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一
彼は世間でいう「優しい」と呼ばれる人間であった。それは彼が嫌われることをひどく恐れた結果だった。
幼いころの彼は、人一倍他人の目を気にしていた。どうしたら嫌われずに済むかと考えた彼は、何もしない、という結論に達した。嫌われることをしなければ、嫌われずに済む。小学生の彼にとって、その理屈は当然の帰結のように思えたのである。その理屈は正しい。しかしその当時の彼は「嫌われること」がなんであるのか知らなかった。そして、それを知るためには失敗をしなければならないことも、彼は知らなかった。「嫌われること」がなんであるかを知るためには、実際に嫌われる経験をしなければならない。しかし彼は自分が嫌われることを許さなかった。誰かに嫌われるのは、この世の終わりだとさえ思っていた。彼に失敗は許されなかったのである。「嫌われること」が分からないのに、「嫌われること」をしない。その矛盾は、当然彼を苦しめた。どうしてよいかわからなくなった彼が出した答えが、何もしない、だったのである。彼が「優しい」人間になるための下地は、このころから準備されていたのである。