僕とかぐや姫
前に短編集に入れてていつか連載にするとか言ってましたが、やはりこのままで。
蛍流の髪はタンポポのように柔らかい黄色だ。地毛らしく、金髪と呼ぶには優しい色をしていた。まるで彼女の心を映しているようだった。
だが、その色は時折姿を変えた。
色素が抜けて銀髪のようになったかと思えば、僅かに赤が混じったような不思議な色の日もあった。最初はただ染めているだけかと思い、口には出さなかった。そんなに髪の色を変えて傷まないのか、あのタンポポ色が一番好きなのに、と色々言いたい事はあったが。
僕が蛍流の変化に気付いている人間が自分だけだと知ったのは、友人と会話していた時だ。さりげなく蛍流の髪について話題を出した際に「あいつが髪を染めている?そんなの聞いた事も見た事もないぞ」と返ってきたのがきっかけだった。
よくよく考えてみると、僕は重大な事実を見逃していた。蛍流の髪は時折変わる。だが、一晩経てばまたいつもの金髪に戻っていた。
「睦月君何食べてるの?」
「新発売の月見まん。中に白餡が入ってるんだ。君も食べる?」
「いいの?」
「ここまで話をして置いて食べさせないかもいけないだろ」
学校帰り、立ち寄ったコンビニで買った月見まんを半分に割り、まだ口を付けていない方を蛍流に渡した。頭上を見上げると、黒い海に黄色い月が浮かんでいる。
あの月が地球に落ちてきたらこの星はどうなるだろうか。
情緒の欠片もない僕の月に対する感想なんてそんなものだった。他にあるとしたら、隣を歩く少女の髪と同じ色と言ったところか。
「甘い。普通の餡まんと少し違うね」
「君は月から来たのかもしれないな」
「え?」
「君の髪の色は月みたいだろ。そうかなって思った。それだけ」
蛍流からの反応は無かった。てっきり気持ち悪いと言われると思ったのに、蛍流の半開きになった口からは何の言葉も紡がれなかった。薄茶のまなこはまっすぐ僕へ向けられるのに、僕が見えていないようだった。
予想していなかったリアクションだった。次の動作が浮かばない。道端で高校生の男女が沈黙しながら見詰め合う光景に野次を伸ばす者もいない。その代わり、奇妙な程に生暖かい風が纏わり付く。身震いした。
彼女の月色の髪が風に靡く。
「君が綺麗だと思っただけだよ」
やっとの事で絞り出した言葉はそれだった。だが、そこで蛍流も我に返ったように微笑を浮かべてみせる。
「ありがとう」
「何だ照れると思ったのに。自覚済みか?」
「あまり言われる事に慣れてなかったから逆にどう反応すればいいか分からなくて」
「みんな君を不良優等生だって言うからな」
蛍流はその髪のせいで周りに敬遠されがちだった。成績も良くて控えめな性格なのに、頭の堅い教師には顔を合わせる度に説教を喰らっている。僕の仕事は教師の口を閉じさせる事だった。いつからだったか。巻き添えを喰らうのを怖れて見守るだけの野次馬を止め、ろくに会話をした覚えもないクラスメイトのために内申点を減らされる覚悟で彼女の『友人』になったのは。
いつもの金髪ではなく、またあの白みのかかった銀髪の蛍流が僕の家に訪れたのは、彼女の誕生日の一週間後の夜だった。
「睦月君、これから散歩しに行かない?」
珍しく笑顔で誘ってきた蛍流に僕は即答せずに携帯のディスプレイに視線を落とした。現在の時刻午前二時。明日も学校に行く僕にとっても、蛍流にとっても散歩には相応しくない時間である。
「行かない?」
笑みを消した真顔の蛍流に再度聞かれ、僕は溜め息をついて身支度を始めた。何となく以前、彼女を綺麗だと言った時の事を思い出した。どうして今になってそんな記憶が蘇ったのだろう。
何となく分かっているくせに知らない振りをして外に飛び出す。
「どこに行くんだ?」
「私の一番大切な場所」
