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私は”誰”でしょう?

作者: かるねす

誰が話しているのか、想像しながら読んでいただけると嬉しいです。







貴方と出会ったのは、貴方が大学を卒業して、社会人になったころでした。

その時の貴方は、これから始まる新しい生活に、目をきらきらと輝かせながら、闘志に満ち溢れていましたね。

初めて会ったあのときから、もう私は貴方に惹かれていたのかも知れません。


温かい春の日に、桜の木の下をゆっくりと歩きます。薄桃色の花びらが目の前をかすめて落ちていくさまに、私はただただ驚いていました。

見上げると、水分を多く含んだ空はぼんやり淡い水色で、まだ少し冷たさの残る風が吹き抜けていきます。頬がひんやり冷えてしまいそうで、貴方は「少し寒いな」なんて言いながらも、笑っていましたね。


新緑がぐんぐんとその枝葉を伸ばし始めたころ、貴方は少し疲れた表情をしていました。

周りの人に心配をかけたくなくて、「大丈夫?」と聞かれても笑って、「平気だよ」と答えていました。

でも、私は知っています。上手く仕事が出来なくて、会社への道のりがとても長く、重いものになりつつあることを。心の中では、とても不安で悲鳴を上げていたことを。

私がもっと貴方の支えになれたらいいのに、と考えるようになりました。


仕事に慣れて、少しずつ深い内容に発展し始めたのは、蝉時雨の止まなかった、夏真っ盛りの時期。

先輩に褒められたのが凄く嬉しくて、帰り道の途中、一緒にお祭りに行きましたね。

屋台前で、子どもみたいにはしゃいで、私がソースまみれになって、貴方が慌てていたのが懐かしく感じます。

濡らしたハンカチで、そっと私の汚れを拭いながら、困った顔で笑った貴方。その笑顔が今でも忘れられません。


空気が澄んでいて、空がとても高く感じられたあの秋の日。いつもよりも足取り軽く、会社に向かう貴方を見て、疑問に思ったのはつかの間でした。

ずっと取り組んできたプロジェクトが、ついにゴーサインが出たんですね!取引先へ足繁く通い、何度も頭を下げていた貴方の努力が認められて、最後はにこやかに、それでも握る手は力強かった。私も自分のことのように嬉しくなりました。

……貴方が、取引先を出た後、ガッツポーズをしていたのを知っているのは、私だけの秘密です。


数年ぶりに大雪が降ったあの日。

私が滑ったのに巻き込まれて、貴方は地べたに尻餅をついちゃってましたね。通勤途中なのに、びしょびしょになってしまったスーツで、何とか到着すると周りには似たような人がたくさん。

仕事をしながらも、濡れたお尻が気になってしょうがなかった、と笑っていたのに、翌日には酷い高熱が出て、しばらくお休みすることになってましたね。それでも、会社に行こうとしたあの時は、心臓が止まるかと思うくらいびっくりしました!

……お願いだから、体は大切にしてくださいね。


一日一日と過ぎていくたびに増える思い出。でも、私の寿命は刻一刻と短くなっていく。

もっと傍にいたいよ。

ずっと近くで見守りたいよ。

でも、それは叶わない願いだから、私から貴方にお別れを言います。本当に今まで、たくさんの思い出をありがとう。

どうか、これからもお元気で。

…さようなら、大好きな貴方。



+++



「あら、あなた。その靴は……?」

「これかい? これは、僕が大学を卒業して、就職するときに買った靴なんだ」

「パパのお靴? 何か真っ黒だね~…」


家の中を整理していたら、懐かしいものが出てきた。まだ取っていたのか、という驚きの気持ちと、残ってくれていたのか、という安堵感のようなものが同時に生まれる。

娘が、薄汚れた靴を珍しそうに見ていた。彼女の周りは今、新しいもので溢れかえっている。物珍しく感じているのかもしれない。

数年前に結婚した妻は、何だか臭いそうなその靴を眺めているが、決して嫌な表情はしていない。


「あなたと一緒に頑張ってきた靴なのね。……でも、どうしてかしら? 私、この靴を見たことない気がするの」

「これはね、一年で履き潰してしまったんだけど、僕が一目惚れして買った靴なんだ。今ほど生活じゃなかったから、形が崩れたりしないように毎日手入れをして、靴箱にしまっていたからなあ」

「パパの大事なお靴なんだね」

「そうだよ」


そう言って微笑みながら妻と娘の顔を交互に見、そして箱に入った靴に視線を落とした。


「……懐かしいなあ。僕が、君と出会う前、がむしゃらにやっていた時期に履いていたんだよ。先輩に褒められてさ、浮かれてたんだろうなあ。嬉しくてその足でお祭りに行ってね、たこ焼きをこの靴に落としてソースまみれにしたこともあるんだよ。本当に懐かしいなあ……あのときがあるから、今、こうやって君たちと暮らしていられる」

「そう……なら、私たちもこの靴に感謝しなくちゃね」

「かんしゃってなぁに?」


知りたい年頃の娘は、目を輝かせて新しい言葉の意味を求める。


「ありがとう、っていうことだよ」


分かったとばかりに満面の笑みを浮かべると、拝むように手を合わせて目を閉じた。

そんな様子を夫婦二人で首を傾げながら見つめる。


「お靴さん、パパと一緒に頑張ってくれてありがとー!」


娘の明るく、純粋な感謝の気持ちが伝わってきたのか、妻が横でにっこりと笑っている。


――一番大変な時期を共に乗り越えてきた相棒。

――一番長い時間を過ごしてきた家族。

――一番近くで自分を見守ってくれた恋人。


思い返してみても、あの一年はとても濃く、苦労も多かったが、それだけ充実していたのだ。

そんな時間を見守ってくれた存在ではあったものの、ありがとう、と口に出して言うには照れくさく、自分も胸の中で感謝の言葉を述べる。


――僕も、君のことが大好きだったよ。今まで本当にありがとう……さようなら。


どこからともなく優しい声で、「さようなら、大好きな貴方」と返事が聞こえて気がした――。







予想は当たりましたか?

読んでいただき、ありがとうございました!


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