀身は再び直感で思った。いやそんなのありなわけないだろう。何を好き好んでせっかく公園に着いたというのに車から降りただけでそこから一歩も動かずにみんなの帰りを待たなきゃならないんだ。そもそも体力的な問題もあることだろう。今日は良く晴れた日なんだ。五月だが、とても五月とは思えないような暑い日なんだ。まだ今日のニュースは見ていないけれども、きっと家に帰ってニュースを見てみれば「今日は今年初めての夏日でした」とか「見てくださいこの街行く人々の半そで感」みたいなことを言いながらテレビにそれなりの映像が流れてくることだろう。後半の「見てくださいこの街行く人々の半そで感」みたいなコメントはさすがにないかもしれないけれども、でも俺の言いたいことはだいたいそういうこと! だいたいそういうことなのだ。お分かりいただけただろうか。だから要するにつまりだ、俺がこのままずっとみんなのことをここから一歩も動かずに待ち付けることもないし、またみんなが勝手に走り去ってしまったからといって、俺はそれに沿って自分の今後の行動を決めるようなことはしないということなのだ。