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言われてみて儀身は「確かにそうですよね」みたいなことを思った。よっぽど人間離れしていて、常識のない、無秩序な、自分勝手な解釈と行動をしようとしていたのはおっさんと自分のどちらの方だったか。おじさんとの会話が始まってみてしまえば、それは自分の方だったと自らで認めないといけない。本当にそうだ。一体自分は今まで何を考えて何を思ってずっと車のそばに突っ立っていたというのだろうか。ときにはおじさんという存在を解釈しきれずにおびえてしまったり、またはむかついたりして怒りの感情のままに罵倒してやりたい感じになっていたかもしれない。罵倒してやりたい感じには全然なっていなかったかもしれないけれども、とにかくこれまでにたくさんの想像を、おじさんを介して行ってきたことは認めなければならないし、また反省しなければならない部分だろう。想像をたくましくしすぎたせいで、おじさんに対する理解度が下がってしまい、ある種のこの今の出会いというものの質がゆがんでしまった傾向がある。もちろんおじさんと会話が成立した今でも、どうせこのおじさんは自分にとっては見ず知らずの人間、この場でしか顔を合わせる機会のないどうでもよい人間、どうなってしまっても特にかまいはしない相手、というところでどれだけその出会いの質がゆがんでしまっても平気だという感想を持つことは出来るのだろうが、そんなことをしてしまうと、自分がもう人としてはまともに歩んでいけないような気がする。そんな他人にとって無茶苦茶な態度を取ってしまうと、もう二度と人として真摯に人と向き合うということができなくなってしまうような気がするのである。人と真摯に向き合えなくなったところで何がいけないというのか。結局人はどれだけ自分以外の人と真摯に向き合ったところで、その人と親身一体になることなどできないし、親兄弟になれるわけでもない。結局人は一人でいるしかない生き物なのではないのだろうか。いや人うんぬんということより、生きるということは一人でいるということにほかならないのでは? 違う。一人で生きていくために、自分以外の多くの他人という構図がきっと必要なのだ。単純に物理的に一人でぽつんとその場にいるということが孤独という言葉の真の意味に追いついていないというのは誰しもが直感的に理解しうるところなのではないだろうか。
儀身は言った。「しかし私はずっとあなたを観察していて思ったのですが、まあその白いポロシャツの件に関してはいいでしょう。白いポロシャツの件に関しては、だいたい僕もその気持ちがわかるんです。ですからそれにともなって、紺色のシャツを急にはだけたというのも理解できます。もっとも公園の駐車場という人目のある場所、もしくは人目があってもおかしくないとすぐに想像されるところで急に服を脱ぎだすという行為はいかがなものかと思いますが、そこはあなたも男の人ですし、別に裸くらい、という価値観で挑戦した行動だったのかと思います。さきほど電話をしていた相手のジャクソンって誰なんですか」儀身は単刀直入に質問した。ジャクソン。それはやはり本人に直接尋ねてみないとわからないことだっただろう。まだ急に衣服を脱いだり服を投げ捨てたりすることの方が、言葉のないただの行動であった分、いろいろと想像した先と真実の感想とが相成れる可能性が高かったように思う。それに自分だってもしかしたらそうしたかもしれないというところで、おじさんの実際の感想とこちらの想像との合致点がいくつも発見されていた。ところが言葉だけのジャクソン、もしくはハローと言った次の瞬間のグッドナイトについてはどのような説明があるというのだろうか、もしかするとこれもおじさんにはおじさんなりの完璧な理由があるのかもしれないけれども、少なくとも現時点でそれはこちらから(観測者側)からするとただの理不尽、不条理、理解しがたい言動という風にしか解釈できない。たとえばジャクソンというのは知り合いか誰かの名前なのか? 知り合いか誰かの名前だったとすると、ジャクソンと呼びかけたのは説明がつくかもしれないが、ところがハローのすぐ次にグッドナイトと発言したというのはどういうことなのだろうか。ハローといってすぐにグッドナイトといわなければいけない人間関係などこの世の中にあるというのだろうか。申し訳ないが自分にはそんな人間関係、状況、ルールみたいなものがほとんどまったくといっていいほどに浮かんでこないのだが。