其ノ陸
* * *
海を緩やかに漂う海月のような月を見上げる。桜の木の枝に横たわる木花咲耶姫は、悩ましげな溜め息をそっとついた。
「溜め息など、君には似合わぬよ」
唐突に地面の方から声が上がる。咲耶姫は瞠若し、枝越しに地を見下ろす。
「月読命……」
「数日ぶりだな、咲耶姫」
地上を照らし出す月光を彷彿とさせる彼の穏やかな笑みに、咲耶姫はふっと口許を緩める。
「ええ。あの童男の村の病も治まり、彼の母親も無事なようよ。蝶がそう告げてくれたわ」
「薄桜の胡蝶か。であれば安心だな」
月読命は確かめる風に頷く。咲耶姫も小さく顎を動かし、けれど、と言葉を続けた。
「いつまで経っても、私に罰が下らないのよ。神の力を奪われ、暫く地上へ降りてこられないようにされてしまうだろうと覚悟していたのに。嬉しいことではあるけれど、逆に不安になるわ」
咲耶姫の訝しげな眼差しに、月読命は僅かに顔を歪める。
「咲耶姫、気付いているか?」
「はい?」
「風だ」
「風……」
月読命の言葉に、彼女ははっと口をつぐむ。風が、そよりとも吹いていないのだ。桜の花弁も鈴も音をたてず、恐ろしいほどに凪いでいる。
「ここ数日、ずっとこうだよ。気付いていなかったか?」
「ええ……。それでは、まさか」
「ああ。風神は、自らがすべての罪を被ったのだろう」
「そんな……! だって……」
咲耶姫は理解し難いといった風に頭を振り、眉間に縦皺を刻む。
「だって、彼はあんなに嫌がっていたのに。それなのに……」
「根はいい奴なんだよ、風神は」
蜜色をした満月の光を彷彿させる柔らかい声が、咲耶姫にそっと語りかけられる。彼女は物憂げに瞳を陰らせ、緩慢な動きで首を左右に振る。
「悪いことを、してしまったわ」
吐息に近い咲耶姫の密やかな呟きに、月読命は労るような笑みを浮かべる。
「これも彼の判断だ。君が憂う必要はない」
「けれど……」
「己の行為を反省し悔いるのではなく、風神の行いと思いやりに感謝をするべきだよ」
幼い我が子を諭すような、優しい月読命の声。俯き、苦悶していた咲耶姫ははっと彼の瞳を見る。月光を浴びて凪ぐ水面のような銀の瞳が、静かに光を弾きながらこちらを見返していた。
咲耶姫は微かに頷くと、静かに息を吸う。芳しい香りを胸に満たし、彼女は咲き誇る大輪の桜のように美しい微笑みを浮かべた。
「ありがとう、風神」
咲耶姫の囁きに、何処からともなく微風が吹いたような気がした。