欠伸をする僕に構わず蛍流は前を歩き続けている。つい八時間前までは人で溢れ、騒がしかった駅前も眠りに就いていた。そんな状況でおかしなものを見た。しかも、蛍流はそれに向かって歩き続けている。
「蛍流」
「早く乗って」
こんな時間にも関わらずバス停に停まっているバスに乗り込んだ蛍流は、困惑している僕を急かしながら自らも乗り込んだ。何も変哲もない車内だが、自分達以外に乗客がいない事に違和感を覚える。
「不思議なバスだ。あの世行きかい?」
「バスで三途の川を渡るなんて聞いた事ないけど。……でも私の髪の色がたまに変わる事よりは不思議じゃないよ」
ぽつり、と呟かれた一言に僕は眼を見開いた。同時に、ご乗車ありがとうございました発進しますとアナウンスが車内に流れ、バスがゆっくり動き始めた。
「睦月君だけが私の髪を変わった時にじーって見てたからすぐに分かったの。この人見えてるんだなって」
「気付いてたのか」
「ねえ、睦月君はどうして私の髪の色時々変わるか知ってる?」
色々な事が有りすぎて軽い錯乱状態に陥っている僕に蛍流はそう尋ねた。確認するような口振りに僕を口を開いた。
窓の向こう、いつものように黒い海に浮かぶ、蒼白い月を見詰めながら。
「君の髪……月の色と一緒だろ」
「正解」
「最初は全然分からなかったけどな、君と遊ぶ事が増えて気付いた」
「そこまで分かっててよく私の事避けなかったね」
「一緒に居たかったから」
「一緒に?」
「理由なんてそれだけだよ」
蛍流のまなこが僅かに潤んだのを見て見ぬ振りをして、視線を下に向ければ白い手が小刻みに震えていたので、握ってやる。氷のようにひんやりしていた。
しばらくしてから、延々と走り続けていたバスが止まったので蛍流に言われて降りると、そこは竹林の中だった。こんな所あったのかと思う前に蛍流に手を引かれて歩かされる。
「蛍流」
「何?」
君は君のままだろ。
喉まで競り上がっていた言葉を唾液と共に飲み込んだ。馬鹿らしい。目の前にいるのは数年前から共にいる少女。偽物じゃなくて本物の蛍流だ。
「あなたは……私が月から来たって言ったら信じる?」
到底信じられない言葉を吐いた蛍流の前に聳え立つ『それ』を僕は無言で見上げた。
僕や蛍流よりも、周りに生えている竹よりも巨大な石で出来た物体。それはどこかロケットのような見た目をしている。
「十年前に私はこれに乗って地球に来たの。月とは違うこの星がどんな所か知りたくて」
「ああ」
「私を育ててくれた両親は勿論偽物。少し記憶を弄らせてもらって」
「ああ」
「あと私自身にも魔法みたいなものを掛けたの。私が人間に見える魔法。ほら、月の人間は月と髪の色が同じだから日によって微妙に変わる」
「ああ」
「どうしてかな。睦月君には何故か効かなかった。……聞いてる?」
呆れたように笑う蛍流の問い掛けに答える代わりに僕は「何でこんな事僕だけに?」と逆に聞き返した。
「両親や私に掛けた魔法今夜で解けてしまうの。そうしたら色々まずいから、これで帰らなきゃならないの」
どこへ、は聞かなくても分かった。
「魔法が解けて私が月に帰ったらみんなみんな私の存在忘れる。でも睦月君には魔法が効いてないから多分忘れないと思う。だから、一応前持って言っておこうかなって」
「……ああ、そう」
「そんなに悲しんでない?」
「かぐや姫だったら帰り際に不死の薬くれたんだろうな、って考えてた」
「私はかぐや姫みたいに無茶苦茶なものは欲しがらないよ」
あんなおかしな物欲しくない。苦い表情でそう言い切った蛍流のおかしな物が何かは分からない。かぐや姫と言えば竹から生まれた姫が結婚を申し込んだ男達に無茶苦茶な要求をした挙げ句、さっさと月に帰った非常識なお姫様だ。
「……なら、君は何が欲しい?」
「え?」
