其ノ弐
咲耶姫が言葉を紡ぎ終えるより早く、二人の近くの茂みがざわめく。神経を張りつめ、音の方向へ二人は同時に視線を投げる。
闇に溶け込んでいる茂みの中から姿を現したのは、一人の童男であった。童男はあちこち傷を負っており、胸の前で懐刀をきつく握りしめていた。
「……何と、数日前に鈴を結いに来た者ではないか」
「童が出歩くには、些か遅い時刻だがな」
咲耶姫は緊張を解き、今にも泣き出しそうな顔をした童男を珍しげに見つめる。月読命は気を緩め、神である咲耶姫と月読命の姿は見えぬ彼に対し、首を傾げる。
童男は歪んだ顔で桜の木へ歩みよると、軋むほど強く奥歯を噛みしめた。
「嘘つき……。嘘つき、神様は皆嘘つきだ! この木に願えば、叶うんじゃなかったのかよ! 何でだよ、何で母さんの病は治らないんだよっ……!」
童男は、木に向かって吠え叫ぶ。彼の両眦からは大粒の涙が溢れ、頬に尾を引いていた。
童男の様子を傍で見ていた木花咲耶姫は、苦し気に顔を逸らす。
「そなたが気に病む必要はない」
月読命は咲耶姫を慰めるように、その黒髪をそっと撫でる。
「分かっている。しかと理解しているつもりなのだがっ――!」
突如、咲耶姫が胸を押さえ苦しげな呻き声を上げる。彼女は立っていることすらおぼつかず、ついにはその場に崩れ落ちた。
「咲耶姫?」
月読命ははっと息をのみ、彼女を起こそうと膝を折る。
「……止、めて。痛い、苦し……」
掠れた声で訴える咲耶姫は、小枝のように細い腕を桜の木へと伸ばす。後を追うように視線を桜へ向けた月読命は、焦燥と驚愕に言葉を失った。
「嘘つき! 嘘つき! 母さんを治せよ!」
木の根元では相変わらず童男が叫んでおり、あろうことか抜き放った懐刀を桜の幹に突き立て、無我夢中に切り刻んでいたのだ。
「止めろ!」
月読命は懸命に叫ぶが、その声は人間である童男には届かない。
喘ぐように荒い息をする咲耶姫の額に、脂汗が滲む。震える両手は胸を押さえ、苦しみと悲しみに瞳が濡れる。
「……頼む、よ。俺の、たった一人の、家族なんだ……!」
童男の声から、覇気が抜ける。と同時に、その手から懐刀が落ち、鈍く光る刀身が地に横たわった。
痛みから解放された咲耶姫は、肩を大きく上下させ、目尻を濡らす涙を拭う。
「お願いだ……神様……!」
童男は桜の幹にすがり付き、静かに涙を流す。
「童男……」
咲耶姫を起こし座らせると、月読命は童男へと歩みよる。
「……流行り病のせいなの、その童男の母上が臥せっているのは」
月読命の背後から、咲耶姫が静かに語りかける。呼吸は幾分か安定しており、痛みもないようだった。
「最近、町の方で病が蔓延しているのよ。きっと、そのせいなんだわ」
「治療法や治療薬は、見つかっていないのだろうか?」
月読命の問いに、咲耶姫は首を左右に振る。
「それは分からないわ。けれど、もし治療できたとしても、その童男の家計に余裕などないのでしょう」