「月に帰る時の土産に。あげられるものがあったらあげるよ。一旦家に帰れば何かしらはあるから」
蛍流は一瞬理解出来ない、というような表情をした後に急に笑い出した。それに対し、僕は無表情を貫いたままだった。
二人の瞳には水が張られていた。
「だったら、鍵」
「鍵?」
「睦月君の家の鍵がいいな」
風が蛍流の髪を揺らめかせ、竹の葉が擦れ合う音が声の震えを誤魔化した。
「仏の御石の鉢も、蓬莱の玉の枝も、火鼠の裘も、龍の首の珠も、燕の産んだ子安貝も欲しくない……あなたの事思い出せるものが欲しい……」
瞼を閉じた蛍流の頬に涙が伝う。それを拭おうと僕は手を伸ばし、けれど止めた。代わりにポケットから銀色に光る鍵を彼女の手に握らせた。
「鍵代寄越せって言いたいけど、今回はサービスしてあげるよ」
「うん」
「……持ってるだけじゃなくて、ちゃんと使おうとして欲しい」
「うん……」
「蛍流、あのさ……」
「何、睦月君」
「……ごめん、何でもない。お元気で」
蛍流が月に帰る事とは全く無関係で、どうしても彼女に言わなければならない事があった。だが、僕にこの事を言う勇気はなかった。
この星から去ってしまうなら、告げずにいるべきなのだ。臆病な自分の心に顔を背けるように僕は言い訳を考えた。
半ば冗談だと思っていたが、しばらく二人で空を眺めた後、蛍流は一言僕に別れの言葉を残して、ロケットにぽっかり空いた丸い穴に入った。ロケットが小刻みに振動を始めたのはそれからすぐの事で、巨大な石は夜空に飛び立って行った。
数秒後には夜の闇に同化してしまったそれを探すように僕は頭上を見上げ続け、首が痛くなったので止めた。それからどうやって歩いて帰ったのか、僕が気が付けば自分の部屋に立ち尽くしていた。
翌日、学校に行くと蛍流の痕跡は消えていた。彼女が座っていた席には別の女子が座っていて、クラスの名簿にも名前は載っていない。魔法とやらが解けたせいなのかもしれない。
蛍流と過ごした時間そのものが魔法で、幻だったのかもしれないと不安になった。教師に説教されている彼女を助けたのも、新発売の月見まんを二人で半分こして食べたのも。全て僕の脳内での出来事だったらと、考えてしまう。
蛍流に鍵を渡したという記憶もひょっとしたら偽物で、単に無くしただけかもしれないのだ。
夜が更け、空を見上げると月がぼんやりと浮かんでいる。タンポポ色をしていた。
「君が好きだった」
あの時言いかけた言葉を白い天体に向かって告げた。いつか、告げなければならないと思い、それでも蛍流に伝えられなかった感情。
それを聞かせて蛍流と恋人になりたかったのかと聞かれたなら、きっと僕は首を横に振る。僕と彼女がキスをしたりセックスをする光景は想像出来なかった。心の片隅では気付いていたのだろう。僕達は結ばれるべきではないのだと。
だから、伝えたかっただけなのだ。
『睦月君の事忘れないから、睦月君も私を忘れないで』
別れ際に言われた言葉が心の中で静かに蘇る。目の奥が熱くなった。
昨日まで蛍流が存在していた証はもうどこにもない。僕の本物か偽物かも不確かな記憶にしか彼女はいない。万が一、本物だったとしても簡単に忘れてしまえるものだ。
……いや、忘れるものか。
蛍流とは二度と会えない。その予感は恐らく当たっている。だからと言って、蛍流と過ごした記憶を思い出せないわけではない。
夜と共に訪れる月を見る度に、きっと僕の脳裏にはあの少女の姿が浮かぶ。この予感も当たっているだろう。
僕が渡した鍵で蛍流が僕の事を思い出せるのなら、僕は月を見て蛍流を思い出す。この黒い海に浮かぶ光がある限り、僕達の奇妙な友情は消えたりはしない。
そう決心してみれば、蛍流との記憶は偽物なんかではなく、本当にあった事なのだと強く思えるようになるのだから不思議だ。僕は月を見上げながら軽く笑った。